目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

77.歯痒

「王子とタイマンするんだって?」

「押忍」

 ひたすらに腕立て伏せを重ねつつ、義人は花子へ応えた。

 通常の型ばかりでなく、両手の親指同士をつけての型や肘を脇にぴたりとつけての型を、手の置き所を変えながら繰り返し、繰り返し、繰り返し。

 各々のやりかたで効く筋肉が変わるらしいが、花子にはどうでもいいことだ。

 そんなことよりも大事なのは――

「どうして受けた?」

「セルさんがやりてーっつったらやるっしょ」

 敵だろうと友だろうと、義人の姿勢は変わらない。バカを押し通すことこそがこの単純バカの信念なのだから、変わりようもない。

 だが、だからといって。


 なにしてくれるんだい顔面国宝ぅうっ!!

 王者にボコされる麗しの王子、見世物になんてなるもんか! 普通に国家の威信が崩壊するぞ!!

 面倒なのは後輩くんだけで十二分だっていうのに……


 普通の顔の奥で激しく荒れる感情を噛み潰し、花子は努めて平らかに問うた。

「あの麗しの王子を殴れるのかい?」

「押忍」

 即答した義人はぐっと沈み込ませた汗みずくの身を一気に跳ね起こし、

「ガチのガチでやるっす」

 言い切った。


 ああ、ああ、そうだろうとも。君は君なんだからね。

 まったくもって想定通りな後輩から視線を外し、花子はタイマンの裏にある事情について考える。


 王者再臨が方々へ報されたこの時期、北端侯が娘を連れて登城した目的は婚姻のためであるはず。当然、彼と彼がなぜか一途に愛し続けているらしい女王とのではなく、娘と王子の。

 女王の側から切り出した話であることは間違いない。

 なにせ王者という存在はエルバダにとって僥倖の光であると同時、災厄の闇でもある。王者は崇拝の象徴であるばかりでなく、反王家の象徴ともなるものだから。

 北端は、数百年前から今現在に至るまで変わらぬ最前線でエルバダ最大の激戦地である。血の繋がりをひとつ作るばかりで反乱という災厄を抑えられるなら……最初は蛇蝎のごとくに異界の王者を嫌っていたはずの女王も、頭は正しく働かせていたということか。

 加えて言うなら、王子は王族でありながらもっとも玉座より遠い存在である。聖女王候補を嫁がせるよりも問題は小さく済む。


 とはいえ“備え”を差し出すんだ。女王はもう次代の候補を絞り込んでる、そう考えるべきかな。


 が、それでも周囲の貴族からすれば、北端が王家との結びつきを固めることがおもしろかろうはずはない。そうとなればあらを探し始めるのが人の性である。

 なにせ北端侯は当の侵略者であるエルフと縁のある男だ。此度の功績は王者のものと喧伝しているようだが、たまたま居合わせ、たまたま王都を守り抜いたなどという都合のよすぎる話をすんなり受け入れられようものか。

 実際、端から眺めているだけの花子ですら、視界の端に不穏な動きをいくつも認めていた。


 北端の当代は全部わかってるんだろう。

 なのにあえて放置して、王子と娘を結婚させようとしてる。

 王子は話を蹴ったみたいだけど、侯が引いたって話は聞かないし、だとしたらこの騒動にも絡んでるはず。

 うぅん。面倒を抱え込みたがる男には見えないんだけどなぁ。


 清貧やら潔白やらの美徳の主ではないながら、初代北端侯は同胞を守ることに矜持を持っていた。

 政治を嫌い、武と人とを愛し、国の盾を務める。今も変わることない北端の気風だ。

 花子の目から見ても、当代はこの上ない北端の人物で、だからこそ不可解が残る。政治を嫌っていればこそ、もっと穏便に話を進めるための術数程度は心得ているだろうに。

 結局のところ、玲瓏なる竜魔の経験則による知恵をもってしても、事態が動いてみなければ事情が知れぬことしかわかりはしなかった。


 さて。このタイマンはいったいどこへ転がっていくんだか。

 ……どこで止まるにせよ、あたしもそのときまでには覚悟を決めないとね。ほんとにまったく、王女みたいに思い切れないのは年波ってやつのせいかな。




 花子が去った後も義人は黙々と鍛錬を続けている。

 やるべきことはいくらでもあった。なにせ体というものは、鍛えきってしまえばそれ以上の力を得られぬくせに、少しでも手入れを怠れば一気に力を損なってしまうから。

 とはいえ彼の事情を犬は配慮してなどくれなかったのだ。


「ぐう」

 不満げにスクワット中の義人の足元へやってきて、前足で臑を押す。

「なんだよージャマすんなよー」

 脚を曲げたついでにかがみ込み、真っ黒いを仏頂面を挟みつけてしゃかしゃか撫でれば、「ぐぅう」、強く不満を述べた。

「ちっとくれー付き合えよ」

 しかたなく手を離した代わりにお手を要求すると、犬はそっと横を向く。

 見ていないから要求に従う必要はない。普通の犬、特に日本犬がよく見せる無視の型である。

「おまえマジで俺のことかわいがんねーよなー」

 鼻からため息を吹いた義人が犬を抱き抱えようと両手を伸ばした、その瞬間。


 ばたん!

