翌朝、アンリ本人が自身の変化を自覚した。
それというのも、一昨日、シェリーが彼女から除去したのが、トヌンプェ族の猪突猛進な性質のみだったからだ。彼女の負担を最低限にとどめるためには仕方なかった。
懸念した通り、彼女の異変に誰よりショックを受けたのは、母親だ。
朱里は、数秒、ルネを始めとする一同に、鋭い目つきを向けていた。激情も、怒りを超えれば鎮まるのか。愛娘を抱き締めて、ともすれば悪魔の巣窟で我が子を守る武者のように震えた朱里は、やがて一つ息を吐いた。
「おばあちゃんと、同じになったということね」
アンリが頷く。
今は、身に覚えのない人格が自身に眠っている感覚だという。ルネのように仔細な記憶が植えつけられたのでもなければ、トヌンプェに関する隠匿の手駒になり得る部分を除去した以上、どんな風に彼女が覚醒するか分からない。
せっかく人間に育ててくれたのに、ごめんなさい。
とうとう母親を正視出来なくなったらしいアンリの頭に、朱里の手が被さった。その手が、娘の髪をくしゃくしゃ撫でる。
「こういう時、私が……お母さんがしっかりしなくちゃよね」
昨日初めて会った時と、今の彼女。両者はまるで別人だ、とシェリーは思う。あれだけ取り乱すこともあれば、娘の前ではこうして無理にも笑うのか。
「アンリが私の娘であることに、変わりない。あなたのおばあちゃんが何者でも、私が娘なのと同じでね」
「…………」
「あなたは変わったんじゃなくて、持ち物が増えたんだわ。おばあちゃんに、人より多くの記憶が
あるように」
顔を歪めてまばたきするアンリも、笑っているのに泣きそうだ。彼女の目は、今に涙がこぼれ落ちるかも知れない。
何がどうあってもあなたがお母さんの娘でなくなるのは、許さない。
だから危険に遭えば周りが見えなくなるほど心配するし、おばあちゃんの敵にもなる。
そう続けた朱里に、アンリが今度は年相応の顔を見せた。
「無事、帰ってこられたから……お祝いしてくれないの?お母さん」
おどけるアンリに、朱里が笑う。
「もう。一日に二度も心配かけられて、そこは、よく頑張ったね、お母さん……じゃないの
?」
母娘は、この世に不変のものがあるとでも信じきっている様子で、笑い合っている。志生ら取材のために同席していた一同も、数人が鼻を啜っていた。
夜、シェリー達は母娘に誘われて、ヘレンモの湖畔で花火をした。地面に注ぐ光のシャワーは、つい最近、中部の村でも夜空に上がっていたのとはまた違う。童心に返る心地がしたのは、シェリーだけではないだろう。
水の匂いを連れた夜風と、火薬の煙たさ。
夏の風物詩も霞むような笑顔のアンリが祖父母に挟まれているのを眺めていたシェリーの隣に、翡翠が腰を下ろした。さっき輝真と線香花火の耐久を競って勝った彼女は、上機嫌だ。
自身を引き合いに出す自体、間違っている。間違っていると分かっていながら、シェリーは翡翠が輝真と関わるのを見る度に、二人の間にのみ成立している共通意識のような何かを感じる。戦後の世界で、恵まれた環境に生まれ育った少女と青年は、一つの事柄でいくらでも話を広げる。
「輝真さんと、話していなくて良かったの?」
「シェリーといる方が、楽しいから」
膝を抱えて、翡翠がシェリーにもたれかかった。
「妬いてくれたの?」
どこまでか真剣か分からない、冗談を付け足すのも忘れない彼女。
「会いたくなっちゃった」
論点のずれた呟きが、シェリーの口を衝いて出た。
無意識だったその一言こそ、本心か。
「人って、同じじゃいられないのかなって。この旅だって。あの湖に、西からの川が流れてるなんて、嘘みたい」
各地の村を訪ねて、戦って、翡翠達とぬるま湯のような日々に浸かる。
この旅が有限だと、初めから分かっていたことだ。変わらないものなどない。ともすれば終わりは前触れなく訪れる。
じきにシェリーは、彼女達と西に着く。憎く、焦がれてもいた土地に。
悪魔の土地に、両親が埋葬された経緯は不明だ。だがそれは、些細な問題だ。今度こそ彼らに別れを告げたい。どんな言葉も足りない、伝えそびれた過去の思いの数々で、弔いたい。
アンリ達を見ている内に、肉親が恋しくなったからだ。
「私も、シェリーのご両親に挨拶したいな」
翡翠の声が、肌に染み渡る清水のように心地良く、シェリーの胸に落ちてきた。
「帰ったら、お嬢さんを下さいって、私の親におねだりするって言ってくれたの、覚えてる?」
「あれは、冗談で受け取ってくれてなかったの?」
「本気だよ。家族みたいになろうって、一生、私は思ってる」
それは、今、シェリーが必要としていた言葉だ。
一生がどれほど長いか短いか、まだシェリーには分からない。もとより口約束など、何の効力もない。
それでも、翡翠のくれるこんな温もりが欲しかった。
彼女のお陰で歩き出せた。もう一度、生きようと。
シェリーは、それを両親に報告したい。
* * * * * *
夜が明けて、シェリー達は、ルネから招集を受けた。
「放し飼いのロボットに、皆さんは、違和感を覚えたことはありませんでしたか?」
一同は、首を傾げた。
もとよりシェリーにしてみれば、これだけの数のロボットがしょっちゅう出現している現状が、まず不可解だ。
ルネは続けた。
野生の個体は、本来、人間に危害を加えない。ただエネルギー資源を与えておけば、手段に問題はあるとしても、あれらは自身に搭載されたプログラムを妨害するものがないとして、仕事を終えれば帰っていく。
「帰るって、西にいるトヌンプェ族の元に?」
「所有者は、西の悪魔で合ってるの?」
シェリーと翡翠に、ルネが目で頷いた。
信憑性に不足はない。トヌンプェ族らの見聞してきた千年間を記憶しているルネは、ロボットに関与しているのも彼らなら、その実情も掴んでいる。
「ロボットは、西からばら撒かれています」
それは、誰もが予想出来ても根拠に欠けていたことだ。
「西の悪魔は、ロボットを使って、地上の資源を集めています。ですから私達の奪われたものは、やつらの手に。あの土地は、気味が悪いほど豊かです」
「じゃあ、止めれば、私達は生活を取り戻せる……!」
前のめりになる翡翠の発想に、シェリーは、それだけではないと思った。膨大な資源を集めている西の目的が、武力強化だとする。貧困ばかりか、戦争再来の危機さえ阻止出来るのではないか。
だが、ルネは口を噤んだ。シェリー達が食い下がれば、彼女は明かしてくれたかも知れない。
それが出来なかったのは、近くで爆音がしたからだ。
窓の向こうで、ロボットらの大群が、鉄のボールを投げていた。記憶に新しいその球体は、ビルや公園、民家に落ちて、激しい炎と不吉な煙を上らせる。