「ぉまえっ! 頭が狂ってる!! きもちわるいよ!!」
呪師の絶叫が雷鳴のごとくにカラスナを打ち据えた。
腑に落ちてしまった。
あなたが生きる理由は結局のところ約束というものを果たすためだけのことで、あなたのためなどではなくて。
正気でありながら狂い果てているからこそ、あなたは澄みきって、おぞましい。
カラスナは
患者の意思を尊重するためであり、己が
再び死へと駆け出していった王者を見放すどころか追いかけて、彼の無貌に憤り。竜魔と対立したあげくに一触即発までもを演じてしまって。今に至ってはわけのわからぬ不安に苛まれ、心を震わせている。
なにもかも、王者のせいだ。
わかっているのに一切手を出せぬとなれば、両手を揉み絞って待つよりない。180拍を生き抜いた彼がここへ戻り来ることを祈りながら。
どうやら王女も王者の本性をある程度察したらしい。
横目で見やっていた花子は視線を外し、重い息を吐き出した。
碌でもない男が気になるのは聖女の血かな。
でもまあ、今考えるべき問題は、後輩くんが死んでる間に“彼”から聞かされた、使命だ。
最悪のタイミングだよ。できればもう少し教えないまま働かせたかったんだけどねぇ。
と、犬がすがめた目を彼女の横顔へ向け、鋭く絞った視線を突き立てた。
言葉がなくとも知れる。明かすべきを明かせ。そう告げていることは。
「そんなに急かすなよ。こうなったらちゃんと話すし」
とにもかくにも、この茶番が幕を下ろした後にね。
「ぁっ、ぁあっ! あああ!」
王女と竜魔の思いが結び合うことなく交錯する先、呪師は闇雲に呪具を振り回す。
切先を損なったナイフはそれでお幾度となく王者の左腕を掻き切ったが、傷から呪を染み入らせてはくれなかった。
呪具が十全を損なったせいなのか? 否。己が呪の今も彼の心臓と繋がる呪の糸が真実を呪師へ教え込む。王者の内に逆巻く狂気が、呪と対をなす唯一の力、言ってれば“寿”と成り果せ、浸透を弾き返しているのだと。
対抗術式でも呪具の力でも、ましてや王者の力ですらありえぬただの心持ちが、これほどまでに強い。
眦が切れるほどに見開いた呪師の両目に、ゆらり。王者が起動し、その筋肉に力を撓め始める様が映る。
これはなんだ?
死だ。
かわいそうな己を虚無へと追い立てる、無慈悲な死。
あれに追いつかれたら、名なしは魂の欠片ひとつ遺せず消え失せる。
いやだ。
死ぬとかどうでもいい。
でもいやだ。
己でも不可思議な感情が、萎えきっていた心に力を点す。
王者は、名なしだ。
名なしがはじめて自分でとった名前! バカにはやらない。誰にもやらない。名なしがなくなってもずっと持っていくんだ。それだけはなくさないんだ「ぜったいに!!」。
「ぁぁ、あっ、ぁああぁあぁぁぁあ」
呻きながら喘ぎながら泣きながら震えながら呪師は呪具を握り締め、刃を喪い果てた柄頭へ――ぶら下がった己の耳だったものへかぶりついた。
乾かす前に100年効力を保つという猛毒へ浸し込んだそれは、怨恨を高める増幅器であり、自決用の鬼手でもあった。
これを遣えば空を赤く塗り潰すというただひとつの願いは敵わなくなる。
――どうでもいいよ!!
そう、眼前の王者の幸いを赤く塗り潰せるならば、それでいい。いや、それがいい!
目の前の男は挑戦者を殺せない。約束、使命、都合、いずれかのためかは知れぬが、ともあれ殺すことを忌避しているから。
なればこそこの命を
名なしはなにも持ってないのに、おまえはいっぱいいいものを持ってる!
でも、いいものがいっぱいあっても、幸せはいっこだけ。
おまえの幸せを、名なしが殺すんだ。
かわいそうだね、王者の名前も自分で取り返せなくて、ずっと呪われたまんま死んだ名なしのことわすれられない。それ、死ぬより苦しいよね。
「ざまみろざまみろざまぁああああああみろぉおおおおおお!!」
喉を滑り落ちる死は思いの外甘く、香しい。
たまらぬ喜悦に口の端を吊り上げた呪師であったが。
「56の間!」
花子の指示が飛んだときにはもう、義人は伸べた左拳を鋭く引き戻していた。
反動で身が回り、溜め込んでいた右拳が打ち出される。
ナンバーシステムで指示された左右の脇腹の間、すなわち呪師の胃へ。
「ゲンコツっ!!」
しかして胃の腑へ突き刺さった拳が、呪師の胃へと落ちた毒、それを混ぜ込まれようとしていた胃液を遡らせ、「ぉっごぇげえっ!!」。噴水よろしく噴き出させる。
あれ?