 犬は横へぶっ倒れ、足をじたばたもがかせて。


 初めて見たときには『なんか発作!? 病気とか!? 犬死ぬなよ犬ぅうううぅ!!』などと大騒ぎしたのだが、今はこれが腹を愛でろという要求であるものと心得ていた。

「んだよ、腹ばっか出んじゃねーか。かわいー顔とか出せよ」

 やれやれ。押し出された犬の横腹を叩いてやると。

「やさしくな」

 寝転がったまま人型をとって犬が言い、

「わかってるって」

 犬型に戻った彼女の腹へぽんぽんと手を弾ませたなら、

「律動的にな」

 また人型になって言い添える。

「りつどーてきってなんだっけ? あー」

「リズミカルだ」

「あー、それだそれ」

 パンチングボールを打つようリズミカルに、且つ青の上で赤子の腹へするようにやさしくぽんぽんぽん、弾いて弾いて弾いた。

 相変わらずな仏頂面がほんの少し和らいで、引き絞られていた口の端がほんの少し緩む。


 犬はふたりきりのときに人型をとることがある。大概は愛でかたの指示をするためなのだが……呪師戦で蘇った義人が犬の有り様に驚かなかったのは、こうした理由があったのだった。


 と。またも人型になった犬がするりと義人の手の下から滑り出て、立ち上がった。

「竜魔は敵だ」

「んだよそれ?」

 ふわりと蹴り込まれたミドルキックをバックステップで躱す義人。即座に踏み込み、5から1、すなわち肝臓から右頬へのダブルを打ち込んだ。

 説明を挟めば、これはただの遊び。犬が家の者を相手に闘いや狩りの真似事を演じる、あれだ。

「あれは竜の側だ。捨てろ」

 唱える間に右掌で二連打を受け止めた犬が頭を横へと振り込めば、長く伸びた髪先が義人の目を薙ぎ払う。

「バっカ。先輩にゃでっけー恩があんだよ。先輩の都合も俺がなんとかするって約束したしよー」

 ヘンドスリップで目を逃がすと同時、彼は右拳をオーバーハンドで振り込めば、彼女は避けずに左掌で受け止めた。

「竜魔の都合はバカに竜を殺させることだ」


 しかして義人の拳を、握り込む。

 加減はしているのだろうが、おそろしく強い力が込められていた。まるでそう、どこへも行かせたくないかのように。

 それでいて、どうにも弱々しく感じてしまう。それこそすがりつくかのようにだ。

 とはいえ義人は機微が読めるような男ではないから、とまどう。

「なんでだよ? マジよくわかんねーって」

 いつもの「よくわかんねーんすけど顔」をした義人へ、犬は仏頂面を突きつけて、

「わかれ」

 今も彼女の背にたすき掛けられている義人の病衣が、小さく揺れた。

「犬の都合も竜を殺すことだ。殺させたい竜魔の都合と同じだけど、違う」


 うまく言えぬことが、もどかしい。

 己のせいだということはわかっていた。これは人間らしさというものをよく学んだ竜魔のように言葉で伝えることを放棄し、犬の有り様を貫いてきたツケというもの。

 同時、誠意でもあったのだ。犬が犬であることを、バカは切に望んでいるのだから。

 二代めの王者は、考えもなしにしゃべるくせに言葉というものをやけに恐れていた。考えてみるまでもなく、過去の疵によって。

 彼の過去を犬は知らない。知りたいとも思わない。

 だが、あの暗がりから義人の手で引っぱり出された己は、今から先へ彼と共に行くのだ。竜魔にも先代にも他の誰にも、足を引っぱらせたくない。なにせバカはわざわざ引っぱらせようと足を差し出すようなバカなのだ。己が引っぱって前へ進ませてやらなければ。


