夕飯後、露天風呂で身体を流したシェリー達は、広間に集った。途中、櫂も旅館の仕事を終えて、歓談に加わってきた。
割烹着に三角巾。
これが、考古学者で旅館経営者でもある、彼の普段の格好だ。
「シェリーさんは、ひと目で研究職の人だと分かります。間違えられても、医療関係くらいでしょ」
「白衣は、クーラー対策にもなるから」
「そういう意味では、経済的ですね。翡翠さんは……」
「いつもは、もっと箱入り育ちな格好だよな!昼間に汚して、祭りみたいに浴衣だが」
輝真がからから笑った。
まだ傷の癒えない翡翠は、シノにもらった赤い浴衣の裾を握って俯いた。
シェリーは、彼女の片手を軽く握る。撫でさするようにして、指と指の隙間を埋めた。
「あなたをあんな目に遭わせた人達は、同じように泥まみれにしたい」
囁くと、翡翠が目を見開いて首を横に振った。
「そんな時間の無駄したら、旅が遅れる!」
「ドローンでやってしまえば問題ない。翡翠がやられっぱなしの方が、大問題よ」
二人がこっそり押し問答していると、輝真がショウ達に目を向けていた。
「お前達は、いつからここに?」
シェリーは、彼らの方に視線を戻す。
翡翠の無念を晴らすために使うものなら、何一つ無駄にならないが、こういうところで彼女が引き下がったことがない。続きは部屋ですることにした。
「五日前くらい。櫂さんの噂を聞きつけて」
「櫂さんも超古代の研究者だって聞いて……」
シェリーは思わず目を細めた。二人のまっすぐな探究心が、眩しい。
ショウ達の肩を持つようにして、輝真が櫂に咎める感じの目つきを向けた。
「話してやれよ。お前、前は、地下の書庫まで見せてくれたじゃん」
「あの時は、お客さんも少なくて……」
「やべぇほど混んでて、俺まで給仕手伝ったが」
「そ、そう。輝真の手伝いのお陰で、手が空いたんだ」
どこか慌てた調子の櫂。輝真の方は、昔話を掘り下げる。
宿は、よほど繁盛しているらしい。輝真の家業もよく覚えていなかった櫂は、旧友がふざけて身の上話に嘘を混ぜても気付かない。本人曰く、宿泊客には農村育ちの旅人も多く、記憶の整理が追いつかないという。
シェリーは、話を核心に戻すことにする。そこまで櫂が多忙なら、今を逃せば、次の機会が遠ざかる気がした。
「櫂さん。今回伺ったのは、あなたの祖先──…リナ・ミーチェさんについて、お聞きしたいと思ったからです」
それは、翡翠がドキュメンタリー番組で知ったという、トヌンプェ族の秘密を探って、謎の死を遂げた考古学者だ。
シェリーは、彼女の残したUSBを発見したこと、しかしそれを開いていた時、強度のセキュリティロックがかかったことを櫂に話した。
* * * * * *
櫂が先祖のリナの話を始めると、翡翠はトイレに行きたくなったという口実で、広間を離れた。
迷った時に方位磁針を使いたいと言って、ショウからスマートフォンもどきを借りた。それを握って、翡翠は従業員専用のバックヤードに忍び込んだ。
ただし、スマートフォンもどきを方位磁針に使う予定はない。メモ機能だけでも、通信機より使い勝手がいいからだ。
何故、こんな間者の真似事をしているか。
櫂の正体を暴くためだ。
あの主人は、怪しい。
顔見知りの輝真に関して無知すぎる。それに、彼の以前の滞在中の記憶も、ほとんどない。
薄暗い回廊は、自分の足音しか聞こえない。
翡翠の頭に、数十分前のことが思い起こされてきた。
浴場を出たあとの僅かな時間、輝真に悩みを打ち明けた。その時、シェリーはモモカを連れて、移動基地へ戻っていた。
みんな前に進んでいるのに、私だけ何もない。
翡翠がそう言い出すと、輝真が目を丸くした。
彼に、翡翠は続けた。
ショウとレンツォの夢に対する情熱に、胸打たれた。輝真も、恋愛のために危険な旅を決め込んでいる。シェリーは、以前から翡翠には手の届かないような存在だったが、生に対して前向きさが出てきてからは、より輝いている。
彼らに引き替え、翡翠には志がない。戦争という理不尽なものへの反発心はあっても、特筆すべき矜持がない。誰の役にも立てず、今日のように、知らない内に他者の恨みを買っていたことさえある。
焦燥していた翡翠に、輝真が提案した。
翡翠の強みは、シェリーを守りたいという思い。その思いこそ、かつて臆病だった翡翠を変えたのではないか。
半ば彼の憶測も含んでいたが、それは、的外れでもなかった。
…──俺は、ミラノさんに認められたくて、突っ走るようにもなった。翡翠がシェリーさんのために逃げないようになったなら、それって、別に俺と変わんなくね?
彼の理屈に、翡翠は救われた。
もっと自信を持てる自分になるために、翡翠は今夜の計画を思い立ったのだ。
地下の突き当たりに到ると、輝真の話の通り、書庫があった。
上手くやりきって、シェリーの役に立ってみせる。…………
期待と不安に胸を逸らせて、翡翠は重い扉を開く。
見回すと、所蔵された文献には、大きな穴が空いていた。実際に穴があるのではなく、抜け落ちているのだ。超古代文明に関するものが。
「…………」
翡翠は、持ち出してきた宿の会計票を、手書きの資料の隣に並べた。
「っ……やっぱり、……」
櫂の手書きの会計票と、書庫内の資料に見られる文字。まるで別人の筆跡だ。
翡翠がそれらを見比べていると、第三者の気配が迫った。
飛び上がるほど驚いたのに、声も出なかった。
宿の主人が真後ろにいた。彼の感情の読めない目が、翡翠の手元を凝視していた。頭の三角巾は外れていて、尖った耳が露出している。
「見ましたね」
「ひっ……!」
翡翠は駆け出す。
だが、すれ違いざま、宿の主人──…否、トヌンプェ族の末裔が、カチッと何かスイッチを入れた。
それを合図に、鋭い光が翡翠の視界を明るめた。
左右から滑り出てきたロボット達が、書庫の出入り口を塞いだ。