気迫を吐くことなく黙々とステップワーク、義人は細かに左右の拳を空へはしらせた。
まるで気持ちが乗らなくて、ひと振りするごとに拳は鈍り、軌道をずらしていく。
「こりゃだめだー」
吐き捨ててしゃがみ込んだ彼は「あーあーあー」、顔を上向けて無意味な声音を垂れ流した。
シャザラオとのタイマンを終えてからじりじりと胸の底から沸き出し、ついには上体すべてを押し詰めた重く靄めいたもの、正体はいったいなんなのか。
正解が知れればきっとそんなものかと拍子抜けするのだろう。が、どれほど考えても答へ至る道筋は探り当てられず、迷うばかりで――わからないのだ。大事なことが、なにひとつ。
「俺、実はアタマわりーからなー」
「ぐう」
応えたのは漆黒の毛皮をまとった伝説の魔獣、“ぬばたまの閃牙”こと犬である。
肩に縛りつけた薄青い包みは出会った当初に義人が着ていた病衣なわけだが、いったい誰にくくりつけてもらったのだろう?
「犬ぅー」
ともあれかがみこんで手招けば、犬はふたふた歩いてきて、2メートルほど先で足を止めた。
「犬?」
まっすぐ見つめると、そっと仏頂面を横向け視線を逸らす。気づいていないことにすれば面倒事を避けられると、そう思っていそうな感じで。
と、異界産のくせに柴距離を取りたがるのはいつものことなので、義人はここで奥の手を繰り出した。
「犬犬犬犬ぅー!」
全力を注ぎ込んでの手招きである。
すると犬は重たげに足を踏み出し、真ん前までやってくるのだ。
愛想も愛嬌もない代わり、意外なほどの義理堅さがあればこそである。ただ、このとき見せるげんなり顔はもう、酷いとしか言い様がない。
「よしゃよしゃ。ありがとなー」
仏頂面ごと犬を抱きしめ、狭い額に額を合わせた。
犬はあたたかい。それが疲れた身よりも固く強ばった心へ染み入り、ほぐしていく。
その中でふと彼は顔を上げて、
「なんか俺、甘えちゃってんな」
犬とは当然、言葉が通じない。なにを吐露しようと他の誰かに告げられることはないし、こうして抱きしめれば身をもぎ離されることこそあれ、拒絶の言葉を叩きつけられることもない。だから安心して犬に愛情を押しつけることができるのだ。
言葉は恐い。
そこに込められた悪意は、右ストレートをもろにくらうよりも強く脳を揺さぶるし、心を凍えさせる。
思い出しかけてぶるりと震え、義人は犬の左頬を右手で撫でた。
すると犬は頭を傾げて手を頭の上へ掬い上げ、最初から頭を撫でられていたような体を整える。その顔がなんとも誇らしげで、義人は弱々しいながらも笑みを漏らして――
「お休み中ですか? なら、まずは服を着ていただけますか? 扇情で役に立たないでしょう貧相な半裸を見せつけられるのは不愉快ですので」
言葉なき快適空間を唐突に打ち砕いた高い声音。
白き衣の裾を蹴り上げ蹴り上げ蹴り上げ、ずかずかと迫り来るのはもちろんカラスナだった。
「母上に暴行を加えた際のあなたはまさに下賤なケダモノでした」
突然やってきた美少女――ただしセルファンには大きく劣る――に酷いことを言われ、ざっくり心臓を抉られる義人。
やばい、いきなりダメージでけーんだけど! 思わず犬をぎゅっとすれば「ぐぅ」。なんともリズミカルに不満が返ってきた。
しかも、王者からの返事がないことが犬よりも不満だったらしい、加えて服を着ようとしないこともまた不満気なカラスナはむぅと顔を顰め、
「母上へ不遜に迫った際のあなたは下卑た台詞を吐き、あろうことか母上の尊き髪へ下品な拳を突き立て下劣な嗤いを吐きつけて、まさに下賤なケダモノでした!」
「いやいや聞こえてるんでいっぱい足してくんのやめてもらっていいっすか」
これ以上「下」で韻を踏まれたらペラペラにプレスされてしまう。というわけでなんとか頼み込んでやめてもらって、あらためてカラスナへ問うた。
「その、なんか用事とかありました?」
「いつまで腑抜けておられるおつもりですか?」
躊躇のない問い返しに、思わず義人の喉が詰まる。
