――翌朝、ペナルティボックス面々の姿は都内のコンサートホールにあった。
「でっか……」
会場を前にして、蓮美は見上げた姿勢のまますっかり固まってしまっていた。
これまでいろんな場所でライブを行って来たが、文句なしに過去最大級のハコだ。
普段は、名前を知らない人はいないような有名アーティストなども利用しているような場所。
「会場に飲まれてどうすんだよ。楽屋いくぞ」
「え、あ、うん」
涼夏の言葉にお尻を叩かれながら、ようやく彼女は一歩前へと進み出す。
巨大な会場を前にしても意に介することのない涼夏の背中を、頼もしいなと思う一方で、どこかずるいとも感じた。
とはいえ、涼夏も涼夏で全く緊張がないというわけではない。
現に、昨夜の眠りは浅かったのか、時おり口元には大きな欠伸が覗いていた。
「今回は、バンドごとに楽屋が用意されてるんだよね?」
こちらもまた、見た目ではそれほど緊張した様子のない千春だ。
彼女の場合は、他の人に緊張が伝播すると悪いと思って、隠していると言った方が正しいが。
一方で、涼夏以上に緊張していないのが栗花落。
「今日の私たちは、フジロックへのチャレンジャーである一方で、ライブのゲストでもあるから。待遇はプロのそれと変わらないでしょうね」
「な……なんだか場違いなところに来てしまったような気がします」
その後ろで、蓮美以上に縮こまっている緋音。
五人五様の会場入りである。
「わ、すご。見て。ケータリングの食事とか初めて見た」
蓮美が見やる楽屋が並ぶ裏方のエントランスには、真っ白なテーブルクロスを敷いた仮設テーブルの上に、ホテルビュッフェなどで見る銀の保温皿に乗った温かい料理や、色とりどりのお菓子、そして飲み物の数々が用意されていた。
「おいしそうだけど、流石に今、喉を通る気配はないかな」
「馬鹿言え。本番は夕方からだぞ。昼にはちゃんと食えるだけ詰め込んどけ」
苦笑する千春に、涼夏は小言のように吐き捨てる。
彼女なりに気遣ってのことだし、言ってることももっともなのだが、緊張を通り越した面々には彼女の言葉を飲み込むほどの活力はまだなかった。
「そんなひきつった顔を並べて、まともな演奏できんの?」
不意に声をかけられて、一行はエントランスの片隅へ振り向く。
すると、同じくちょうど会場入りしたところだったのか。大きなギターケースを背負った向日葵と、その隣を意気揚々と歩く海月の姿があった。
一瞬、あっけに取られていた蓮美は、はっと思い出したように頭を下げる。
「向日葵さん……あ、おはようございます」
「おはよう。ちゃんと寝たの? 顔真っ青だけど」
「寝たと言えば寝たし、寝れなかったと言えば寝れなかったかも……」
寝てはいる。だが小一時間ですぐに目を覚ましてしまい、無理やりまた寝る。
蓮美に限らす、栗花落以外のほとんどは、昨晩はその繰り返しだった。
「向日葵さんたちは、流石というか、全然緊張してなさそうですね」
「まあ慣れてるし。それでも、まったく緊張してないわけじゃないのよ」
言いながら、向日葵はいつものキャップを深くかぶりなおす。
「それでも、緊張を力に変えるのがプロってものだから。覚えときなさい」
「は、はい」
「向日葵は良いだろうけど、海月はライブすら久しぶりだろ。ちゃんとやれんのか?」
「えー? うん、海月はねー」
それまでのんびりとした笑顔を浮かべていた海月だったが、不意にガタガタ震えながら、ゾンビのように涼夏ににじり寄る。
「どどどどどーしよ、りょーちゃん。朝から心臓バクバク止まらないんだけど!?」
「知るかよ。自分で何とかしろ」
「もう、緊張で朝から何も喉を通らなくって――って、やー! 何あれ、おいしそうなんだけど!? 食べ放題? ねえ、食べ放題? お腹ぺこぺこなんだけどー、もー!」
「勝手に食ってろ」
ケータリングを見つけた海月は、目を輝かせながらさっそく飛んで行ってしまった。
怪訝な顔でそれを見送った向日葵は、溜息をこぼしてから涼夏に視線を移す。
「一応、ディアロスのが順番先だけど、アンタはそっちの楽屋にいる?」
「特に考えてなかったな。何か確認することあるか?」
「いいえ、特には。こないだの練習通りやってくれたら、アタシ的には何の不満も不安もないわ」
