ステージを終えた涼夏は、汗だくのままペナルティボックスの楽屋へと戻ってきた。
本当ならディアロストサマーの楽屋で余韻に浸りながら感想戦でもしようところなのだろうが、向日葵に蹴飛ばされるようにして追い出されてしまった。
「アンタはさっさとあっちのバンドいく! 休んでる暇なんてないでしょ!」
そりゃそうだ、と思う反面で少しくらい小言を吐き捨てる時間をくれてもとも思う。
良い演奏だった。サマバケ時代なんて棟に越えている……が、最高じゃない。
あのメンバーならもっといいステージができる。
それは、自分たちの技量が上がったからか、それとも耳が肥えたからか、はたまたその両方か。
今は今として出し切ったうえで、なお先があることを涼夏は肌で感じていた。
「お疲れ様――うわっ、汗だくじゃないの」
楽屋に戻った涼夏を出迎えた千春は、慌てて荷物からタオルを取り出して涼夏の頭に放り投げる。
涼夏は、顔と首に垂れる汗を拭ったあと、タオルを首にかけてソファーにどっかりと腰を掛けた。
「……蓮美は?」
ふと部屋を見渡すと、その姿がない。
「さっき、ディアロスの演奏が終わったあと部屋を出ていきましたけど……?」
「トイレじゃない?」
きょとんとして答えるメンバーたちに、涼夏も「そうか」とさほど気に留めた様子もなく、ペットボトルの水を煽る。
乾いた身体に水分が染みわたり、八割ほど残っていた水がひと息で空になった。
「蓮美さん、帰ってこないわね?」
それから半時ほど経って、栗花落がぽつりとつぶやくように言う。
「確かに……もしかして迷ってる?」
「そ、それなら迎えに行ったほうが良いんじゃ……?」
「……いや」
涼夏が、低く唸るように否定する。
「逃げやがったな」
そう言って、いら立ちを露わにするように足を踏み鳴らして、彼女は立ち上がった。
とにもかくにも、メンバーで手分けをしてその姿を探す。
千春が言ったように、単に迷子になっている可能性もなくはないからだ。
一応、ひょっこり戻ってきた時やほかの来客対応のために栗花落は楽屋に残ったが、誰もアテにはしていなかった。
千春と緋音が、しらみつぶしに会場を探す中で涼夏にはなんとなく、ある程度のアタリがついていた。
道すがら他のものには目もくれず、〝それ〟だけを見つけるたびに肩をいからせながら中を確認する。
そうして何件目か――ようやく〝らしい〟場所を見つけて、中に誰がいるのか確認することもなく、涼夏は隔たれた扉を足の裏で踏みつけるように蹴りつけた。
「ひゃっ!?」
ドゴンと大きな音が立つが、個室の扉は思ったより頑丈で蹴破られるようなことは無い。
しかし、中から響いた悲鳴が確かに蓮美のものだったのを聞いて、扉に額を押し付けるほど顔を寄せて吠える。
「てめえ、この期に及んで」
「り、涼夏さん?」
ほかに誰もいない女子トイレで、扉一枚隔てて二人の声が響く。
「怖気づいたか? 昨日の宣言は何だったんだよ?」
「そ、そういうんじゃ……」
「じゃあ、どういうんだよ?」
ごくりと、個室の中から生唾を飲み込む音までがよく聞こえる。
蓮美は、戸惑うような息遣いで喉を鳴らすと、絞り出すように返事をする。
「……カッコよくて」
「は?」
「向日葵さんたちと演奏する涼夏さんが……カッコよくて」
「それが、なんで逃げる理由になるんだよ」
「だって、あんなにカッコイイ涼夏さん、見たことなかったから」
「はぁ?」
理解が追い付かずに、涼夏は素のまま問い返す。
「……わけがわかんねぇ」
「わかんないよ……涼夏さんはいつだって、みんなの先頭を走ってくから。振り返ることなく、一番カッコイイ生き方をしてるから」
「一番って、んなわけないだろ」
涼夏は、まだまだ伸び足りない自分の襟足をかきむしるように掴む。
「何度だって失敗してる。むしろ成功したことなんて一度もない。それがカッコイイとか、訳がわからん」
「そういうとこだよ」
蓮美の指摘に、なおも納得できないまま、涼夏は思考を放棄するように天井を仰いだ。
仕方なく、扉にどっかりと背中を預けて話題を変える。
「そもそも、ここまで来て、どんな理由があろうと逃げていいわけがねーだろ。バンドにも、運営にも迷惑がかかる」
「それは……分かってるよ。たぶん、ステージに立てばいつもと変わらないように演奏はできる」
演奏は、身体に染みついている。
いつも通りを繰り返すことは造作もない。
「でも……負けたって思っちゃったんだもん。あんなステージ見せられて。あんなカッコイイ涼夏さん見せつけられて。私、あれ以上に涼夏さんのことカッコよく見せることなんて、できない」
「そこが分かんねぇ」
涼夏が、吐き捨てるように答える。
「てめーが良い演奏をするかどうかだろ。あたしがどう見えようが関係ねぇ」
「関係あるよ。だって、涼夏さんには、いちばんカッコよく見えるバンドで演奏してて欲しいから」
「あたしがどこでどういう演奏しようと、あたしの勝手だろ」
「だったらなんで、負けたらバンド解散するとか、そういう条件つけるの……!?」
蓮美の、悲痛の叫びが響いた。
「ただステージに立って、良い演奏をして。結果は結果で、オーディションに受かっても受からなくても、これが今の結果だって納得して、それで次のステージに向かってみんなで再出発して……それじゃダメなの!?」