それに構わず、カラスナは視線で王者の全身を舐め上げつつ言葉を継いだ。
「ゴブリンを退けたことはエルバダの外へもすでに喧伝されているのですよ。都の周域へ潜み、王者再臨を待ち受けていた異種は早急に準備を調え、我先に挑戦してくるでしょう」
「あー、そっすね」
思いも熱もないぼやけた返事をしてしまったこと、自分でもわかっている。
だが、どうしようもない。新たな挑戦者のことも次のタイマンについても思い描けなくて、胸が躍ることもありはしなくて。
カラスナは苛立った顔を横向け踵を返しかけて、結局思いとどまったように義人へ向き直り、尖った口調で言った。
「生きるを選んだあなたには王者の責務があるのですよ。それを果たさず逃げようというなら、まずはその両手を差し出しなさい! あたくしが因縁諸共斬り離して差し上げます!」
両手指のつけ爪がジャギリと伸び出し、日差しを鋭く照り返す。
確かにこの聖具の冴えあれば、王者の力が及ばない箇所から手を斬り落とせるだろうが――
「セキムとかよくわかんねっすけどぜってー逃げねっすよ! 俺、王者なんで!」
思わず大きな声で言い返してしまって、気づく。
そっか。俺、逃げねーって言い張んなきゃダメなくらい、逃げてーんだ。
でもわかんねーよ。なにから逃げてーんだよマジわかんねーよ!
自分の頭の代わりに犬の頭を指の腹で掻き毟る義人。
手になにかをさせていないと差し出してしまいそうになるから、止めずにひたすら動かし続けて。
「ぐぅううぅぅう」
犬の不満が深まりゆく。
同時、場の緊張もまた引き絞られていき、そして。
「埒があきませんね! 一度その両手はあたくしが預からせていただきますので跪いて憐れみを乞うて逝きなさい!!」
「やんねーやんねーぜってーやんねー!! こいつは俺が連れてくんだよすっこんでろアタクシぃー!!」
「本性を現しましたね下種っ!! それで筋が通るとお思いですか下種っ!! しっかりと痛くして差し上げますからその場になおりなさい下種うっ!!」
「ゲスゲスうるせーよアタクシ!! 俺だってなんで俺がこんなんなってんのかわかんねーゲスよ!! てめーだってわかんねーゲショ!? デコピンすんでゲスよいてーやつ!!」
「デコピンとはなんですか下種!? 意味不明意味不明意味不明です下種!! 下種らしくおつむのよろしくない下種ならではの下種な蛮行で下種ねっ!!」
激しく言い合うふたりの間で、犬はただただ不満を煮詰めていた。
そろそろ抑えていた力を解放し、力尽くで遁走しようか。それをしたら義人もカラスナもただでは済むまいが、特に気にするようなことではない。なぜなら大事なのはあくまで自分だから! というわけで――
「はいはいブレイクブレイク。ふたりとも下がって」
犬がまさに力を解き放とうとしたそのとき、花子が割って入ったのだった。
「竜魔様」
花子の手から自分の胸元を引き離したカラスナが、髪の赤を引火させたかのように瞳を赤々輝かせ、吐きつけた。
「あたくしの力及ばずご期待に添えませんでしたこと、謹んでお詫びいたします」
うわぁ、自嘲もまっすぐだねぇ。ほんとに君、若いんだな。
皮肉ならぬ素直な感想を胸中で唱え、真剣な表情を作って言葉を返した。
「やな役押しつけちゃって悪かったね。でも十二分さ。この恩、できるだけ丁寧に踏み倒すよ」
ふんと鼻を鳴らし、カラスナはずかずか去っていく。
とにもかくにも腹立たしかった。
花子は彼女に王者をなだめてほしかったのではない。彼が自身に感情を剥き出させないよう固く窄めた心をわずかにでもこじ開けさせたかっただけなのだ。続いて登場した自分の言葉へ聞く耳を持たせるがために。
確かにカラスナは適任だった。王者に一切好意を持っておらず、故に強い感情をぶつけて彼の心の壁を責め立てられるのだから。
まんまと嵌められましたよ竜魔! 本当に性が悪いのですね竜魔! 王者と同じくらいあなたも嫌いです竜魔!!