「だったらペナボの方に居るわ。打ち合わせたいこともあるしな」
言いながら涼夏が栗花落にアイコンタクトを送ると、栗花落も笑みを浮かべながら頷き返す。
それを見て、蓮美がムッとした顔で彼女を睨む。
「涼夏さん、バンドのことなら全員にちゃんと共有してよね」
「そこまでのことじゃねーよ。どうしてもってなら罰金箱に一万円突っ込んどくから」
「だから、そういう使い方したら罰金の意味がないってー!」
文句を垂れる蓮美だったが、代わりにそれまでの緊張がいくらか和らいでいるようだった。
見届けた向日葵は、小さく咳ばらいをして、自分たちの楽屋を後ろ手で指さす。
「それじゃ、アタシたちあそこだから。何かあったら」
「おう」
向日葵たちと挨拶を交わしている間に、他のバンドやアーティストたちも続々と会場入りを始めていた。
フジロックは「ロック」と銘打ってはいるものの、ステージで披露される音楽性は何もロックに限らない。
当然、この本戦に残っている者たちもロックバンドに限らず、多種多様な個性を放っている。
もっとも、その点ではサクソフォンやバイオリンのケースを抱えたペナルティボックスも例外ではない。
エントランスに立ち尽くす一行は、数多の物珍しそうな目にさらされる。
「私たちも楽屋に行こうか」
「そ、そうですね」
千春に促されて、そそくさと楽屋へと引っ込むことにする。
それは、最終的にフジロック参加を賭けて争う、ほかの実力あるアーティストたちの姿をあまりまじまじと見たくはないという気持ちもあったのかもしれない。
戦う相手を見ることで、今以上に気持ちが萎縮してしまうのは、みな防ぎたかった。
部屋に入って、自前の楽器がある面々はすぐにケースから取り出して演奏前の調整を始める。
本番は夕方からだが、これからアーティストごとに順番に簡単なリハがある。
音合わせがメインなのでゲネプロほどしっかりはしていないが、演奏予定の各曲の中から音響の気になるパートを実際に演奏したり、試しに一曲分を通しで演奏してみるくらいの時間は与えられている。
そして、本番前に音を出せるのはこれが最後でもある。
「リハで確認するのは、『FIREWORK』のBメロ。『サロメ』のサビとCメロ。あと――『サマバケ』の通し。これでいくからな」
ベースのチューニングをしながら口にした涼夏の提案に、他のメンバーは異論なく頷く。
――『Summer Vacation』。
それが、蓮美の書いた曲のタイトルだ。
この単語をよく耳にしていた面々からすると、先のバンドに対する当てつけのように聞こえるかもしれないし、そういった気持ちが蓮美の中に全く無かったわけではない。
ただ、そこにあるのは意地悪心とかではなく、一種のリスペクトとインスピレーションの元だ。
もちろん、曲の中身そのものは涼夏たちのバンド『サマーバケーション』とは何の関係もない。
しかし、曲の中で描いた、歌詞で語る、そして音に載せる想いには、『サマーバケーション』というかつてのバンドの生きざまや、それを受けて発足した自分たち『ペナルティボックス』の在り様、そして〝その先〟への希望が注ぎ込まれている。
出来上がった曲を栗花落にアレンジしてもらい、みんなに配布した時、蓮美ははじめ、涼夏のキツイお小言が待っているのではないかとビクビクしていた。
ところが涼夏は楽譜を一読し、その場で難なく自分のパートをさらりと演奏して見せると、内に入るようなトーンで呟いた。
「いいな、これ」
その言葉に救われた気分になりながら、同時に確かな希望が蓮美の中に見え始めた。
ニュージェネに向けての涼夏のあの提案を跳ねのけて、また違った未来をこのバンドで紡いでいくことができるんじゃないだろうか。
涼夏を真正面から説得できるんじゃないか。
だからこその、昨日の宣言だ。
蓮美なりに、今日はニュージェネの舞台、ライバルバンドとなる向日葵たちディアロス、そして涼夏と戦うつもりでここに立っている。
「ペナルティボックスさん、リハの待機お願いします」
やがてドアがノックされて、案内のスタッフが楽屋を訪れる。
忘れ物がないかを確認した後に、一斉に、すくりと立ち上がった。
「いくぞ」
涼夏の声に促され、ぞろぞろと楽屋を後にする。
もう引き返せない。
戦いのゴングは、とっくに鳴らされているのだ。