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42.拳骨

「俺、女王様にハナシあんだよ」

 煙を噴く勢いで握り込まれた王者の右拳を見やり、女王は笑みを深めた。

「ああ、あなたが勝利したなら前に立てと、確かに約しましたね。さ、わたくしは約束を違えるような真似はいたしませんよ。殴り殺すもこの座より引きずり下ろすもご随意に」

 約束を守り抜いた聖女王を、身勝手な激情に駆られた王者が害する。数百年を無意味に重ねて作り上げられてきた物語をこの身でぶち壊せるなど、最高の幕引きではないか。

 目の前で王者の拳が振りかぶられた。

 それによって彼の異相がよく見えて、彼の故郷がエルバダとはまるで違う地なのだということが実感される。

 なんと醜怪な相貌でしょうか。なんと粗悪な体、なんと野卑な怒気、なんと下劣な拳!

 そんなものに打ち殺されるとは、そうですね。

 わたくしにはふさわしい末路というものなのでしょう。


 思えばひとつの喜びもない人生だった。

 先代聖女王の娘として生まれ、他の聖女候補と競わされる中でそれぞれを支持する者どもの汚らしい潰し合いに巻き込まれ、己もいつ命を失うものかと震えながら毎夜を過ごして……。

 10人いた候補の9人が死亡した後すぐ、彼女は聖女王の座を継いだ。四十二代めが長年摂取し続けてきた鎮静剤が原因で精神を病み、正気を失っていたために。

 四十三代エルバダ聖女王誕生の直後に先代は死んだ。が、大分ましな末路であったと言えよう。聖女王の内で天寿を全うできた者は初代を含めてわずか4人。18人が原因不明の病で死んでいるのだから。先に触れた9人同様、原因が知れているだけで御の字というものだ。


 わたくしもましな部類ではあるのでしょうね。王者による撲殺死という珍奇な死因を聖女王史に残せるのですから。


 迫る拳を無感動に見やり、女王は息を止める。

 今にして思えば、これまで多くのものから目を逸らしてきたものだ。

 だからせめて、己を殺す一打だけは見据えていたい。


 さて、どれほど痛いのでしょうね? 一度では死ねないのでしょうから何度も殴られて――早く殺しなさいと告げるのは、幾度殴られた後がいいのでしょうか?


 こつん。


「へぇ?」

 女王が妙な声を漏らしてしまったのは、頭頂に感じた痛みがあまりにも小さかったからだ。

 思わず手をやって押さえてみても、小さな瘤ひとつできていない。

「いったいなにを!?」

 目の前に立つ王者に尖った問いを投げつけると、彼は青ざめた顔をまっすぐ向けて、低い声音で言ったものだ。


「あんた、叱られたことねーだろ」


「はぁ?」

 あまりに意外な返事すぎて、また妙な声が出てしまう。

 公爵家で育った年少時代はただ強いられるまま、流されるまま生き、聖女候補となってからは一切の隙を作らないよう己を律することに努めた。そうして戴冠した後は、ほぼほぼ完璧に聖女王の務めを果たしてきたのだ。

 そんなわたくしが叱られる? あるはずがないでしょう!

 歯を噛み締めてしまったせいで言い返せず、血走った目でにらみ返すばかりの彼女の頭へ、義人はもう一度こつんと拳を当てて、

「わりーことしたら叱らんねーとダメなんだよ」

 だめだ。この男の意図がまったくわけがわからない。

「あなたは! あのゴブリンを死なせたわたくしを殺したいのではないのですか!?」

 女王がこれほどあけすけに問うてしまったのはつまり混乱していたせいなのだが、実際のところ混乱するよりない状況ではあった。

 あれほど勢い込んで押し迫ったくせに、こんな、殴るとも言えない殴打を一度ならず二度も――ああ、だめだ。混乱がまるで醒めない。


 そんな彼女の様子にはやはり気づくことなく、王者は生真面目な顔で返した。

「あー、あんたはわりーよ。わりーことしてんだってわかってんのにやらかしやがってよ。だから俺が叱ったんじゃねーか」

 淡々とした語りは目の前へでなく、遥か遠くへ向けられているようで。

 ふいに視線を女王へと戻し、義人は言葉を継ぐ。

「でも、いちばんわりーのは俺だ。ラオさんはすごくねー俺のせいで死んだ。だってのに今の俺が泣いて暴れちまったら、すげー勇者に義理が立たねーよ」

 醜いばかりの男が語るものはそれこそ論などではありえない。感情以外になにひとつありはしない、ただの戯言だ。

 だというのに、なぜこうも重く胸に響くのか。


 息もできずに口を開けて閉めて開けて閉めるばかりの女王へ、当の王者はなおも告げる。

「だから俺、もっと強くなってもっとすごくなって、見てもらうんだよ」

 そして踵を返し、背中越しに決めたのだ。

「ラオさんが命くれた俺の! ガチのガチで最っ高な王者の背中ぁーっ! 義理と人情、義人っす!!」

 ああ、決め台詞まで聞いてもやはりまったくわからなかった。この男はいったい、なにをどうしたいのか?

