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第39話 愛読書が辞書でもいいじゃん

こんばんは。

今週も時間ができましたので、

統合失調症エッセイを書きに来ました。


確か先週分のエッセイにおいて、

更年期障害の漢方薬を切り替えたことを書きました。

当帰芍薬散から加味逍遙散へ。

さらに、町のお医者様の処方で、

動悸を抑えるお薬を処方してもらいました。

更年期障害になりますと、

ホットフラッシュと言う、突然のぼせるとか、

あるいは汗がだくだく出てくるなどの症状が出ます。

それらの症状を抑えるのに、

漢方を変えて動悸を抑えるお薬を処方してもらいました。

当帰芍薬散を飲み切ってから、お薬を切り替えて数日。

お薬の効果があるのか、ホットフラッシュは起きていません。

また、更年期障害にあるような、抑うつやイライラなども抑えられています。

もうひとつ、これがお薬によるものかはわかりませんが、

頭の中が突然静かになりました。

今まで、見るもの聞くもの感じるもの、

全てが脳内で言葉になっていたので、

脳内がとにかく言葉であふれかえっていたのですが、

その脳内が、静かに整頓されているような感覚になりました。

ものの例えになりますが、

物があふれかえったゴミ屋敷が、

突然整然と作品が並ぶ美術館になったくらいの感覚です。

ものすごく静かなので何事と思いました。

体調のこともあるかもしれませんが、

思ったことや感じたことが、全部脳内で言葉になるということが、

いったんおさまって、

言葉にしたいものをちゃんと選べるようになった感覚です。

これはお薬や漢方のことと関係があるのかはわかりません。

わからないですけれど、

いっぱいいっぱいだった脳の中に、心地いい余白ができています。

メンタルにも余裕ができていますので、

今のところいい感じです。

多分私のように、脳が壊れてポンコツになりますと、

脳の中で考えることが、

ゴミ屋敷のように散らかりやすいんじゃないかなと思います。

お薬なり、カウンセリングなり、

あとは、こうしてエッセイを書くなりして、

脳の中がきれいになっていければ、

苦しいとかつらいとかが少なくなるような気がします。

つらいことは少ない方がいいです。

メンタルがつらい方は、お医者様も視野に入れてみてください。

お医者様はその道のプロです。

きっと良き手段を示してくれるでしょう。


さて、今回は、

愛読書が辞書でもいいじゃん、です。


前回のエッセイで、すごく眠いことを書きましたが、

ちらっと、意識が少しある時に漢和辞典を読んでいたと、

書いたような気がします。

あと、意識が続けば図書室に行って何か読んでいたとか、

ざっくりとそんなことを書きました。

学生時代の愛読書は漢和辞典で、

意識が続けばジャンルを問わずにいろいろ読んでいました。

まぁ、眠くて意識はあまり続きませんでしたが、

読んだものは私の根源的なところまで深くかかわっています。


思えば、辞書は自由であったように思います。

言葉の意味や用法などは書かれているものでしたが、

思想などはなかったように思います。

こう考え、こう生きなければならないということはなく、

すべての言葉が同じように、

言葉として平等であるように思いました。

そこに、汚いもきれいもなく、

ただ、言葉が言葉としてある。

どんな言葉も存在してよくて、

その意味を知ることができる場所として、

辞書はとても自由な場所だったと思うのです。

新しい言葉がどんどん出てくる時代ですが、

すべての文章や話し言葉が、

すべて新しい言葉になっている訳でもありません。

古い言葉がすべてなくなっている訳でもありません。

また、歴史のことを知るためには、

辞書にあるコラムもとても役に立ちます。

すべてを頭に入れようというわけでなく、

流し読みでも感覚がつかめます。

その自由さがとても好きでした。


私は学生時代から変わり者でした。

いじめに遭っていたような気がしますが、

そのあたりの記憶は、どうもつらいものとして、

脳内の箱の中に封印されています。

どんなことがあったのか、いまいち思い出せないですけれど、

なんだかつらかったという漠然とした物だけが残っていて、

記憶の箱を開けずにいます。

開けたら、すごくつらくなるかもしれません。

あるいは、眠りすぎていて記憶が薄いだけかもしれません。

そのあたりはよくわかりません。

記憶の箱をちゃんと開いたとき、

寝ていた記憶しか残っていない可能性もあります。

ただ、漠然となんだかつらかったものと思っているので、

学生時代の記憶の箱は開いていないです。


ただ、いじめに関する封印された記憶とは別に、

辞書が楽しい記憶や、本が楽しい記憶はあります。

ゲームもそれなりにやりました。

辞書がとても自由であった場所であると同時に、

小説や漫画などは、

その辞書の言葉を用いてのものになります。

セリフの全くない漫画というのもあるのかもしれませんが、

基本は絵の表現と言葉の表現の組み合わせになるように思います。

言葉はこんなにも自由なんだとも思います。

また、ここに夢中になったゲームなどを加えますと、

こんなにも自由に世界を作ってもいいんだと思うことになります。

世の中にはたくさんの創作物があります。

すべてに触れていたら人生が足りません。

面白いものや興味のあるもの、

あるいは全然自分の知らないもの、

いろいろな創作物の世界があります。

そのすべての土台に言葉があります。

辞書を読むことは、創作物の世界の土台をしっかりさせること。

そして、他の創作物に触れることは、

自分の創作を作るヒントを得ると同時に、

まずはその創作物を楽しむこと。

世界を作るには、全くゼロからでは上手く行きません。

いろいろな創作物は、自分の世界を作るうえでの最良のお手本です。

こんな作り方をすればこれが表現できる。

こうすれば楽しいと思わせることができる。

それを学ぶのには、やはり創作物に触れることです。

創作をするにあたっては、いろいろな世界を見ておいた方がいいです。

そして、その世界を見ていくにあたり、

言葉の道しるべとなるのが辞書です。

今はネット検索またはAIなどで、

事細かに調べることができるかもしれませんが、

いろいろな情報を浴びるように読むことができるのは、

紙の辞書が強いと思うのです。

興味のあることないこと、思想の偏り無しに、

ただ、言葉が貴賤なく平等に集められて、

どの言葉も星のようにきらめいていて、

夜に航海する船を導くようです。

この言葉でどんな世界を作ってもいい。

言葉の組み合わせはとても自由だと感じました。

辞書というものは、私にとってなくてはならないものでした。


どれだけ私が変わり者であっても、

たくさんの人間の中のひとつに過ぎず、

また、たくさんの人間のそれぞれが、

どこかしら変わっているものでもあり、

それが個性か病気か、あるいはいいところと言われるのかもしれません。

その人間というものの個性は、

そのまま言葉にも当てはまるように思います。

同じようなことを表現する言葉はあるかもしれませんが、

言葉はすべてが同じではありません。

誰かが書けば違う言葉にもなります。

統合失調症の私の書く言葉は、

私という存在が編んだ言葉です。

誰の言葉でもありません。

言葉の土台は辞書にありましたが、

そこから私の創作を組み立てていったのは、

たくさんの創作物や、私の経験、私の思い、

いろいろなものを通して作り出してきた、生きた言葉です。

これからも、辞書を読みつつ、

私を表現できればと思います。


また、時間がありましたら、

統合失調症エッセイを書きに来ます。


ではまたいずれ。

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