こんばんは。
今週も時間ができましたので、
統合失調症エッセイを書きに来ました。
確か先週分のエッセイにおいて、
更年期障害の漢方薬を切り替えたことを書きました。
当帰芍薬散から加味逍遙散へ。
さらに、町のお医者様の処方で、
動悸を抑えるお薬を処方してもらいました。
更年期障害になりますと、
ホットフラッシュと言う、突然のぼせるとか、
あるいは汗がだくだく出てくるなどの症状が出ます。
それらの症状を抑えるのに、
漢方を変えて動悸を抑えるお薬を処方してもらいました。
当帰芍薬散を飲み切ってから、お薬を切り替えて数日。
お薬の効果があるのか、ホットフラッシュは起きていません。
また、更年期障害にあるような、抑うつやイライラなども抑えられています。
もうひとつ、これがお薬によるものかはわかりませんが、
頭の中が突然静かになりました。
今まで、見るもの聞くもの感じるもの、
全てが脳内で言葉になっていたので、
脳内がとにかく言葉であふれかえっていたのですが、
その脳内が、静かに整頓されているような感覚になりました。
ものの例えになりますが、
物があふれかえったゴミ屋敷が、
突然整然と作品が並ぶ美術館になったくらいの感覚です。
ものすごく静かなので何事と思いました。
体調のこともあるかもしれませんが、
思ったことや感じたことが、全部脳内で言葉になるということが、
いったんおさまって、
言葉にしたいものをちゃんと選べるようになった感覚です。
これはお薬や漢方のことと関係があるのかはわかりません。
わからないですけれど、
いっぱいいっぱいだった脳の中に、心地いい余白ができています。
メンタルにも余裕ができていますので、
今のところいい感じです。
多分私のように、脳が壊れてポンコツになりますと、
脳の中で考えることが、
ゴミ屋敷のように散らかりやすいんじゃないかなと思います。
お薬なり、カウンセリングなり、
あとは、こうしてエッセイを書くなりして、
脳の中がきれいになっていければ、
苦しいとかつらいとかが少なくなるような気がします。
つらいことは少ない方がいいです。
メンタルがつらい方は、お医者様も視野に入れてみてください。
お医者様はその道のプロです。
きっと良き手段を示してくれるでしょう。
さて、今回は、
愛読書が辞書でもいいじゃん、です。
前回のエッセイで、すごく眠いことを書きましたが、
ちらっと、意識が少しある時に漢和辞典を読んでいたと、
書いたような気がします。
あと、意識が続けば図書室に行って何か読んでいたとか、
ざっくりとそんなことを書きました。
学生時代の愛読書は漢和辞典で、
意識が続けばジャンルを問わずにいろいろ読んでいました。
まぁ、眠くて意識はあまり続きませんでしたが、
読んだものは私の根源的なところまで深くかかわっています。
思えば、辞書は自由であったように思います。
言葉の意味や用法などは書かれているものでしたが、
思想などはなかったように思います。
こう考え、こう生きなければならないということはなく、
すべての言葉が同じように、
言葉として平等であるように思いました。
そこに、汚いもきれいもなく、
ただ、言葉が言葉としてある。
どんな言葉も存在してよくて、
その意味を知ることができる場所として、
辞書はとても自由な場所だったと思うのです。
新しい言葉がどんどん出てくる時代ですが、
すべての文章や話し言葉が、
すべて新しい言葉になっている訳でもありません。
古い言葉がすべてなくなっている訳でもありません。
また、歴史のことを知るためには、
辞書にあるコラムもとても役に立ちます。
すべてを頭に入れようというわけでなく、
流し読みでも感覚がつかめます。
その自由さがとても好きでした。
私は学生時代から変わり者でした。
いじめに遭っていたような気がしますが、
そのあたりの記憶は、どうもつらいものとして、
脳内の箱の中に封印されています。
どんなことがあったのか、いまいち思い出せないですけれど、
なんだかつらかったという漠然とした物だけが残っていて、
記憶の箱を開けずにいます。
開けたら、すごくつらくなるかもしれません。
あるいは、眠りすぎていて記憶が薄いだけかもしれません。
そのあたりはよくわかりません。
記憶の箱をちゃんと開いたとき、
寝ていた記憶しか残っていない可能性もあります。
ただ、漠然となんだかつらかったものと思っているので、
学生時代の記憶の箱は開いていないです。
ただ、いじめに関する封印された記憶とは別に、
辞書が楽しい記憶や、本が楽しい記憶はあります。
ゲームもそれなりにやりました。
辞書がとても自由であった場所であると同時に、
小説や漫画などは、
その辞書の言葉を用いてのものになります。
セリフの全くない漫画というのもあるのかもしれませんが、
基本は絵の表現と言葉の表現の組み合わせになるように思います。
言葉はこんなにも自由なんだとも思います。
また、ここに夢中になったゲームなどを加えますと、
こんなにも自由に世界を作ってもいいんだと思うことになります。
世の中にはたくさんの創作物があります。
すべてに触れていたら人生が足りません。
面白いものや興味のあるもの、
あるいは全然自分の知らないもの、
いろいろな創作物の世界があります。
そのすべての土台に言葉があります。
辞書を読むことは、創作物の世界の土台をしっかりさせること。
そして、他の創作物に触れることは、
自分の創作を作るヒントを得ると同時に、
まずはその創作物を楽しむこと。
世界を作るには、全くゼロからでは上手く行きません。
いろいろな創作物は、自分の世界を作るうえでの最良のお手本です。
こんな作り方をすればこれが表現できる。
こうすれば楽しいと思わせることができる。
それを学ぶのには、やはり創作物に触れることです。
創作をするにあたっては、いろいろな世界を見ておいた方がいいです。
そして、その世界を見ていくにあたり、
言葉の道しるべとなるのが辞書です。
今はネット検索またはAIなどで、
事細かに調べることができるかもしれませんが、
いろいろな情報を浴びるように読むことができるのは、
紙の辞書が強いと思うのです。
興味のあることないこと、思想の偏り無しに、
ただ、言葉が貴賤なく平等に集められて、
どの言葉も星のようにきらめいていて、
夜に航海する船を導くようです。
この言葉でどんな世界を作ってもいい。
言葉の組み合わせはとても自由だと感じました。
辞書というものは、私にとってなくてはならないものでした。
どれだけ私が変わり者であっても、
たくさんの人間の中のひとつに過ぎず、
また、たくさんの人間のそれぞれが、
どこかしら変わっているものでもあり、
それが個性か病気か、あるいはいいところと言われるのかもしれません。
その人間というものの個性は、
そのまま言葉にも当てはまるように思います。
同じようなことを表現する言葉はあるかもしれませんが、
言葉はすべてが同じではありません。
誰かが書けば違う言葉にもなります。
統合失調症の私の書く言葉は、
私という存在が編んだ言葉です。
誰の言葉でもありません。
言葉の土台は辞書にありましたが、
そこから私の創作を組み立てていったのは、
たくさんの創作物や、私の経験、私の思い、
いろいろなものを通して作り出してきた、生きた言葉です。
これからも、辞書を読みつつ、
私を表現できればと思います。
また、時間がありましたら、
統合失調症エッセイを書きに来ます。
ではまたいずれ。