ただひと言を発し、進み出た者はゴブリンの勇者シャザラオであった。
持ち上がらない足を擦り、拙い一歩を踏み締める度、垂れ落とされた右手が握る剣の先がチリッ、ステージを掻く。
左腕はとうに動かず、幾度となく脳を揺らされたことで重心も狂い、頼りないばかりの有様だったが、しかし。
身の内に押し詰まった意思が、それを燃え立たせる心が、敵たる人間ばかりか同胞すらも寄せつけず、彼を女王がある高みの下方へまで辿り着かせたのだ。
「わたくしが困り果てていることは察してくれますか、ゴブリン? 竜の約破られらば如何様が引き起こされるものか……当の竜魔殿に検めよと迫られるこの心痛を」
観客席と競技場とを隔てる仕切りの前で仁王立つ勇者をとろりと見下ろし、女王は言い募る。
「あなた1匹が死ねば一切丸く収まりましょうにね?」
侮蔑、侮辱、侮慢。侮りで満たされた声音へ対し、シャザラオは剣を放さぬままの右拳で胸を叩き、
「謹んで詫びよう。汝を熱せられなかった未熟を。そして掟を破り、約までもを破らせんと竜魔殿へ迷わせた不甲斐なさを。だが」
女王へでなく、こちらを凝視する義人へ、背中越しに語りかけた。
「直ぐに心を貫いた王者の誠心だけは穢させんよ」
「ラオさん、なあ、ちょっと待ってくれよ」
勇者の背を見ているだけで知れる。知れてしまう。
彼がこれからなにをしようとしているものか。
「女王様がなに言ったってどうだっていいよ。俺がなんかうまいことやっから。だからさ、ちょっとだけ待ってくれって」
止めなければ。自分を急かして立ち上がろうとした義人だが、だめだ。膝が、どうしても伸びない。
「なー、俺さ、俺、あんたとまたやりてーんだよ。何回だって、ガチのガチで。リターンマッチ、今度ゴブリンの国でさ」
「ヨシト氏、これ以上は――!」
力なく傾いだ義人の身をセルファンが咄嗟に支える。
「セルさんたのむよ、女王様にやめさせてくれよ、なぁ、たのむから」
シャザラオのほうが大事なのに、なぜ王子は青ざめた顔を左右に振って自分を止める!? 苛立ちの熱はされど凍えそうな身を温めてくれず、弱々しく歯をきしらせるよりなくて。
いったいぜんたい、こうなった理由はなんだ!?
あれだ。シャザラオの覚悟も、花子が女王に言い負かされた原因もセルファンがこんな顔をしているわけも女王の冷笑も、全部!
「俺がぶっ倒してやっから出せよ!! てか出てこいよ竜ぅー!!」
この場に一切顔を出すことなく、昔の約束とやらで皆を縛りつけている、竜。
それを殴り倒して話をつけて、全部全部全部いい方向に持っていって――
「後輩くん聞け!!」
バカ力を迸らせ、飛び出していこうとする王者へ竜化させた両腕で抱え込み、花子は彼女らしくもなく声を裏返す勢いで吼えた。
「あたしも勇者も誰も彼も!! こうなることはわかってたんだよ!! 掟はともかく竜の約束は半端なく強い呪縛で、それこそこの世界のルールだ!! 自分の都合で君に教えなかったあたしを怒れ恨め憎め!! でも!!」
なんという身勝手をほざいているものかと自分にあきれ果てるが、それでも語る。それが卑劣な自分に果たせる唯一の仁義だから。
そして最後は、最後だけは、なけなしの情を絞り出して訴える。
「勇者の意気だけは――君への真心だけは、汲め」
「せん、ぱい」
呆然とかぶりを振る義人を返り見ないまま、シャザラオがまた静かに唱えた。
「元より己は王者に敗れ、ここで終わるはずだったのだよ」
そう。勇者はこの決闘に敗れ、掟によって殺されるはずだった。
当然だろう。花子の“都合”によって義人は知らされていなかったが、決闘の規則は王者が決める。それこそが竜が王者に赦した約束なのだから。
そして格闘を指定された時点で、体技を併せ遣うとはいえ剣士である勇者から勝ちの目は消えた。
この場にあるゴブリンは各氏族から選ばれた語り部だ。
誇りなき敗北によって命を奪われた勇者の有様を見届けた彼らは、心に王者への強い憎悪と敵意が刻みつけて己が氏族にそれを告げる。その怨恨が次代へ継がれゆけば、やがて竜の約束を撥ね除け、王者を殺せる者が生まれ出でるだろうから。
だが。王者は事もあろうかその愚直なまでのまっすぐさをもってゴブリンを感じ入らせ、友誼を結んだ。
そればかりか決闘の中で勇者に剣を取らせ、己を窮地の底へ落としすらしたのだ。
王城の広間にて『あの男とこそ闘いたい』、すなわち『あの男にこそ殺されたい』とまで己に思い切らせたあのときの直感は確かでなものあったと、シャザラオはあらためて得心する。
だが、今は違う。
「敗者として、勇者として、男として、通したいのだ」
途切れた言の葉を微笑みで繋ぎ、シャザラオは右手の剣を高く掲げて言い切った。
