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69.相貌

 石畳を踏む足が痛い。

 動かし通しの脚が痛い。

 荒い息を繰り返す胸が痛い。

 傀儡から返されてきた呪で苛まれる耳が痛い。

 だが、心ばかりは晴れ渡り、快い。


 こんな気分になれたのは初めてで、だからこそ呪師はとまどい、笑ってしまった。

「ああっ。あっあっあ、ああ」

 笑いかたを知らぬからこその、隙間から吹き込む風のように頼りない異音。誰かが聞いたなら、苦しみ喘いでいるようにしか思えぬはず。

 だが、どうでもいい。

 これを聞いて己を蔑む者どもはあといくらかで死に絶える。

 命という薪をべられ、高々と燃え立った大呪は空を真っ赤に塗り潰し、呪師を、いや新王者の誕生を祝うだろう。


 名なしは王者になったんだ!

 王者じゃないやつらはみんな死ぬ!

 ふんでもけっても泣いたりしないのはちょっとおもしろくないけど、がまんするよ。

 みんなの上でぐっすりねて、おきたら出かけよう。

 みんなが食べようと思ってたごはんを名なしが全部食べて、赤い空を見ていっぱい笑うんだ。


 うきうきと空を仰ぎ見た呪師はしかし、かくりと膝を折って倒れ込んでいく。

 なけなしの体力はここまで歩いたばかりですでに尽き、酷く痛む脚は痩せぎすの身ひとつ支えられなくなっていたのだ――


「っと。あっぶねーな」

 あわやで差し込まれた腕に掬い上げられ、立たされて。

 嫌な気持ちが激しく波立ち、呪師の薄い胸を内から叩きつける。

 うそだ。おかしいよ。だって、こんなの「おかしいよ!」。

 腕の主はかすれた絶叫に構わず、そっと前へ回り込んで、サムズアップ。

「ケガしてねーな? だったらよかったわー」

 先ほど呪に心臓を侵され、死んだはずの前王者が顔いっぱいに笑ってみせた。


「なんで生きてるの!? 死んだのに!!」

 当然の疑問に対し、王者はまっすぐと言い返したものだ。

「死んだけど生き返ったんだよ。マジやばいとこだったぜ」

 いい笑顔で言われたとて納得できようものか。

 死、それもあれほど濃い呪の死を覆すなど不可能であるはずなのに。“あたくし”の治癒術? 竜魔の魔術? それとも、王者の力? わからないわからないわからない――


「よー、おまえ呪師なんだろ? イッパツゲンコツくれて叱ってやっからよ」

 悩み悶えていた呪師が、ヒッ! 身を硬直させる。

 殴られる! ゴブリンの勇者を打ち倒した拳で!

 王者は長のように呪師を生かしてはおくまい。容赦なくこの脆弱な身を打ち砕き、石畳で薄い肌を掻き壊し、地獄の責め苦を味わわせるだろう。


 なんで!?

 名なしはずっと痛くて苦しくて辛くてこわくて、やっと楽しくなれるのに、なんで名なしをこわすの!?

 そんなのいやだ! いやだ! いやだ! いやだ!

 名なしは王者なのに――

 王者、なのに?

 そうだよ!

 名なしは王者なんだ!!


