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70.狂信

「ひッ」

 甲高い悲鳴を噛み殺した呪師より数メートルの横合い、カラスナもまた絶叫をなんとか噛み殺し、飲み下す。

 背しか見えておらぬ彼女に、呪師が見た義人の相貌を確かめる術はない。

 ないのだが、しかし。


 美しい背であった。

 憤怒も憎悪も悪心もなにひとつありはせぬ、やさしく澄み切った真心ばかりが噴き上げていて。

 常ならばカラスナとて『場も弁えられぬ暢気さ加減、なによりですね』などと皮肉を吐きつけていたところだ。

 そう、ここが死闘の場でさえなかったなら。

 己を一度殺し、今一度殺さんとしている相手へ暗い心持ちを一切向けず、それどころか今も呪われ、苛まれていながら意にも介さず「やさしい気持ち」ばかりを発するなど、あっていいものか。


 王者殿は、あの方はまるで――


 胸中で唱えかけた言の葉は、傍らにある花子のうそぶきに遮られた。

「あれが後輩くんの本性ってことか。思い当たることはいろいろあるんだけど、そうか。そういうことか」

「竜魔様、思い当たるとはいったい?」

 弱々しく問い返すカラスナに視線を向けることなく、花子は言葉を継ぐ。

「心配しなくてもいい。決闘が終わったら元の単純バカに戻るよ」

 だから向き合おうなんて思うな。そっと撥ね除けられたことを感じながら、カラスナはうなずくことなく顔をもたげ、王者の背をにらみつけた。

 竜魔の気遣い、それは部外者への配慮だ。

 おとなしく従うべきなのだろうと、わかっている。


 だってそうでしょう。あたくしにできることなどありはしないのですもの。

 無理矢理に捻り出すなら先ほどと同じくただ見ている、それだけのこと。

 ……本当に、それだけのことしか、できないのでしょうか?

 あたくしは本当に、それだけのことと納得できるのですか?




 新たな呪を突き立てられた心臓を叩き起こしつつ、王者が呪師へとまた一歩迫る。

 身に押し詰められた靄を薪として燃え立つ呪は確実に王者の命を蝕み、掻き壊しているはずなのに……止められない。

 呪のもたらす痛苦は尋常を遥かに超えた代物だ。なぜなら身の内を侵すそれは生命体に体感する機会を持ち得ぬ「未知」なのだから。

 だからこそ。考えても考えても、王者が耐え抜ける理由がわからない。それこそ「オス」とかいうものの作用によるのだろうか。わからない。わかろうはずがない。

「へんだよ。死ぬのに死なないとかおかしいよ。死ねよはやく!」

「お断るぜ。大事な約束があんだよ。あと、先輩の都合とか、うぜーヤツの使命とか。それ全部やってから死ぬんだよ」

 迷わず返されきた言の葉に、呪師は戦慄した。

 声音ばかりではない。王者が本当の本気――マジのガチで言い切ったのだということは瞭然で、気持ちが悪くてたまらなくて。

 喉の奥を激怒の熱が突き上げ、爆ぜる。


「おまえはいっぱいみんなからかわいがってもらって! 名なしにはなんにもないのにおまえだけしあわせだ! ずるいよ! ずるいやつは死ねよおおおおおおお!!」


 これまでを凌ぐ太い呪を王者へ突き立て、抉り込んで、抉る抉る抉る。

 胸を叩く間など与えない。故にこそ、心臓を幾度となく掻き回した確かな応えが返り来た。

 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね!!

