救えなかった。
再び床へ落ち行く王者の様に、カラスナは犬よりも黒き黒に心を塗り潰される。
いや、塗り潰させるものか。
「起きなさい!!」
黒を押し割るように義人へと跳びかかり、その落下力のすべてをもって、祈りを握り込んだ両拳を胸元へと叩きつけて。
「あ」
たたかい。
これは、熱だ。
止まっていた心臓が取り戻した鼓動をもって渾身へと送り出す、血の熱。
「――っす」
果たして彼女の両手を押し上げ、王者が身を起こす。
強ばりきった筋肉をぎしぎしきしませて一気に、されど少女を突き飛ばしてしまわぬようやわらかに立ち上がったのだ。
「もう殴んなよ。爪なげーからいてー」
「呪師は?」
眼をしばたたき、問う義人。
「城に行った」
「インターバルあとどんくれーっすか?」
「あと10秒。行けるな?」
平らかに答えた花子へひとつうなずきを返した。
「押忍」
軽く屈伸するばかりで筋肉がぎぢみぢと悲鳴をあげるが、無理矢理に体をほぐしつつ息を大きく吸い込んで、
「義理と人情、飛田義人っす!」
これまで飛田の姓を名乗らずに来たのは、機会というものを失ってしまったからだ。
だとしても、もう弁えはしない。高々と掲げ、高らかに告げる。
俺ぁ俺だ。飛田の家の、オヤジとかーちゃんの息子だ。
マジでダセーとズルはしねー。
ガチのガチで押忍ってくぜ。
だからよ、だからさ――
死せる王者が、ここに復活を遂げた。
だというのに、カラスナは彼をただただ睨みつけることしかできない。
あれほど言いたいことがあったはずなのに、責め立ててやるつもりであったのに。
これでは筋が通らない。せめて身勝手な行為を然りつけてやらなければ。思うほどに喉へ得体の知れぬものが押し詰まり、詰め寄ることすらできなくて。
あたくしはいったい、どうしてしまったのでしょうか?
どうかしてしまったのだとしか言い様はなく、されどそれで納得できようはずもない。
両手を揉み絞り、自問を重ねれども答を捻り出すことはできなくて、腹が立つよりも、とまどう。
本当にあたくしはいったいどうしてしまったのでしょうか!?
悩める王女をよそに、花子は準備を整える義人へ問うた。
「なにを笑ってるんだい?」
「え?」
気がつけば、確かに笑ってしまっている。
されど理由は知れているから、そのままに言葉へ変換した。
「やっぱ死ぬより生きてんのがいいっすから。生きてたら約束守れるじゃねっすか。先輩の役にも立ちてーし、ついでに王者の使命ってのもやんねーとだし」
花子の表情が唐突に
「会ったのか?」
「っす。クソうぜーにーちゃんだったっすけど、なんかちっと俺ら似てんなって」
縄跳びをするような足踏みを刻み、義人はサムズアップ。下手クソなウインクまで添えて言い返した。
「そんで、ちゃんと俺が引き継ぎしたっす」
なにが「そんで」なのかはさっぱりわからないが、とまれ花子は彼の両手を演じる初代王者の手へ瞬時に編み上げた術式を打ち込んで――弾かれる。
『君の助力は要らないよ。おっと、誤解しないでくれたまえ。嫌っているわけじゃあないんだ。ただ、馴れ合ってしまっては私の使命の障りになるだろう? だって君は』
かつて吐きつけられた初代の台詞、蘇ったその記憶を頭から振り払い、彼女はより太く編み直した術式を向かわせた。
抵抗はあれど今度は無事手の内へと差し込まれた式を繰り、ともすれば逆巻かんとする力を鎮めつつ、あらためて後輩へと語りかける。
「それについては後で話そう。今は、呪師だ」
声音に感情が染みてしまわぬよう……万が一にも疑念と嫌悪と不安とが単純バカに察せられ、その熱を冷ましてしまわぬよう、努めて声音を平らかに整えて、言う。
「押忍」
先輩の薄暗い心持ちにまるで気づかぬまま、義人は最後に大きく伸びをして。
「行ってきまっす。よくわかんねーんすけど呪師、なんかクソダゼーことしよーって感じっしょ? 叱ってやんねーと」
