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ルコレト村での最後の夜


 ミサら母子は、互いの無事を喜んでいた。


 鎮痛剤の効果もあってか、存外にケントはけろりとしている。彼が子供の体格だったのも、不幸中の幸いだったらしい。小さな身体は瓦礫の隙間にこそっと挟まり、大きな怪我を免れた。



「何か欲しいものある?飲みたいものは?」


「さっきお菓子もらったから、大丈夫。お母さんが無事で、これ以上望んだらバチが当たるよ」



 鼻をすすったミサの目に、涙が浮かんだ。彼女は愛息子を抱き締めて、彼に現状を話し始めた。




「退院したら、僕も集会所に行くのか」


「おじいちゃんやおばあちゃんに、ケントだけでも世話になれたらいいのだけれど」


「お母さんと離れたくないよ。それは、お父さんの大切にしていた家がなくなっちゃったのは悔しいけれど、いつか建て直せるよ」




 ロボットの件が落ち着いた今、ケントは、またピクニックがしたいと言った。そんな彼に、ミサは、退院したら計画しようと約束した。



「翡、翠……」



 モモカが、つと、翡翠を呼んだ。



「あ、ごめん」



 放心したような顔つきを見せていた翡翠が、ハッとした様子で瞬きした。



「家族って、いいな、って……」



 それは、ひょっとすれば初めてだった。


 シェリーが実家の話題を出す度、翡翠ははぐらかしていた。彼女から家族という言葉が出たのは、珍しい。



「シェリー。モモカちゃん」



 朗らかな、それでいてどこか緊張した翡翠の声が、二人を呼んだ。



「感化されちゃった。あのね、私、……」



 一度、翡翠が発言を躊躇したのは、シェリーに対する気遣いか。



 だが、彼女は続けた。



「やっぱり、東を出る前に会っておきたい。お父さんとお母さんに、シェリー達を紹介したい」



* * * * * * *


 日が暮れて、集会所の夕飯に招待されたシェリー達は、片付けのあとキッチンを借りた。


 村人達の厚意から得た材料で、シェリー達が始めたのは、翡翠の帰省のための菓子作りだ。



「私は手順を調べて、補助するだけ。実際に作るのは翡翠の方が、ご両親も喜ばれるわ」


「そんなのつまんないよぉ。私は、シェリー達のお陰でお料理も出来るようになったんだって、紹介したい」


「翡翠っ!卵が泡立ちすぎなのです!」


「あっ、ホイッパーが……!」



 翡翠が慌ててスイッチを止めた。


 料理を覚えたばかりの彼女にとって、業務用器具はまだハードルが高い。



「ま、ぁ、フィナンシェなら、ふわふわしている方が美味しいし……。あ、砂糖……」


「入れておいたわ」


「えっ」


「うっかりしちゃったみたいだったから」


「あ、そうじゃなくて、……有り難う」



 翡翠の顔からある可能性が思い当たって、シェリーは続ける。



「食糧庫に、砂糖だけはまだ残ってる。今日のお礼に、ここにも置いていきましょう」



 翡翠とモモカが頷いた。





 フィナンシェが焼き上がるのを待つ間、シェリーは先にシャワーを浴びた。


 浴室から戻ると、コーヒー特有の芳しさが、鼻をくすぐってきた。オーブンから漂う砂糖とバターの甘い香りと、抜群に相性が良い。



「シェリー。手伝ってもらったお礼に……。私にしては上出来だよ」



 カランカラン、と氷を鳴らして翡翠がグラスを傾けていた。彼女が飲んでいるのは、おそらくカフェラテ。その近くには、同じように氷を浮かべたコーヒーが置かれていた。


 シェリーは彼女に礼を言って、火照った身体にそれを流し込む。


 キレのある苦味が、身体の芯まで染み渡っていく。意識が冴える。それでいて濃すぎず、寝つきが悪くはならないだろう程度に、飲み心地が良い。



「すごく美味しい。今まで飲んできた中で、一番よ」


「やったぁ!でも、一番は褒めすぎじゃない?」


「大袈裟じゃなくて。有り難う、翡翠」



 照れ臭そうに、翡翠がカフェラテで喉を鳴らした。それでいて顔のゆるんだ彼女は、こういう時、分かりやすい。


 焼き上がり時間の迫ったオーブンのタイマー表示を見ながら、シェリーはまたアイスコーヒーを味わった。


 シロップなど入っていないのに、とても甘い。それに、飲むほどに胸がとろけてしまいそうになる。誰かに淹れてもらったコーヒーは、こんなにも温かな気持ちになるものだっただろうか。


 昼間のミサのせいだ。


 彼女の発言が、シェリーに、翡翠が自分にとって何か。考えるきっかけにでもなったのか。






 翌朝、シェリー達は村を出た。


 別れの挨拶を交わした誰もが、西への旅の健闘を祈る言葉をかけてくれた。



 遠ざかっていくルコレト村を窓から見ながら、シェリーはここ数日間を振り返っていた。



「また来たい、な……」


「優しい人たちだったわね」


「ザースさんは、次までに武道の腕を磨いておくって、意気込んでいたけど」


「また、あんな風に出迎えられるのかしら」


「そんな暇もなくなるくらい、いい報告を持って帰ろう」



 朝の目覚めきっていない空。白んだ世界の下を走る移動基地が、カタカタ……と、規則正しい音を鳴らして、タイヤを転がしている。



 まもなくして、見慣れた景色が近付いてきた。二日程度離れていただけなのに、もう懐かしい。


 つと、翡翠に緊張の面持ちが現れた。



「私の家族を見ても、驚かないで、欲しいんだ」


「驚くほど素敵な親御さんなの?」



 努めて軽く、シェリーは返した。


 案の定、翡翠は首を横に振った。でも素敵な人達だったよ、と付け足して。


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