 狂おしい思いが胸底に沈み、失せかけていた靄を掻き立て、呪師の内へと満ち満ちた。

 萎えていた四肢に力が宿り、丸まっていた背が直ぐに伸びて。

「ころしてやる!」

 もう誰にも邪魔はさせない。

 王者となった今こそ、12年という時間をかけて詰め込まれてきたこの怨恨を晴らす。


 黒々とした呪力を身の外へまで溢れさせ、逆巻かせる呪師の様は、それこそ化物であった。

 されど義人は目の当たりにしていながら慄きもひるみもしない。

 アップライトに構えを据え、言うのだ。

「よっし、待ってっから呪ってこいよ」


 意味がわからず、呪師は思わず目を見開いた。

 いや、言われていることはわかる。

「バカなの?」

 つい訊いてしまったのはしかたなかろう。呪によって一度は死んだ男が呪をかけてこいと促すなど……いや、なにかしらの対抗策があるのやもしれぬが、それにしてもだ。

「実は、まー、ちっとアタマわりーんだけどさ」

 前置いて、王者は言葉を継いだ。

「俺だけ殴ったらズルんなっちまうだろーが。俺ぁダセーとズルはしねーんだよ」

 とりあえずわかった。

 異界から来たという異相の男は、本当に馬鹿なのだ。




「なにを馬鹿なことを!! あなたは生きると言っておきながらまた死のうというのですか!?」

 花子の術式を振りほどくようにして場へ転がり込むカラスナ。されど彼女の文句は義人へ届かなかった。

「野放しにはしなくてもね、見てるしかないんだよ。これは王者と挑戦者の決闘だ。あたしたちに割り込んでいい権利はない」

 術式で声音を遮断した花子が、竜化させたままの手で王女の腕を掴み、引き戻す。

「あたくしは王者殿の癒師いやしです! 無謀を止めるも職分と心得ています!」

 振りほどけようはずがないことを知りながら、それでももがくカラスナだが、結果は彼女の知る通りで。

「そろそろあきらめるんだね。あれがエルバダの新たな守護者ってことになってる、二代め王者だ」

 竜魔の皮肉な薄笑みは、王者とのつきあいの長さあればこその諦念なのだろうが――その知った顔が先の疑念と重なり合って、酷く禍々しいものに見えてならない。

「あなたはすべからく弁えていらっしゃるご様子ですけれど! あたくしはなにも知らされておりません! ですので弁える必要はないものかと!」

 されど竜魔の超然を揺るがすことはかなわない。

「それが後輩くんのためになるって本気で思ってるのかい? それにあたしは竜の代弁者でもあるしね。無法は見逃さないよ」

 王者がこの魔術師を姉か師のように慕っていることは知っている。なれど、抱いてしまった疑念は納得よりも危機感を描き立たせずにはいられなかった。


 あなたはあの単純で頭の悪い王者殿を思うように操って、死地へ向かわせたいだけなのではありませんか!?


 止めなければ。

 なぜ己がそうと焦るものか、思い当たるものはない。だがしかし、このまま見過ごしてしまってはだめだ。

 こうとなれば己が腕を引き千切ってでも! カラスナが意を決した、そのとき。

「やめろ竜魔」

 再び人化した犬が王女を救い出したのである。

「なんだい? あたしは王女の邪魔を止めただけだよ」

 手の竜化を解きつつ肩をすくめた花子へ、そればかりは変わらぬ仏頂面を向け、犬はかぶりを振ってみせた。

「キザに苛ついたからって八つ当たりか。醜いぞ」

「……ああ、久々に聞いたな。“彼”のその呼びかた」

 花子は今の今まで演じていた騒動のことなど忘れ果てたかのように、前へと踏み出しゆく義人の背を見やる。


 一方、犬は王女を無機質な目で見やり、言った。

「バカが勝つ。バカだけど、バカだから」

 そして竜魔の背へ同じ目を向けて、

「竜魔は嫌いだ。昔からずっと、この先もずっと」

 すると花子は返り見ることなく背中越し、

「知ってるから噛みつくなよ。あたしは君のこと、嫌いじゃないけどね」

 黒き女は応えず犬形態へ戻り、竜魔から距離を取って座る。視線の先に「バカ」の背を据えて。


 取り残される形となったカラスナは、結局のところ竜魔と閃牙同様に王者の背を見つめるよりなかった。

 思い知らされますね。あたくしは本当になにひとつわかっていないのだと。

 ならば、わからなければ。

 あなたのこと、竜魔様のこと、閃牙様のこと、そしてあたくし自身のことも。




 呪師は目をすがめ、闖入者どもから意識を王者ひとりへ向け直した。

 見ているだけならいい。今度こそ名なしが王者になる瞬間を見届けさせてやる。

“あたくし”を止めたものが玲瓏なる竜魔であり、加えて仏頂面の黒犬がぬばたまの閃牙であることを知らぬが故の余裕ながら、これまでにない高揚で熱せられた身は疲労をすっかりと忘れ去り、己をして信じ難いほどの呪力を沸き立たせていた。