「……前ならそれでも良かった」
「だったら――」
「でも、今はダメだ」
涼夏は、キッパリと言い切る。
「サマバケが解散して、あたしは自分のためのバンドを探そうって思った。自分が一番気持ちよく演奏できる場所――てめーの言葉で言えば、一番カッコよく演奏できる場所つってもいい。ペナルティボックスだって、そのつもりで作った。その気持ちは結成当時も、今も、何も変わんねぇ」
「じゃあ……」
蓮美の言葉に、湿っぽい嗚咽が混じる。
「ペナルティボックスは……そういう場所じゃなくなったってこと?」
「違う。ああ、いや……違わねぇ。最初から何も、違わねぇよ」
「え? ん……ええ?」
今度は蓮美が涼夏の言葉を理解しきれず、扉の向こうで戸惑ったように首をかしげる。
「あー……悪い。あたし、口下手だから。どう言えば正しく伝わるかなんて、分かんなくて、思いついたままに話す」
「う……うん」
「ペナルティボックスは、確かに自分のために結成した。あたしがやりたい音楽を、やりたいように世間にぶちまけるため。もう一度、メジャーに返り咲くため。でも、結局それは手段でしかねぇ。音楽を披露する……場所? が必要なだけだ」
まとまり切らない言葉を、ひとつひとつ拾ってはくみ上げるように、涼夏が語る。
「衝撃だ。頭の中を空っぽにして、裸の自分でなすが儘に浴びるしかないような衝撃。それを、世界中にぶちかましたいと思った。生まれて初めて、自分のじゃなく……そう、てめーだよ」
ひと息つくように呼吸を挟んで、もう一度、確かめるように言葉を放つ。
「てめーだよ。てめーの音だ。スタジオで零れ聴いた、あの音を。アタシは、世界中のやつに喰らわせてやりたいと思った」
「……え?」
「そうだ。はじめから何も変わっちゃいない。あたしはずっと、てめーの――蓮美の音を聴かせるために、このバンドをやってきた。スタジオで聴いた時。それから、大学の便所でセッションした時もそうだ。ヤベェって。スゲェって。初めて音楽に〝自分〟を失った。こいつとバンド組みてぇって。こいつのベーシストになりてぇって。最初から、ずっと」
「いや……でも、そんな……」
戸惑ったように、蓮美の言葉が震える。
嗚咽じゃない。ただただ、気持ちと思考の整理がつかない。
なぜなら――
「初めて、負けたと思ったんだ。音楽で。だから勝ちたい。隣で引けを取らないヤツになりたい。あたしは……てめーの背中を追っかけるつもりで、今日までペナボのベースをやってきた」
――追いかけているのは、自分の方だと思っていたから。当たり前に。誰が見ても、そうであるように。
しかし、涼夏にとっては蓮美こそが追いかける背中であり、目標だった。
たった〝一音〟で、彼女の常識を破壊した。ギターの要らないバンドをやってみたいと思わせた。その音にひれ伏して。
「じ……じゃあ、なんで勝っても負けても、私を遠ざけようとするんですか!? なんか……もう、全部矛盾してます!」
「今のあたしじゃ、てめーにはまだ釣り合わねえんだよ。あたしが望む音楽に、あたし自身が追い付いてない」
「だからって、何も……バンド続けて、一緒に成長すれば」
「いいや。てめーはてめーで、アメリカでもっと価値を高めて来いよ。今のままの器で収まる女じゃねぇ。むしろ、今のまま演奏を続けても、てめーもてめーで〝そこ〟止まりだ。あっちで力をつけて、帰ってくるまで、あたしもあたしで日本で力をつけておく。てめーのどんな音も支えられるベースになってやる」
それは、気持ちの吐露であり、宣言だった。
蓮美が昨日、涼夏に突き付けたように。
今度は、涼夏から蓮美への。
ずずっと、扉の向こうで鼻をすする音が響く。
それから少しだけ間を置いて、扉にゴツンと固いものがぶつかるような音がした。
それが、蓮美が扉に額を押し付ける音だとは、涼夏はもちろん気付くはずはない。
「納得はしてないけど……分かりました。大丈夫です……私、演奏、します」
「ああ」
「でもやっぱり……私は、ここがいい。ペナルティボックスで……涼夏さんの隣が良い」
「……ありがとな」
唐突なお礼の言葉に、蓮美はもう一度、扉に向かってゴツンと額を押し付けるように打つ。
「あたしにも、てめーにも、まだ先がある。今日のステージで、それを証明してやるよ」
蓮美はそれ以上、何も言葉を返さなかった。
ただ、ゆっくりと開いた個室の扉が、彼女にとっての覚悟と返事として。
そのあとすぐ、涼夏は蓮美を連れて楽屋へと戻った。
先に帰っていた他のメンバーたちが、心配そうに出迎えて、蓮美は何でもないことのように笑って、謝った。
「緋音、ちょっと」
「え……? あ、は、はい」
その傍ら、涼夏が緋音を呼ぶ。
楽屋の隅で、何かを伝えられた緋音は、驚いたような、戸惑ったような、挙動不審に視線を泳がせた。
「それって……え……」
「頼む」
珍しく下手に出られたのに対してさらに驚いて、彼女は居心地が悪そうに視線を落とす。
ただ、涼夏の頼みを断る理由も根性もなく、最後は口ごもりながらも頷いた。
「わ……わかり、ました」
緋音の返事に、涼夏も納得した様子で頷き返す。
そして、彼女たちの出番はすぐそこまで迫っていた。