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第47話 カミサマという救いはあるのか

こんばんは。

今週も時間ができましたので、

統合失調症エッセイを書きに来ました。


今、土曜日の深夜に書いています。

お酒を飲みながらです。

ラインナップは、オリオンビールと翠ジンソーダ。

キリンの本搾りライム。

おつまみにローソンの生ハムです。

ついでにビーノも開けました。

ビールには枝豆がいいかなと思って。

今週は海の日でちょっと連休が長いので、

いつもの連載の他に、

止まってしまっている連載もちょっと進められればと思います。

ログボックスやネオ水戸、それから耳かき職人も進めたいです。

できればマタイの妄想癒術師も進めたいですし、

斜陽街のストックも増やしておきたいです。

梅雨が明けて日中ものすごい暑いので、

どうにもぐったりしています。

時々水分不足でフラフラしています。

執筆は身体が資本です。

書けるだけの健康がなければ書けません。

心身ともにある程度整っていないと書けません。

もっと極端を言いますと、死んでは書けないのです。

書けるだけの健康がないと書けないのです。

この暑さでぐったりしていますが、

暑さを何とかしないと、身体を壊して書けなくなってしまいます。

なんとか対策をしていって、

今後も長く書けるようにしたいと思います。

執筆は続けられたものが強いと思います。

大風呂敷を広げていても、

最後に話をまとめられないまま死んでしまっては、

相当、名のある小説家でない限り、

誰にも覚えられないまま未完成のものとして消えてしまいます。

生きて、書いて、いくつも作品を出していったものが、

小説家として強いように思います。

完結した作品がたくさんあれば、

それはものすごい力があるということです。

全てが傑作ということはないと思います。

それでもとにかく書くことを続けられること。

それが一番の力であるように思います。

その力の底にあるのは、生きて健康で執筆できること。

数を書くならば生きていないとね。


さて、今回は、

カミサマという救いはあるのか、です。


カタカナでカミサマとするのは、

とりあえず神様仏様その他もろもろを、

全部まとめてそれっぽいものとして、雑にまとめたものの言葉として、

カミサマとしております。

特定宗教でなく、

いろいろな宗教にあるそれっぽいもの。

それらをひっくるめた言葉として、

カミサマとカタカナで書かせていただきます。


私は、地獄も救いも脳の中で起きていると考えている節があります。

外部で何が起きていても、

脳の中でそうだと判断をすれば、

どんな状況でも救いがあるし、

どんな状況でも地獄になると思います。

このあたりは脳内物質とかホルモンとかの働きもあるのかもしれません。

あるいは、考え方の癖もあるのかもしれません。

否定されることに慣れている人は、

私は肯定されてはいけないという考え方の癖がつくかもしれません。

あるいは、幸せになってはいけないという考え方の癖がつくかもしれません。

手を差し伸べられても、この手を取って幸せになってはいけない、

という考え方になるかもしれません。

今まで生きてきた環境から、考え方の癖が出来上がってしまい、

その考え方の癖から、常に地獄にあらねばならないと考えるような、

そんな生き地獄も、脳の働きから来るのではないかと思うのです。


信じるものは救われると、

宗教では言われてきたと聞きます。

宗教にもよりますけれど、

死後の世界で極楽に行けるとか、

何かをすることで徳が積まれるとか、

そんなことがあるように聞いています。


カミサマは果たしてたくさんいる私たちをすべて見ているのか。

すべてを救おうとしているのか。

そんな存在は本当にいるのか。

カミサマがいるとするならば、

どうして苦しむ人が減らないのか、

この世はどうして調和しないのか、

死後の救済は本当にあるのか。

苦しむだけ苦しんで死んで無になるのではないか。

そう思うこともあります。


ずっと前ですが、

キリスト教系短期大学に入っていたことがありました。

統合失調症を発症して、

短大を中退しました。

私は短大を卒業することもできない。

私には価値がない。

私を救ってくれる存在はない。

私は価値がないから生きていてはいけない。

カミサマはいないと思っていました。


統合失調症になって、

幻聴を聞くこともありました。

そのどれもが私を否定するもので、

どこからともなく死ね死ね死ねと聞こえてきたり、

向こうで会話している人たちが私のことを悪く言っていると聞こえてきたり、

私は生きているだけで悪なんだと。

迷惑をかけるだけの存在なんだと。

そう思うまでに時間はかかりませんでした。

助けてくれる存在はいない。

その時はそう思っていました。


なんで私がとは思いませんでした。

私は悪い存在だから苦しんで当然だと思いましたし、

救ってくれる存在もいないと思っていました。

考え方の癖と、統合失調仕様の症状と、

いろいろな複合した条件があって、

私は救われるべきではないと思っていたのです。

その時私にはカミサマがいませんでした。


世の中から隠れるように生活して、

インターネットでいろいろな仲間ができました。

顔はわかりません。

本名もわかりません。

交わされるのは言葉ばかりです。

その言葉がどれほど私を救ってくれたでしょう。

人を貶める言葉も存在するかもしれませんが、

私にかけられた言葉はとても優しいものでした。

私を悪とすることなく、

私を私として肯定してくれました。

言葉にこれほどの力があるとは思いませんでした。


今思えば、言葉こそカミサマであるのかもしれないと思うのです。

カミサマという超常的現象でなく、

カミサマは言葉に宿るのかもしれないと思うのです。

人が交わす言葉にこそカミサマは宿り、

言葉が人を救うのかもしれないと思うのです。

私が小説を執筆するのは、

あるいは、私を救ってくれたような言葉を書きたいと思うからかもしれません。

誰かを救うカミサマのような言葉を執筆したいのかもしれません。

はじまりは、元彼に言われて何か書いてみたらどうかな、でした。

それから、言葉を書き連ねていって、

たまに感想がもらえることもありました。

その感想の言葉に救われて、

私は執筆を続けていきました。

カミサマは言葉にいるのです。

その言葉は脳に届いて、

脳に救いを届けてくれるのです。

救いも地獄も脳にあると思うのです。

そこにカミサマの救いを届けるのは言葉であるのかもしれないと思うのです。

いろいろなものを見たり、聞いたりも、

救いを届けることができるかもしれませんが、

言葉もまた、カミサマの救いを届けられると思うのです。

たくさんの言葉の中にカミサマがいて、

小説とは、カミサマの救いを届ける言葉も書けるのだと思います。

その救いは誰かにも届けるかもしれませんが、

書いている私のことも救います。

私は小説を書くことにより、

救われ、癒されているのだと思います。


お盆やお彼岸にお墓参りに行って、

クリスマスを適当に祝い、

お正月には初詣に行って、

お葬式は仏教であげる。

宗教に関しては本当に適当です。

それでも、それらの宗教の垣根を取っ払ったうえでの、

カミサマ的なものがあって、

それは言葉によって救いをもたらしているのだと思っています。

言葉を扱う人には、

カミサマが寄り添っているのだと思います。

科学的でもありませんし、

宗教としてもめちゃくちゃなことです。

でも、私の中では、

言葉こそカミサマの救いであり、

小説を書くことが私なりに自分を救うことであり、

浮かぶ言葉は、どの宗教にもない、

私のカミサマの恵みであると思うのです。


いつかこの言葉が誰かを救えればいいなと思います。

誰かの中にも、救いの言葉があるように、

そんなことを願いながらいつも小説を書いています。

カミサマはどこにでもいます。

見るもの聞くもの感じるもの。

その中に言葉が浮かべば、それがカミサマの恵みなんだろうなと思います。


また、時間がありましたら、

統合失調症エッセイを書きに来ます。


ではまたいずれ。

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