生き返った途端に敵を追う。正気の沙汰ではありえない。とはいえ王者はそもそも正気とは縁遠い男だ。これが平常運転というものなのだろうが。
しかして駆け出した彼の背へ、反射的に踏み出したカラスナが追いすがった。
「あなたを野放しにはしませんので!」
と。彼女の指に衣の袖を引っかけられた花子もまた、がくり。無理矢理に引きずられて走り出すこととなる。
「ちょっと、あたしはゆっくり行くつもりで」
「ごいっしょに! 明かしていただきたいことがあります!」
「いったいぜんたいなんだっていうんだい?」
やれやれとかぶりを振って浮遊の術式を発動、王女を犬ぞりの犬代わりとして進み出せば、当のカラスナが鋭く問うた。
「王者殿がお会いになられた方とはどなたなのですか!?」
正直なところ、今知らなければならぬことではない。後で問い詰めれば、王者はたどたどしくも真摯に説明するだろう。
だが、離れていく王者の背がやけに恐くて……己が知りようのないものを抱えた彼が、己にはけして追いつくことのできぬ何処かへ消え失せてしまうのではないかと、それが恐くて。
わけがわからぬままざわめく心を鎮めるには、知れることを知るよりなかったのだ。
「初代王者の残り滓、所謂幽霊さ。今もあの手の中に居座ってるらしい」
なかなかの衝撃発言ながら、カラスナは驚くこともなく、
「力が遺されているのですから、彼の方のご意思のいくらかが共に遺されていてもおかしくはないでしょう?」
竜魔は意外にあっさりと答えたものだが、まさにおかしな話ではあるまい。
王家には先達がなにかしらの意思や力を打ち込み、今なお超常の力を発揮する宝具が現存する。先にセルファンが掲げた『邪祓の白刃』もそのひとつ。
が、花子は顰め面を振り振り言葉を継いだ。
「王者の力はそもそも竜の「ぐう」加護だ」
竜という言の葉を聞き、ふたりの横を早歩きで進む犬が不満を割り込ませたが……彼女が竜を嫌っているような記述、どこかの文献にあっただろうか?
こんなとき王者狂の、姉になってくれなかった兄がいたなら必要以上に説いてくれるだろうに……いや、だめだ。聞かされているこちらの精神が保たない。
まあ、大概のものに不満を示すのが彼女の性であることだし、これもそれだけのことなのだろうと納得することにして。
「おかしなことがあるのですか?」
結果的に犬へは構わず、カラスナが問いを重ねれば、
「竜は死んだ彼にそんなことは望んでないんだよ。手を残したのは加護の力を残すための手段だ。なのに自分の意思でしがみついてるって、うん。実にいじらしいじゃないか」
言葉を濁されたのは間違いない。
ただ、竜魔は王者と竜とを結びつけた架け橋的な存在であるという。それだけ竜に近い彼女が竜の意志を語り、言うべき文言、隠すべき文言を選ぶことに不可思議はない。ないのだが。
竜魔の顔は全き無表情で、内心を透かし見ることはかなわなかった。
だというのに、カラスナの目には彼女が冷笑、あるいは失笑しているようにしか見えなくて、故にこそ疑念を抱く。
玲瓏なる竜魔とは、何者なのか?
知られているだけでも数百年を生きてきた、人にして人を超えた魔術師だ。
誰もがそれを知っている。
されど、誰もがそれ以外に知ることはない。
超越したと言うが、如何様な秘技をもってそれを成した? 何処で生まれ、何処で育ち、何処で学び、竜化の奥義を極めたという?
文献に登場する以前の記録はいっさい存在せぬというのに――なぜ、誰もが彼女を“玲瓏なる竜魔”と信じて疑いもせぬのか。
竜魔様。あなたはいったい、何者なのですか?
差し向けられるカラスナの疑念に気づいてか気づかずか、花子は速度を上げて彼女を追い越し、促した。
「後輩くんを見失いたくないんだろう? 急ぐぞ」
「え――ぁっ」
術式に攫われたカラスナの身が浮き上がり、一気に加速する。
「ぐうぅ」
しかたなさげに足を速めた犬共々、彼女たちはもうじきに見えなくなりそうな王者の背を追うのだった。