「王者の味方は犬だけだ」

 説明になどなっていない、たどたどしいばかりの言の葉はしかし、必死の重さをもって単純バカの胸を抉り込む。


 先代から使命についてはしかと聞かされていた。

『王者の使命は竜を殺すことだよ。殺せるかどうかはともかく、君はそれができるかい?』

 対して義人はきっぱりと答えたものだ。

『竜とガチでタイマン張る。でも殺さねー。俺ぁマジで約束破んねー』

 そしてサムズアップ、笑みを輝かせて。

『なんかうまいことやってハッピーエンド決めっから、まかしとけ』

 根拠など1グラム、いや1ドラムとてありはしない、だというのに奇妙なまでの頼もしさを魅せる戯言に、先代は呆然とかぶりを振って、うなずく。

『本当に叶うのなら、この上なく美しい結末になるのだけどね』

 噛み締めるように語った彼がなぜ義人を信じたのかは知れない。だが、先代はすべてを義人へと託したのだ。

『是が非でも連れて行ってもらうよ、君が目ざす約束の地へまで』

 約束の地がどこかなど義人にもまるで知れぬものなわけだが、かならず連れて行く。託された使命を果たした後で。

 だって約束したんだ。破れねーし、破んねーから。


「犬を信じろ」

 喉へ詰まった塊を無理矢理吐き出すように言う様がなんとも苦しげで、義人は息を吹き抜き、彼女の頭をぽんぽん、叩いてやる。

「は? んだよ、犬だからマジで遊べんだろ」

 犬が戯れで放つ攻めは、ゆるやかながら一切の無駄がない。それこそ義人の目をもってしても完全には見切れぬほどにだ。

 それに対して冷めることも怯えることもなく、緊迫すらせず攻めを返せるのは、義人が彼女を信じているから。


 義人は少し考え込んで、かーちゃんの言葉を思い出す。

『気持ちってねえ、言わなきゃ誰にも伝わんないんだから!』

 言わずともわかれなどという身勝手は、自分以外の誰にも通用しない。わかってほしいなら懸命に言え。

 人型にもなるとはいえ、犬は犬だ。心で繋がっているつもりに、いつの間にかなっていた。母から教えられた大事な格言を放り出し、「しゃべらなくていい楽」に逃げ込んでいたのだ。


 犬がニンゲンになってんのって俺のせいじゃねーか。

 俺がなんも言わねーから、犬が言いにきてんだろ?

 言わねーと。

 俺のキモチちゃんと。


「俺さ、犬のことガチのガチで信じてっから」

 腹の底から思いを押し出せば、犬は仏頂面をうつむけ、犬型へと姿を戻した。

 力なくおすわりをして、下を向いたまま、口をにゃふつかせる。

 義人は己を信じている。当然のことだし、悪い気はしないながら、それが聞きたかったわけではないのだ。

 己が言うべきことを正しく紡げていたなら、バカはバカみたいにオスなどと言って、竜魔を投げ棄てるだろうに。ついでにあの怒ってばかりの王女もどこぞに追い払って……

 そこそこ不穏なことを思い描く犬の頬をしゃかしゃか撫でてやりながら、義人は顔いっぱいに笑む。


「なんかよくわかんねーけど全部持ってこいよ。ガチで俺んとこによ」


 犬が顔を上げて彼を見た。

 バカなことを本当の本気で言い張る単純バカの澄んだ顔を、直ぐに。

 それを真っ向から受け止めて、義人はさらに言う。

「俺が全部連れてくよ。犬の全部、先代のも先輩のも、セルさんのもな。アタクシのは、まー、ちっとだけでいっか。そんで」

 かすかな寂寥で笑みを陰らせて、込め直した力でもってそれを噴き散らして、

「マジでなんかうまいことしてよ、みなさま全部すくってやんだ」


 なにを持たされたところでその得体へ気づけぬくせに。

 あきれながら思う犬だったが、気を引き締め直した。

 バカを竜の元まで連れて行く。竜魔や先代のはかりごとから守――り通せる自信はなかったが、それこそなんとかうまいことをして。

 なにせ犬は唯一無二なる王者の助力としてこの世に生じたものなのだから。

 ただし、その前に。


「ぐう」

 頭を傾げ、頬をなで続ける義人の手を頭の上へ移し、ふん。誇らしげに鼻息をひとつ吹く。

「てかそろそろ俺の一張羅返せって」

 病衣に手をかけようとすると「ぐるう」。短く唸っ絶対拒否を示し、前足で彼の手首を掻いてもっと撫でろと強いた。

「なんでそんなもん好きなんかなー。マジわかんねーわー」

 嘆いた彼に構わず、頭を撫でられる心地よさに浸る犬だったが。


 義人が口にした「すくってやんだ」、なんとも引っかかるのだ。

 対勇者戦で血を失い過ぎて死にかけた彼は、己を癒やした王女へ『殴んなくても助けれるじゃねっすか』と言ったものだが、それを考えれば普通に「救ってやんだ」になろう。

 しかし。

 マジのガチで、そうなのか?

 己を軽んじることでは並ぶ者のない単純バカが、上から目線で誰かを救ってやるなどと豪語するものなのか。


 わからない。わからないが、とりあえず頭から離れかけたバカの手へ前足を引っかけて留め、犬は「くう」。不満と要求を込めて鼻を鳴らす。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?