 目を何度もしばたたかせる女王の態度が気に食わなかったのか、せっかく決めたはずの姿勢を崩して振り返り、人差し指を突きつけて。

「次やったらどっからでもぶっ飛んできて、ガチでゲンコツすんぜ。俺、ほっとかねーから」


 今度こそふらつく足で降りて行く王者の背を、力が抜けてぽかりと空いた口をそのままに見る女王。

 汗まみれで土埃をまぶされた、戦場ではまるで遣えまい背中。頼りなく、情けなく、汚らしいばかりの背中。しかし傷がひとつとしてないのは、一度たりとも敵に背を向けて逃げなかった証だ。

 ――ふと、その情けないまでの汚らしさが、頼もしげに見てしまったのは、いったいどうしたことなのか。

 いえ、わたくしはまだ困惑しているだけのこと。

 ええ、ええ。わたくしに二度も暴行を加えた暴漢が頼もしい? ありえませんありえませんありえません。

 痛、くはありませんが、そも聖女の嫡流たるわたくしのもっとも尊ぶべき“頭”に粗暴な拳を押し当てるなど、赦されざる大罪でしょう!

 ……あの男、わたくしを放っておかず、どこからでも飛んできて、同じように暴行を?

 それは、本当に、そうする、つもり、なのでしょうか。

 ああ、なぜわたくしはこれほどうろたえて、困っているのでしょうか!?




 左手はいつの間にか切り口同士を接続して元通りになっていたし、花子の術式で傷は一応塞がっている。しかしながら問題は血だ。血が抜けすぎていた。

 死ぬわー。俺もうちょいで死ぬわー。せっかくラオさんが守ってくれたってのに。死んでなんからんねーってのに。

 弱音が音にならない有様だったが、右脇を花子が、左脇をセルファンが支え、なんとか無様を晒すことは避けられた。

「無茶もここまでやれたら一芸だよ単純バカ」

「ヨシト氏、歩けますか?」

 あざっす。

 唇の動きだけでふたりへ伝えようとしても、体が震えてなにもできはしない。

「あたしじゃどうにもできない。早いとこ本職捕まえてこないと」

 とにかく冷え切った義人に治癒術式を送り込むが、もう応急処置にすらならないことは花子自身が誰より理解していた、


 くそ! なんとでもしてやるって言っときながらこの体たらくだ!

 千切れた箇所は繋いだし、傷は塞いだ。今も昔憶えるだけは憶えた治癒術式を送り込み続けてはいる。でも、やはり失われた血を増やしてやることはできていない。

 輸血できればそれだけで終わる話なのだが、こちらとあちらの世界の人間は血液の成分がいくらか違う。混ぜれば普通に凝固するだけのこと。


「ぐぅう」

 すると、その辺をうろついていた犬が、本当に仕方なさげな仏頂面で寄ってきた。まったくもって気乗りはしないが、自分の血を使わせてやらないでもない。そんな気配を漂わせながら。

 確かに魔獣の血ならば種の別を問わず適合する。それは魔獣の繁殖が性交よりも相手の血液へ体液を注入する、つまりは魔獣化によって強制的に最適化が行われるためだ。

 輸血すれば確実に義人は助かる。助かるのだが。

「後輩くんが獣人化とかしたら君の眷属だよ? 主として面倒見れるのかい?」

 なにも言わずにそっと退く犬であった。


 しかし、このままでは本当にまずい。まずまずいまずい……周囲に視線をはしらせ、物理的に捕まえられそうな高位の治癒術師を探す花子だが、この場にいるのはそれこそ嫌味な敵から最悪の仇敵へと進化しただろう聖女王のみ。頼み込めるはずがない。いや、土下座を決めればもしかして!?

「ジャンピングの勢いでバフかけて行く!!」

 彼女が血迷った勢いで女王への突撃を敢行しようとした、そのとき。

「魔術師も魔獣も兄様もどいていただけますか!? 邪魔ですので邪魔です、邪魔邪魔!!」

 それはもう刺々しい言の葉が飛び込んできて、実に荒々しい手でどんどんどん、花子とセルファンと犬は押し退けられた。

 声音の主は崩れ落ちる義人の延髄にさっと手を差し入れて後頭部を引き上げ、半分以上意識の飛んだ彼の顔をのぞき込んで。


「大事なことですので偽りなく答えてください。あなたは生きたいですか、それとも逝きたいですか?」

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