「とにかく側防塔に帰ろうか。無理矢理治癒した分の栄養が要るだろう?」
花子の言葉をきっかけに、義人はいきなりの自覚症状に打ち据えられた。
猛烈に腹が減っている。
カラスナの術式は確かに血を増やしてくれていたが、その内に含まれていなければならない血糖へまでは手が回らなかったらしい。
「ヨシト氏、今日は勝利を祝って盛大に行きましょう!」
いつになく意気込むセルファン。
彼はこのところ義人と同じ食事――鶏の胸肉と色濃いめの野菜塩味で煮たやつ――を摂り続けてきたため、「おいしい」に飢えていたのだ。
と、それだけではない。
シャザラオを悼むよりも、感謝でもって送りたい。皆で語り合って、笑って、彼に誓おう。自分たちがこの先へ力強く踏み出していくことを。
そして義人にも告げなければ。ほんのささやかな、しかしセルファンにとっては大きな一歩についてを。
だというのに。
「俺、鶏の胸肉と色濃いめの野菜塩味で煮たやつがいいっす」
「君の食生活ってマジのガチで彩りがないんだよなぁ」
やれやれとかぶりを振ってみせる花子。
その脇で希望をあっさり打ち砕かれて、いつもならしょんぼりうなだれる麗しの王子様なのだが。
「実はその、僕もひとつの節目といいますか、転機を迎えることになりまして、その門出をぷっ」
と、ここで花子が彼の口を掌で押さえ、視線を前へと向けて。
「おっと。用事があるのは王者にかい? それとも義理と人情、義人くんにかい?」
「失礼いたす」
一行の前に立ったのは、布で巻き締めた勇者の骸を担いだゴブリンたちであった。
彼らは一様に強い目を義人へ向け、次いでセルファンを見て。
「この場にてタイマンを見届けた我ら、ヨシト殿の勝利を讃え、セルファン殿下へ敬意を表す」
1000が右の拳を胸へあてがい、一斉に跪いた。
ゴブリンと人の礼を併せた、これ以上ない礼。
「みなさんっ」
思わずセルファンが声を詰める。
なにを言うべきか。なにを言いたいのか。そもそもなにも言うべきではないのか。迷いが頭の中で逆巻き、荒れ狂って乱れに乱れ、果たして。
「みなさんは僕の友です。エルバダでも人間という種でもない、ただの僕の、かけがえない友です」
応。太い声音を揃えて返したゴブリンたちは、視線を義人へと戻して、
「勇者の敗北と死とが誇り高きものであったこと、全氏族へ語ることを許されよ」
代表者が言えば、王者は大きくうなずき、応えた。
「ラオさんはマジですげー、最っ高の男だ。王者が言ってたって、それも言っといてくれよ」
思い出ではない。この胸に刻まれた勇者の凄まじさは、今なお義人を燃やしているのだから。
それを察したゴブリンたちは万感を込めて一層深い礼を王者へ送る。
その内よりひとりが進み出た。
シャザラオの骸をセルファンと共に支えたシャザの若者である。
どうやら男子ではなく、女子であるらしい。顔立ちがどことなくシャザラオに似ているようだから、もしかすれば親族なのだろうか。
「シャザのロナ」
名乗った若者は真っ向から炯眼を義人へ向け、言葉を継いだ。
「ヨシト殿、次は己がガチのガチで挑むからな。もっと鍛えて、勇者の名を継いで、絶対にだ。だからそれまで負けてくれるなよ!」
直ぐに向けられた真摯な目を真っ向から見返して、義人は右の拳で自分の胸を叩く。
「押忍」
俺、タイマンんとき勝ちてーばっか考えてた。
でも勝つってんじゃダメなんだ。
王者はそれだけじゃダメなんだよ。
なにしたらいいのかって、よくわかんねーけど、でも。
ぜってーわかってみせっから。
なんで、もうちょっとだけ待っててくれよ、ラオさん。
花子は声をかけようとして、止めた。
義人は覚悟を据えようとしている。今はあまりに拙く浅い、覚悟めいたものでしかないのだとしても。
ほんとにもどかしいけど、今は見守ることにするよ。今はね。
なにせ君は弱いのに、あたしが思ってたよりずっと強い。だからもう少しだけ将来に期待させてもらう。
「君もそうだろう?」
音を得た思いに、声ではなく波動のゆらめきをもって応えた。
今は義人の両手であり、かつては王者と呼ばれた男の両手が。
「母上、父上、お話中に失礼いたします」
カラスナは先ほどからふたりで話し込んでいる両親――生誕時はともかくとして、母親と顔を合わせたのは1年前が初めてなのだが――の前へ膝をついた。
「王者殿の容態は?」
女王の短な言葉からは、頭を小突かれる直前までに含まれていた険がさっぱりと抜け落ちている。
常は完璧な統治者である母が、どうにもむきになっていたことは間違いない。ただ、それも当然のことだ。なにせついに再臨した王者があんな男で、城へ入ってからここまでにやらかしてきたこともまた蛮行と表すよりない代物だったとなれば。
が、それだけにわからない。
……母上は新しい王者のことを心の底から嫌っていたはず。その相手に頭を触られたというのに、どうしてこうも穏やかな、いえ、楽しげな顔を?