「己が一分などでなく、汝との友誼……友義を」
汝にだけは殺させんよ。
勇者の思いを受けたゴブリンたちが、ひとり、またひとり、その場へ膝をつく。
シャザラオの最期を見届け、その矜持を魂に焼きつけるがために。
「ラオさんの気持ち、俺、全部もらったから」
絞り出された王者の思いがシャザラオの胸を潤す。
無論、義人がすべてを理解しているはずはない。だがそれでも。
友の決意を阻むことこそがなによりの不義と察し、飲み込んだのだと知れるから――
「応」
これまでの生涯の内、ただひと言へこれほどに己を込めたことはなかった。
いくらでも語りたいことがある。幾度でも、ガチのガチで向き合いたいと、願う。
が、本意を残していけば、まっすぐな王者はそれに囚われ、その心を歪にねじ曲げてしまうだろう。
故にこそ、シャザラオならぬラオは迷いなく己が胸を貫き、女王へと告げたのだ。
「竜が約、ここに果たさん」
刃が心臓にめり込む感触というものは、魂を凍りつかせる冷ややかさであるものと思っていたが、このほのあたたかさはどうだ。
これは己が満ち足りていればこそなのだろうな。
要らぬ荷を遺していくことを赦せ。もっともたる敵であり、もっともたる友よ。
彼の岸にてまみえたならまた、ガチのガチで己を比べ合おう。
故にさらばとは言わんぞ、ヨシト。
シャザラオの身が、後ろへ傾いで倒れゆく――いや、傾いだところで止まった。
そう。とうに尽きているはずの力を振り絞って飛び込んだ義人が、膝立ちで勇者の骸を支えたからこそに。
「泣き言は! 言わねー! でも! ラオさんの気持ちだけは! ぶっ倒れさせねー!」
そして。
「憚りながらっ、申し上げますっ!!
義人と同時に飛び込み、細腕を震わせながら骸を押し上げるセルファンが、赤々と歪んだ顔をゴブリンたちへ振り向けて吼えた。
「武辺ども!! 勇者の意気を土で汚させるなああぁああぁァアアッ!!」
ここまで自分は見ているだけだった。深く傷ついた王者を支えることも、母の悪意を諫めることも勇者を生かすことも、なにひとつできないままに。
故にせめて、勇者の心を土にまみれさせることだけはしたくない。いや、絶対にしない!
一方、セルファンの絶叫に叩き起こされたゴブリンたちは「応!!」。即座に駆け出した。
そうだ。勇者は友がため己を尽くした。そして人の王子こそが誰より強くその義心に感じ入った。それこそ咆吼を裏返してしまうほどに。
ゴブリンの義をもって守る。勇者の意気を、王子の意気を、かならずや!!
沈黙から騒然へと転じた場を見下ろす女王はつまらなさげに鼻を鳴らし、玉座の肘掛けへ我が身をもたれかせさせた。
「自らの分を弁えた下種の行いばかりは褒めて差し上げましょう。これにて決闘は正しく幕を下ろせましたね」
無論、芝居だ。
ゴブリンは思惑通りに死んだ。が、どうせならもうひとつ成果が欲しい。そう、あの決闘を貶めてやれる決定打が。
「セルさん、ラオさんのこと頼んます」
冷え切った体からさらなる血を垂れ落とさせながら、義人がシャザラオの身から右手を放して踏み出した。
「後輩くん乗るな女王の罠だ! あの女は君に手を出させたいんだ! 王者の名前を穢して両手と称号を奪う口実が欲しいだけなんだよ!」
どの口が言うものかと、花子自身が誰より思っているのだ。
自分が女王を止められていたならこんなことにはならなかった。それ以前に、包み隠さず義人へ掟や約束についてを伝えていたなら!
が、今さら悔いたところで後の祭り。今は守らなければ――誰より義理固く人情に厚い単純バカのことを。
焦燥にそぼった花子の手を振り切り、義人はよろめく歩でなんとかステージから降りる。
「そういうのよくわかんねっすよ、って、ちげーっすわ。俺、わかる気ねーんで」
傾ぐ足で地を蹴って進み、競技場の仕切りへ飛びついて虫よろしくよじ登って、観客席へ転がり落ちた後は這うように階段を上がって、上がって、上がって。
セルファンは歯を食いしばって義人の前進を見つめていた。
本当はすぐに駆け出してその背を支えたい。だが、勇者を託された自分がその信頼を放り出して行けるはずがない。
ゴブリンたちも同様に、王者の背を見送るよりなかった。手を添えてしまえば、すでに勇者の心を負った彼の背へ、自分たちの身勝手な思いという重荷をさらに押しつけてしまうから。
人間ばかりはどうするべきかを迷っていた。が、甲冑どもは女王自身の胡乱な笑みに制されて動けず、数少ない一般人は立ち尽くすよりない甲冑に塞がれ、進むも退くもできはしなくて。
誰も彼もが迷い、惑い、悩む中。
渾身より鬼気を噴く王者が女王の前へ立つ。