「ころしてやる、ころしてやる」

 うそぶきながら呪具たる短剣の柄を握り締めれば、指先に返り来る微弱な“糸”の応え。

 これで知れた。如何様なわざによってか呪はほぼ打ち消されているものと。呪詛返しが起こらなかった理由もそれで説明はつくが、ともあれ。

 爪先ほどとはいえ呪が王者の心臓へ潜り込んでおり、糸で繋がっているならば、複雑な手順をもう一度踏んでかけ直す必要はない。

 降り落ちる雷が地より伸び上がった雷と結び合い、凄絶なるひとすじを成すように、呪具に溜め込んだ呪をあちらの呪に迎えさせ、強力な呪の一閃を顕現させられる。

 そう、己が呪は雷。攻防の手段が拳のみである王者に近づくことなく、仕留められるのだ。


「王者は名なしなんだ!!」


 かすれた咆吼響かせ、呪師が短剣を突き出す。

 迸る呪はジグザグの軌道を描き、王者の胸元より沸き出した迎えの呪と結び合って、今度こそ心臓を噛み砕いた。

 そのはずが。


 一方の義人は、迫り来る呪と己が胸元から迫り出す呪とをその目で見ていた。

 おそらくは先代の勝手な助力によるのだろうが、勝手すんじゃねーよとわめくよりも先、動き出す。

 とはいえ、雷の迅さを為す呪を打ち返せようはずはない。結局初動を演じ切ることもない内、まともに胸を抉り込まれた。

 あ、が、ぁ。

 カラスナのわざによって繋がれた心臓の縫い目を、どす黒い尖先にこじ開けられて、潜り込まれて。

 鼓動を引き千切られるがごとき痛苦は、彼が肺に溜め込んだ息をも斬り刻み、霧散させんとする。

 またも味わう。命を噛み千切られ、さらに千切られ千切られ千切られる苦楚くそを。

 視界が端から黒ずみ、欠け落ちて、欠け落ちて、欠け落ちて。

 だが、拳は止まらない。空を切って円を描き、呪でも呪師でもない、己が胸元を打ち据えたのだ。


 どぐん。


「ぎ、ぃいっ」

 刻まれた息が胸中にて“ひとつ”を成し、気道を遡って、食いしばった歯の隙より噴き出した。

 音こそ不格好ながら、それは次の挙動を促す気迫であり、義人はもう一歩を踏み出す中で己が胸を抉り込む。

「ぃ、くぜっ。根性ぉ、ブリバリっ、でよ」


 目の当たりにした呪師の両目が裂けんばかりに見開かれた。

 なんだあれは!?

 拳で己が胸を打ち叩く、ただそれだけで心の臓の鼓動を取り戻した!?

 王者の力が発動した? いや違う。もしそうであったなら壊された呪が返り来て、呪師は死んでいる。

 つまり、壊されたのではない。

 王者は呪われた心臓をただただ叩き起こし、動かしてみせただけのこと。

 ――そのようなことができるはずはないのに。できていいはずがないのに。

「なんで!?」


「押忍だぜ、押忍」

 苦しげに、されど当たり前の顔をにっかりと笑ませ、説明になっていない説明を付け加える。

「押して忍ぶから、押忍。かっけーだろ?」

 そして。

 晴れ渡る空のように青く澄んだ、それでいてどろりと紅く塗り潰された空のように赤く濁った相貌かおを輝かせたのだ。


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