「なにしたら竜とタイマン張れるっすか?」
くそ、あの気障野郎やってくれたな!
舌を打ってソファから身を跳ね起こす花子。
義人がここに来たのは他ならぬ先代の仕業で間違いない。くわしくは竜魔に訊け、そうささやきかけるだけで、単純バカは全速力で向かい来る。それに先んじて姿を見せたのは、花子をこの場に釘づけておくがため。
こっちはこっちの都合も予定もあるんだよ。するべき準備はまだ山ほどあるっていうのに!
されど、なにを思ったところでもう遅い。
使命を継いだ二打め王者が、真っ向から竜の代弁者へ問うているとなれば。
「勝ち続けたらだ」
渋々と答えれば、言葉尻へ噛みつくように義人が問いを重ねてくる。
「何回っすか?」
「特に決まりはないけど、100勝。それなら竜も文句は言わないだろうさ」
先代が成し得なかった、100勝。
それは挑戦資格を有する全種を下してなお届かぬ数である。どうすれば届く? いや、義人に問うたとて、「なんかうまいことやるっす」と返すだろう。それがバカのバカたるところなのだから。
「だったら俺も100回勝ちまっす」
案の定言い切って、強くかぶりを振って付け足した。
「足りねってんならもう100回勝つっす」
うん、実に単純バカらしい威勢と意気ではあるが、だとしてもだ。
「200勝、生きてる間にできると思うかい?」
挑戦者を倒し尽くして、さらに対戦者を捜して。どれほど体力や筋力を保てるものかは知れぬが、寿命いっぱい使ったところで到底足りるはずはない。
並の頭なら容易に想像がつくことだろうに。
「マジ急がねーとっすね」
やはりすかっと言い切った義人はあたふた立ち上がり、ジャンピングスクワットを30回決めた。
「俺すぐやれるんで、挑戦者募集中っす!」
「君だけ急いだって意味がないことだ。そもそも闘う場所だって壊れてる――あたしが壊したんだけど――んだし、ああもう、ちょっと落ち着けって」
竜化した花子が破壊した闘技場は、エルフ侵攻の一件もあって修復の目処も立たぬまま放置されている。まあ、勇者戦からひと月と経っていないのだから、放置と言っては失礼が過ぎるというものだが。
無論義人は一切聞き入れることなくその場でシャドーボクシングを演じつつ、
「どこだっていーっすよ。俺どこだって行くっす。全部勝って誰も死なさねー。そんで使命も都合も全部やるっす」
今度は足音も立てずに駆け出していく。
後輩の背を見送って、花子はため息を漏れ出させた。
いつも通り、大事なことはなにひとつ聞かずに出て行った。
やると決めたらそれにまっすぐ向かう。義人らしい義人っぷりではあるのだが……
竜を殺す。
それこそが王者の使命だ。
そも、竜とはなにか?
数千年の昔、この世界を統べていたものは竜という種族であった。が、彼らはいつの間にか徐々に姿を消し、3000年前にはその長たるただの1体を残すばかりとなった。
計らずも唯一無二なるものと成り果せてしまった竜は、何処とも知れぬ世界の果てに身を潜め、されどその強大なる力と叡智とをもって他種を導くようになる。
世界に在る全種は竜を神と崇め、王と仰ぎ、親と慕ったが、その本意は彼らの繁栄ではなくて。
竜の本意、それは課せられた永遠の生より己を解き放ち得る者を見出し、育て上げることにあった。
本能によって自死を封じられた竜が死ぬには、殺される以外ない。
されど竜を殺せる力を備えた生命体など存在しようはずもない。
無理を押し通すがため、竜は捜し求めた。己が与えた力を育み、己の思惑を超えたものへと成り果せさせられる可能性を持つ器を。
どれほど無駄な時をかけたものか。幾度期待を裏切られたものか。
積み重ねては蹴崩されるを繰り返し繰り返し繰り返し、ついに見出した“種”こそが、全種の内で取るに足らぬ存在に過ぎなかった人間のひとり、先代王者だったのだ。
竜は王者に使命を課した。与えうる加護のすべてを与えよう。その力をもって最強存在と成り果せ、己を殺せ。
なれど彼は使命を果たすことかなわず死んだ。
竜の悲嘆を推し量ることなどできようはずはないが、その悲願を負った玲瓏なる竜魔は王者の使命を継ぐ者を求め、数百年をさまよって……結局なにもかもをあきらめ、放り出そうとしたところで飛田義人という新たな蕾、あるいは種と邂逅したのである。