という疑問をうっかり表情に出してしまわないよう、面と心を引き締めて、
「あたくしの
「なかなかにくだけた調子だったが、王者が気に入ったか?」
からかうでもなく、ただただおもしろげに北端侯が訊いてきた。
他の聖女候補の父親と違い、家の事情やら都合やらを押しつけてこないいい父ではあるが、娘に対する気遣いや配慮がまるで足りないところは最悪だ。
そこで極限まで尖らせた視線で貫き、渾身の力を喉に集めて。
「本気で言われているなら父上、次の機会には問わずに逝かせますよ?」
それはもう低い声で言い切った。
「ぬしは陛下によう似ておるなぁ」
北端侯は過去を思い出し、しみじみとうなずいた。
余計なことを思い出すのはおやめいただけますか? そもそも大概の原因はあなたでしたでしょうに!
女王は思いながらも口に出さず、娘であり、聖女王候補者でもある少女へやわらかな問いを投げた。
「して、何用ですか?」
来た。カラスナは自分を引き締め直して答えた。
「北端への帰還をお許しください」
北端は今も激戦地であり、その前線は名だたる猛将と強者どもによって支えられている。
1年前までそこにあり、侯爵家随一の癒師として兵たちへ生きるか逝くかを問い続けてきた少女にとって、この城はあまりに狭苦しく、候補者同士の争いは甘ったる過ぎた。
「あたくしに国を統べる才がないことは誰の目にも明白。なればこそ生きたい方々のために尽くすが自身の、それ以上に国の益となりましょう。……この場に父上が来てくださったのも、母上にそうと進言されるためなのでしょう?」
候補者としてカラスナが登城を命じられた際、彼女の素養のなさを真っ先に指摘したのは他ならぬ父、北端侯だ。
通常は幼少時から城へ送られ、味方作りに勤しまなければならないのが聖女候補だというのに、15の歳まで娘を手元に置いていたのは結局のところ、それに尽きる。
「北端が癒師を何処よりも欲していることは確かだ。聖女という名が為す支えもな」
父の言葉で確信を深め、カラスナは凜と女王を見た。
1年は務め、努めました。悔いも未練もありません。胸を張って戦場へ還りましょう。
「しかしだ。ぬしが儂になにを期待しておるのか皆目見当がつかんぞ」
「え?」
「そも、儂が登城したわけはな」
父の口から告げられた真実は本当に意外な話だったし、しかも次に母が言った内容は、それこそ意外過ぎる代物であったのだ。
「侯のお言葉はわたくしの意でもあります。故に、あなたは心して任じられた役目を果たしなさい」
意外すぎる理由を聞かされたあげく念まで押されたカラスナは、ぽかりと口を開けて胸いっぱいに息を吸い込んで、
「まったくもって筋が通りませんよおおおぉおおぉおぉおぉぉっ!!」
彼女の絶叫の力強さへ北端侯は満足げにうなずき、
「おうおう、その気合たるやよし」
女王は女王であきらめたようにうなずいた。
「物言いの品については咎めずにおきましょう。この程度の鬼気がなくば役目も務まりますまいからね」
人生初の親子会は、後に“凄赤の聖女”などと謳われるカラスナにとって、どうにも美化しようのない酷い思い出と成り果てたのである。