東部でも屈指の豪族出身の翡翠には、血の繋がりを基準にすれば、かなりの数の親族達が、この近辺に住んでいる。
ただし、彼らからは極力隠れて、ここ数年は暮らしてきた。その結果、子供時分の面影もそれなりに薄れてきたのもあって、今や彼らに、翡翠は認識し難しいだろう。
翡翠の家が没落したのは、早い話が、慈善事業に莫大な予算を注ぎ込んだからだ。
十代前半まで、娘には何不自由ない生活を与えていた両親自身は、質素で倹約家だった。
貧困層の人々への生活支援。彼らの社会進出にも積極的に取り組んだ父と母は、理解を得ていたわけでなく、非難を浴びることさえあった。
「戦後の救済制度やボランティアに頼って、生活している人達もいて……。そういう人達は、お父さん達の支援のせいで、対象者の条件を満たせなくなったりしたんだって。そうでなくても、人によっては、私達みたいな家からの助けは、プライドが傷付いちゃったみたい」
善意が、誰かのためになるとは限らない。
翡翠の話は、シェリーにそうした現実を知らしめた。
シェリー達が会話している間にも、移動基地はゆるやかに進路を辿っていた。
つと、モモカが怪訝そうに首を傾げた。
「翡翠、間違っていないのです?」
「どうしたの、モモカちゃん」
「モモカのよく見ているアプリでは、こっちに居住区はなかったのです」
確かに、進むほど眺めがさびれていく。
「翡翠、久し振りの家だから、もしかして──…」
「ううん、合ってる」
かぶりを振った翡翠の顔は、どこか不自然だ。
ぎこちなく、相変わらず肩の力を抜ききれていない感じの彼女。
* * * * * *
「フィナンシェ、お父さんとお母さんの口に合うかな。お手伝いさんにマチさんっていうお姉さんがいて、そのマチさん、お菓子作りがとても上手だったの。……」
移動基地を降りて細道を歩き出してから、翡翠に明るさが戻った。
ラッピングした手土産を大事そうに抱えた彼女は、シェリーとモモカに、よく笑ってよく話す。
シェリーの頭を、ふっと、雑念がよぎった。
戦後の墓地は、人目を避けた場所に建つことが多いらしい。墓荒らしや攻撃から逃れるためと言われているが、この一帯は、まさに条件に一致している。翡翠の黒いワンピースも、シェリーにそうした厳かな場所を連想させたのかも知れない。
胸騒ぎは、何故、的外であってくれないのか。──……
「着いたよ。……お父さん。お母さん」
翡翠が駆け出した先に、彼女の両親はいなかった。
彼女が跪いたのは、献花の添えられた墓石だ。
* * * * * *
親族達は、翡翠ら一家を糾弾した。
底辺層の人間は、自分達とは根本が違う。だのに施しと道楽を混合したお前達は、自業自得だ。
一族の恥と罵って、中には除名を迫る者もいた。
それでも、翡翠達はなけなしの資産を崩しながら、しばらく日常を謳歌した。引越し先は屋敷の十分の一もなかったが、仲睦まじい家族が共に暮らすには、快適なくらいだった。使用人も解雇したため、両親の手料理も初めて食べた。
「新しい生活に慣れてきて、やっぱり、もう少し大きい場所に住みたいねって、話すことも増えて……。まだ資産も残っていたから、お父さんとお母さんは、新しい事業を立ち上げることにしたんだ」
それは、かつての無計画な善行とは違う。未来に繋いでいくための、福祉事業だ。
「つまずいても報われなくても、お父さん達の気持ちは変わらなかった。家だってまた建て直せる。私達、希望でいっぱいだったのに……」
収容所を脱獄した戦時中の捕虜達が、出先の翡翠達に襲いかかった。
彼らは、無差別に報復の相手を狙ったらしい。誰でも良かった。ただ、そこにいたのが彼女ら一家というだけだった。
二人と一匹で墓石を洗って、草原から花を摘んできて、黙祷した。両親に語りかける翡翠を横目に、シェリーはやるせない思いを持て余しながら、彼女と同じように挨拶する。
何度もくじけかけたシェリーを、翡翠は励ましてきてくれた。そんな彼女は、目の前で親を切り裂かれていた。今日までどんな思いでいたのか。
供えた花がそよいでいる。
翡翠がその様子を見つめていた。
「自分を呪った。神様を。最後まで不器用だったお父さん、お母さんは、何で私を置いて行ったんだろうって。何も出来ない私を庇って、逃してまで」
でも、と、翡翠は続ける。
「生きろって、言われたの。翡翠は幸せになるために生まれてきた娘だから……って。最後に二人がくれた言葉は、無視しちゃいけないなって。未来を信じてみようと思ったんだ」
それから彼女は、知人の家を転々として、時には空き家に忍び込んで数日暮らした。心も身体も限界だった。シェリー達に逢ったあの日も、彼女は両親との約束のために、命だけは守り抜こうと逃げていたのだ。
「信じてきて、本当に良かった。シェリーやモモカちゃんに逢えたから」
「翡翠……」
つま先をよちよち動かして、翡翠がシェリーに身体を向けた。
「あの日、久し振りだったんだ。誰かに優しくしてもらったの。お姉ちゃんがいたら、シェリーみたいな感じかなって……。親友も、いたことなくて。家族じゃなくちゃ家族になれないって思っていたけれど、……上手く、言えないけれど……」
「分かるわ、翡翠。あなたがどう感じてくれていたか。言葉にするのは難しいけれど、多分、私も同じように救われて、翡翠に支えられていたところがあったから……」
シェリーにとって、翡翠はこの世に自分を繋ぎ留める存在だった。彼女に出逢っていなければ、とっくに全て諦めていただろう。ただ終わりを待つだけだったと思う。
「頑張ったわね。辛いのに、話してくれて嬉しいわ。翡翠」
「シェリー……」
「翡翠のこと、知れて嬉しい。私にとってもたった一人の親友で、家族みたいなものだから……」
屈んだまま、シェリーは彼女を抱き寄せた。
悲しみや怯えに打ち震えながらも、それを表に出さない彼女は、シェリーから包み込んでやらなければ、いつまでも耐えてしまうだろう。
「私達、もっと家族みたいになれるかな。親に代わりはいなくても、家族みたいになら、……」
「もうなってるわ。きっと」
「うん」
「おはようや、おやすみを、毎日言い合う。そういうのが、家族の始まりじゃないかしら」
顔の見える距離に戻って、シェリーは翡翠の様子を覗く。
普段の彼女よりしおらしい。だが、今日までの彼女こそ無理しているところがあったのだろう。
ややあって、翡翠が大きく息を吸った。
「湿っぽくなっちゃった。これじゃあシェリーに、お嬢さんを下さいって言ってくれるようお願いする計画も、台なしだぁ」
「ふふ、何それ」
「ちょっと、言われてみたいなって。別に夫婦じゃなくたって、姉妹としてもありじゃない?」
「間違ってはいないわね。でも、早いわ。西から帰って、もっと仲良くなっていたら、ご両親に翡翠をおねだりするわ」
「また楽しみが増えちゃった。シェリー。絶対、帰ってこようね」
翡翠に合わせて腰を上げて、シェリーは頷く。
目覚めたばかりのシェリーは、何もかも失くしたはずだった。
だが、今は目的がある。共に過ごす相手がいる。
まだ絶望する時ではない。そう信じられる気になれそうだ。