と。概ねはこのような話があり、花子は義人をこの世界へ連れてきたわけなのだが。
「不殺が後輩くんの信条だしなぁ」
うそぶいてみて、我に返る。
これでは義人が、必要な経験さえ積めたなら竜へ挑める男になれるものと認めているようではないか。
いや、実際のところ、己は彼を信じると決めたのだから、間違いではあるまい。ただ、なにもかもが尚早というだけのこと。
「とにかくバカのやる気削がないように決闘の経験積ませて、王者の力と折り合いつけさせて言うこと聞かせて頭もよくして……」
やらなければならないことが多すぎて気が滅入ってきた。
だというのに、ほんの少しわくわくもしているのだ。
あのバカがバカを貫いたあげくに竜をすら打ち倒したなら……この世界は変わる。
そうとなったら見られるのだろうか。多くの竜に彩られていたかつてを越える、美しい光景が。
実に粗雑な皮算だな。
でも、算盤を弾いて夢物語を語り、騙した王者を連れて行くがあたしの都合だからね。
そうだろう、頂に囚われた不滅の超越者?
「とはいえわかってないんだろうなぁ、後輩くん。竜の側にいるあたしはつまり、君の敵なんだよ」
できうることなら気づかずにいてくれればいい。いつまでも心を据えきれぬままこうとまで思ってしまうのは、ここまで重ね来た数百年の最後のいくらかで覚えた人めいた我が侭のせいか。
誰より正しく理解していればこそ、花子は深いため息をつくよりなかったのだ。
と。
どこから染み出てきたものか。脇におすわりをした犬が、流し目を横薙いで彼女を撫で斬る。
犬の視線に込められた意思は明白だ。言うべきことを言わなかったな?
「ああ、言わなかったさ。尚早なんだよ、なにもかも」
言い訳だと知りながらもそうと言わざるを得ない。このもどかしさをわからせられたなら……思いかけて、花子はかぶりを振った。
「君の都合のためにも後輩くんのお世話は不可欠なんじゃないか? 足りないあたしの代わりによろしく頼むよ」
竜魔が隠したいことをぶちまけてもいいのか?
「ああ、うん。困るは困る。でも、君がしゃべればわかっちゃうことだし、君の権利ってやつは尊重しないといけないしね」
そうやって誰かに押しつけて、自分は見ているばかりだ。小賢しく小狡い魔術師気取りはやり口までもが小汚い。
そうと見透かしたか、ふんと鼻先を逸らして室を出て行く犬。
まったくもって見透かされた通りさ。
でも、本当にそれしかできないんだよ。
経験を積んだせいで少しだけ賢くなって、狡くなって。汚い手を遣う以外に能のないあたしは。
側防塔の外、城壁上の通路へ設置されたサンドバッグへ、ヨシトはひたすらパンチを打ち続ける。
とはいえただ殴っているわけではない。ステップワークで細かに位置を移し、角度を変えつつ、上下へ打ち分けて。
素人のカラスナの目にも、彼が対人を意識した鍛錬を行っていることは瞭然であった。
「残り30拍です」
目盛りを刻んだ砂時計はただ時間を計るだけの機能しかないながら、無機質なればこそ正確に務めを果たす。
「別に付き合ってくんなくていーぜ」
「ご自分では見えませんでしょう?」
打ちながら言う義人へかぶりを振って返した彼女だが、実際はまったく彼の言う通りだ。別にタイムキーパーがおらずとも、彼は180拍を体に覚え込ませているのだから。
「それにお体の具合を診せていただく必要もありますので」
説得力を持たせるべく言い訳を添えて、なお王者を睨みつけた。
あのときに感じた美しさを今の義人に感じることはない。同時に、おぞましさも。
だが、空気を読めない陽気な男をひと皮剥けば、たちまちそれらが溢れ出るのだろう。
怖い? いや、怖くはない。ただ、苛立つだけのことだ。
あたくしはあくまで自分を穏やかに保ちたいだけのこと。それには人としての筋を王者殿に通していただかなければなりません。
とんだ言い訳だと自覚はあれど、この程度で己の本意と向き合わずに済むならいくらでも重ねてやる。なぜなら、そう。
あたくしはこれ以上苛立ちたくありませんので!