 願いと祈りとを練り込んだ呪詛を捻り込めば、王者は膝を折り、前のめりに崩れ落ちて――


「あー、なんかわかったわ」

 石畳に落ちた義人の頭が、じわりと持ち上がる。


「かわいがって、もらって、よ」

 うつむいた額からどろりと赤い血が流れ落としながら、膝をついた。

 ああ、そうだ。本当にかわいがってもらって、大事にしてもらって、ついには約束までもらって。

 キラキラのクソが一人前には程遠いながらも人間になれたのは、オヤジとかーちゃんが愛してくれたからだ。


「今だって、なーんか、幸せでよ」

 なお心臓を抉り続ける呪を胸の上から押さえつけ、あたたかな思いと共に握り締める。

 ぐじゃぐじゃとした洞に過ぎなかった心へ灯された義理と人情、たったふたつの大事なことが、灯台さながら彼を導き続けていた。

 使命へ、都合へ、約束へ、踏み出せ。踏み込んで、両手をれ。殴るしか能がないのだがら強く。されど握り込んだものを潰してしまわぬよう、やさしく。


「なんで俺ぁ、ぜってー」

 一気に立ち上がった。

 愛されて、幸せで、導かれて。

 だから止まらない。

 他人様のためでなく、変われぬ己を貫き、そうありたい己へ届かせるがために。オヤジとかーちゃんが生んでくれた『義理と人情、飛田義人』を、押して忍んで貫く。

「死なねー」


「ぅそだ、うそだよこんなのうそ」

 王者は呪に対抗しているのではない。ただ耐えただけ。いや、それとてありえぬことだというのに、あの狂おしい喜びの熱に浮かされた、なにより穏やかな笑みは……

「俺ぁウソつかねー。マジで、ガチだぜ」

 膝を震わせて後じさる呪師の眼前へ、ついに王者が到達し、

「そんでよ」

 血にまみれた笑顔を柔らかく、優しく、愛しく映えさせて、

「おまえのことほっとかねーんだよ」




「あれではまるで……まるで……」

 呆然とうそぶくカラスナの傍ら、花子はやれやれ、ため息をついた。

 ナンバーシステムについてを義人の思考から読み取るため繋いだ“糸”はすでに断ち斬っているが、そんなものを遣わずとも瞭然だ。


 放っておかない。やっとわかったよ。誰かのためじゃない。君は君のために放っておかないんだ。

 最初から君はボクサーじゃなかった。

 それはオヤジとかーちゃん、ふたりとした約束を果たす手段でしかない。「試合」じゃなくて「タイマン」って言い張る理由もそれか。

 ……なんだろうね。生まれたての雛が擦り込まれるみたいに、君は教えられた愛情をそのままに信じ込んで、それだけに応えられるもの、果たせるものに成り果せることを自分に強いた。

 実際のところ、君の能は殴るだけじゃない。闘うことに関して言えば希なる才能の持ち主だよ。

 でも君は、たとえできるってわかってもやっぱりできないままでいるだろうさ。

 自分は殴るしか能のない奴でいなくちゃいけない、その思い込みを1ミリだって曲げたくないだけの理由でね。

 ――そんな君の有り様を表す言葉がある。

 それはね、


「狂信者だ」




 へ、ひっ。

 引き攣れた呪師の喉が高い音を漏れ出させた。

「来るなよ死ねよ死ね! 死ねぇえぇぇえっ!!」

 恐怖を絶叫の勢いで噴き飛ばし、王者の心臓と繋がる呪へあらん限りの力を注ぎ込めど。

「あがー。やばいって、まーた心臓、止まっちまう」

 王者はもう、倒れるどころか揺らぎすらしない。

 ゆるく握った左拳をそっと呪師の鼻先まで伸べて止め、笑顔の脇に置いた右手を強く握り込む。

「止まって死ね! 死ね死ね死ね死ね!!」

 背骨の髄へと浸透し、身ばかりか心をまで凍りつかせる怖気へ抗い、より太い呪を送り込めば、王者は膝を折って倒れ伏んだ。

 ゴヂュ。額が石を打つ硬く湿った音が鳴り、そのまま躙り潰される……ことはない。両手で一気に己を持ち上げ、王者が立ち上がった。

「おまえのガチ、マジすげーな」

「死ね!!」

 王者はまたも倒れ伏して立ち上がり、倒れ伏して立ち上がり、伏して立ち。

 ぐじゃぐじゃに裂けた額から血を噴き流しながら笑って笑って笑って。

「よー、てーもれーも、俺に持ってこいよ。全部押忍ってやっからよ」

 呪師は言い返さない。いや、言い返せない。攣れた喉に激情が押し詰まり、音を塞いでいるせいで。

 歳相応の情緒も情操も育めておらぬからこそ、己を苛むものの得体を察することはかなわなくて。故に、もっとも正解に近しい感情を胸中にぶちまけるよりなかったのだ。

「ガチじゃねーと意味ねーからよ。ガチのガチでタイマン張ろうぜ」


「きもちわるい!!」


 心を乱れに乱れさせられていればこそ激震を演じる両手で必死に呪具の柄を挟みつけ、切先を王者へ突きつける呪師。

 ほんの数ミリでも王者の拳を遠ざけたくて。

 ほんの数拍でも、王者の笑顔を押し止めたくて。

「ぉまえっ! 頭が狂ってる!! きもちわるいよ!!」

 ようやく絞り出した言の葉が呪を爆ぜさせた。

 果たして顕現する昏き呪。

 あらゆるものに己が在るべき様を忘れ果てさせ、蕩かすそれは触媒たる呪具の刃をも腐らせ、どろりと垂れ落とさせたそれは、世界をすらじゅくじゅくに劣化させ、においなき腐臭を掻き立ててみせたが、しかし。

「あー、もういっこ。きめーも俺に持ってこい」

 深々と侵されていながらわずかにも己が様を崩すことなく、王者はそのままに狂おしく、飛田義人で在り続けるのだ。


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