名なしはなんにもないまま、消える?
なんでだよ。ずるいよ。おまえはいっぱい持ったまま生きてくのに。
いやだよ。やだやだやだやだ。
消えたら、みんなが痛がって苦しがるとこが見れないのに。呪われたおまえが泣きながら死ぬとこも見れないのに。
なんにも見れないで、消える――
びぐびぐと痙攣する痩せぎすの体が、ぐたり。倒れ込むのをあわやで受け止め、義人は胃液溜まりから跳びすさった。
「おっと、これ体にわりーんだろ」
次いで花子を返り見て、
「カウントたのんまっす」
うなずいた花子が淡々と数を唱え、そして。
「――10。後輩くんの勝ちだ」
「っし」
左腕1本で呪師を抱えた義人が空いた右手を握り込み、上へと差し上げた。
シャザラオ戦とはまるで様相の異なる、歓声も熱狂もない静やかな勝利。
されど王者は意に介した様子もなく、呪師を両腕でそっと抱え直し、促すのだ。
「城行きますか。具合わりー人とかまだいるんすよね? なんかできることしねーと」
するとくつくつ喉を鳴らし、花子が言った。
「今度こそ女王をボディタッチ多めで応援してやるんだね」
「ぐう」
なぜか不満げな犬はともあれ、義人と花子はあっけない幕切れにかまうことなく次へと向かっていこうとするが、その中で。
「あなたが馬鹿なのは理解していますけれど馬鹿も大概にしていただけますかそれはもう馬鹿なのだとしても馬鹿が馬鹿を演じるなどという世にも馬鹿馬鹿しいことは」
「ぎゃー!!」
引き裂けた額を聖具たる爪で抉られて、義人は罵詈雑言へ言い返すよりも先い絶叫した。
しかし、爪先が傷を掻くにつれ、激痛は和らいで、ついには消えて。
「なんかさ、なんとかなんねーのそれ。マジでいってーんだけど」
傷を癒やされた負い目で言葉をソフトに置き換えつつ義人は言ったものだが、カラスナは完全無視。今度は爪先を彼のトランクスの口へかけ、逃げようとした彼を引き止める。
「あなたは、これからもこのような決闘を続けるおつもりなのですね」
「おー」
彼は尻が飛び出してしまわぬよう足を止め、とあるものがこぼれ出てしまわぬよう慎重に振り向いた。
「タイマンだぜ? ガチのガチでやんだろ」
顔もまとう空気も、すっかりといつも通りの単純バカの風情を取り戻していたが、しかし。
カラスナは確かに感じ取っている。
彼の魂を穏やかに滾らせる、狂気の激烈を。
そして気づいてしまった。
己を見ていながらけして己を見てなどおらぬ、王者の無関心に。
なれど感じたものは寂寥などではない。煮えくり返るような苛立ちだった。
「あなたのガチとやらは約束とやらを守るためなのでしょう」
「っす」
綺麗な笑顔でうなずく王者へ、続けて問いを突きつける。
「約束とはいったいなんなのですか?」
「え? 言わねーけど」
そうでしょうとも。あなたは大事なものを誰かと分かち合いはしない。
誰か……この場合はあたくしを、かっけーだのなんだのと言いながら、その実興味も関心もない。王者として闘うことも目の前の誰かを死なせぬことも、結局は自身のため。義理と人情どころか不義理と不人情極まりありませんね。
ですけれど!
「野放しにはしませんよ」
勝手に走っていこうというなら全力で引きずり戻してやる。
「放っておきませんから」
なんとしてでも振り向かせて叩き込んでやる。
「覚悟していただきます」
そうですとも。わけのわからぬ約束など蹴散らして、ここに在るあたくしを、あたくしが繋いで差し上げたあなたの心の臓へ!
考えることはひとまず棄てた。
今はただただ狂った王者を叩き直し、真っ当な人間へ仕立てあげることに尽くす。
「あー、っす?」
当の王者がいかにも頭の悪そうな顔で疑問符を飛ばそうとも。