「なー」
ふいに声をかけられ、「あぃっ?」。声を上ずらせたあげく妙な音を出してしまった。
なんて恥ずかしいことを! それも王者殿があたくしに声などかけてこられるから――
「竜って強えーよな?」
「へい?」
竜!? 竜といえば、あの竜、ですよね。
うろたえながらも考える。
文献に記された竜をひと言で表すならば、神だ。
他のすべての竜が去った後もこの世界を愛するばかりに残り、全種を見守り導いてきた唯一無二なる超越存在。「強い」などというひと言でかたづけられようものか。
「……あたくしよりも竜魔様に伺うべきかと。あの方は竜の代弁者、誰より深くご理解されている、はず」
ついこの場にいない竜魔へ振ってしまったのはつまり、物知らずだと思われたくない心持ちあってのこと。そして「はず」と付け加えたのは、訊いたところで素直に答えてくれるものかが疑わしくて。
竜魔様は相当な癖者でいらっしゃいますものね。
けれど、後輩と呼ばう王者殿へなら語ってくださるでしょう。なにせこの方とあの方はそれなり以上に強い絆を結ばれているご様子ですし。
……胸底がちりちりとするのはどうしたことでしょうね。
なにやら不穏な心持ちを覚えるカラスナへ、義人は唇を尖らせて言い返した。
「あー、まー、うん。そうなんだけどよー」
あまり気乗りしない様子。
まさか王者は、親離れならぬ竜魔離れをしようとしている?
だとしたら、悪くない。悪くないどころか、いい。
いい?
なにがいい?
まったく思い当たるものはありませんけれど、大変よろしいものかと!
咳払いして姿勢を正し、ついでに逸る気持ちを映して膨らんだ赤髪を撫でつけて鎮め、
「あたくしにこうと申せることなどありませんけれど、この世界で竜に及ぶものがないことばかりは知り得ております。そも、王者とは竜の加護を受けし存在なのですよ」
王者がいかな強者であれ、その力は竜に与えられたもの。故にそれをよりよく活用し、決闘においては危なげない勝利を獲るべきである。
そうと語るつもりが――
「そっか。王者って竜の息子って感じかー。じゃ、なんでなんだろな。竜とタイマン張んのが王者の使命って」
「へぇっ!?」
竜とタイマン、すなわち決闘をする!? カラスナの奇声をよそに、ヘッドスリップに乗せた右ストレートはズシリと重い音を響かせた。
しかしバッグはほぼ揺れもしない。運んできた騎士が試しに打ってみたときには大きく跳ね踊ったというのに。
「押し込むのでなく、引きを意識して弾く。そうすることで衝撃を殺すことなく器具の内へ捻り込んで――拳の捻り! そう、そうなのですね。打つという挙動に様々な技術があり、ヨシト氏がそれを漏れなく行っているからこそ」
「兄様はいったい何用で!?」
カナスナが嫌な顔で遮ったのはもちろん、兄様ことセルファンの長話であった。
彼は相変わらず美しすぎる顔をはっと上げ、あわてて手を挙げてみせる。
「鍛錬の最中と知りながらの推参、どうぞお許しください」
「ご覧の通り取り込んでおりますので、どうぞお手短に」
邪魔された気分で兄を追い払いにかかった王女の前へ割り込んで、義人は満面の笑みで王子を出迎えて。
「なんすか? ハナシとかだったらメシんときでもちゃんと聞くっすよ」
どんなにいそがしくとも夕飯は顔を合わせて摂る。それが義人とセルファンの暗黙の了解というものだった。
だというのに、セルファンは応えるどころかうなずくことすらせず、まっすぐに義人を見据え、
「その前に、お伝えしたいことがあるのです」
「なんすか?」
口調はそのままに、義人の表情が引き締められた。
決闘の臨むあの背を思い出して、ついカラスナは息を飲む。飲んでしまったせいで胸に沸き出した嫌な予感を口にすることができず、兄に意を決する間を与えたその結果。
「セルファン・オ・ラケシーザ・エルバダ、王者殿へ挑戦いたす」