黒い影が、シェリーの視界に飛び出てきた。
蝶のように愛されがちで、人懐っこく人間味に溢れてもいる存在感が、シェリーに彼女を翡翠であると認識させる。
ただし、──……
バキューーン!!
「っ……!!」
翡翠の放った銃弾は、トヌンプェ族の二人組を仕留め損ねた。
彼らのバリアが銃弾を防ぐ。翡翠が同じ手段で掣肘すると、返り弾はとうとう両者の間に落ちた。
ババババン!!
「シェリー、モモカちゃん、行って!」
翡翠の連射に二度目のバリアを展開した男性の側で、女性が銃を構え直した。
彼女が狙いを定める前に、シェリーはモモカを壁際に寄せて、彼らの脇を走る。
「待て!」
バキュッ!!
シェリーの放った弾丸が、女性の頬を掠った。
「しまった……!」
モモカが研究室に駆けていく。
パンダのおもちゃに腕を伸ばす女性に体当たりして、シェリーはよろけた彼女を押し倒す姿勢で膝をつく。銃を握った彼女の手を床に押さえつけて、喉に銃口を押し当てる。
「奪った燃料はどこ?」
女性に余裕の顔が浮かぶ。
「モスク!」
そう呼ばれた男性は、翡翠の射撃を避けながら、彼女を銃で追い回している。翡翠の方も、簡易バリアを続けざまに展開して、彼に距離を詰めていた。
女性が声を張り上げる。
「あのパンダを追え!」
「しかしっ……」
バキューーーン!!
翡翠が男性の足元に銃弾を放った。彼にモモカを追わせまいとしての狙いだ。
「恵まれた人間……。お前達に、どうせ彼や私を殺せるはずないのよ」
女性の皮肉めいた目が、シェリーを見上げた。
「見ろ、お前にその引き金が引ける?あのお嬢さんだって、人間そっくりの私達を撃てるほどの肝はないでしょう」
「それ、は……」
反論も絞り出せなくなったシェリーの視界の端で、翡翠が男性を取り逃した。
彼が今、研究室に飛び込めば、モモカの行動を阻止出来てしまう。
「待って……!!」
バキューーーン!!
切迫した翡翠が引き金を引く。
彼女の放った銃弾が、固く閉ざされた研究室の扉に当たった。獲物を掠りもしなかった一撃。
余裕めいたモスクが彼女に振り返り、鼻で笑った。
医療も発達したトヌンプェ族らは、おそらく人間より体力も優る。彼は、息を切らせて銃の照準も合わせられなくなった翡翠に、優越感を得たのだ。
首を動かした女性が目を見開かなけば、シェリーも翡翠に加勢していたところだが──……
コンッ。
ズシュッ……
「ぐぁっ!!」
断末魔の呻吟が、女性から銃を取り上げたシェリーの耳を打った。
肩から血を流した男性が、天井を仰いで膝をついていた。
「翡翠……!!」
パァァァァン……
振り返ってきた翡翠の銃が、女性の二の腕を撃った。今度は彼女が意識を手放す。
「シェリー、怪我はない?」
翡翠達の前方を、光の壁が覆っていた。研究室のセキュリティシステムが発動したのだ。
彼女が外したように見えた、さっきの一撃。それは、あえてバリアに銃弾を弾かせて、油断した敵を仕留めたのだった。
シェリーは、翡翠に駆け寄る。
彼女の手を銃ごと握って、その肩越しを覗く。
「燃料、まだ送らず持っているかも。あいつらから少しでも引っ張り出そう」
二人の生死をシェリーが確かめかねていると、翡翠の焦り気味の声が聞こえた。
確かに彼らをトヌンプェ族だと知らせてきたのは、体内の精密機器情報だ。ショウ達のロボットも目をつけたそこが、戦利品のタンクなら、取り返せる。
ただし、気は進まない。
盗まれたのは大損害だが、彼らはロボットと違う。命があって、人間の姿かたちだ。
シェリーの躊躇いを察したのか、翡翠が銃を掲げてみせた。彼女に気まずそうな笑顔が浮かぶ。
「眠ってるから、急いであげて。今の弾、麻酔なんだ」
翡翠のけろりとした言いように、シェリーは狐につままれた感覚がした。
「ショウにもらったの。盗賊時代に使ってたんだって」
それで彼女は、躊躇わずに撃てたのか。
納得して、シェリーは二人の側に腰を下ろす。心地の良さそうな寝息が聞こえた。
* * * * * *
結果的に、燃料は、三分の一も取り返せなかった。既に西へ転送されたあとなのだろう。
シェリーは分解システムを起動して、村のロボットを一掃した。この先は、残り僅かなエネルギーで、旅を続けなければいけない。
こうしている間にも、別の村が襲撃されたニュースが入っていた。シェリー達の今いる村も、一時的に落ち着いただけだ。トヌンプェ族の潜伏数、彼らが何をしているかも、はっきりさせさえ出来ていない。
シェリー以上に難しげな顔をしていたのは、翡翠だ。
時折、思いつめた顔つきになる彼女。
感じやすいその胸中に、今度は何を抱えているのか。
「叔父さんに……頼るしかない……」
シェリーは声を上げそうになった。
それはショウ達も同じらしい。中でも輝真が、真っ先に顔を歪めた。
「翡翠が戻りたいなら、喜んであなたを見送るわ。だけど、本意じゃないなら……」
もとより翡翠が望んでいても、彼女を手放せる気がしない。
自身の中の束縛欲を自覚して、シェリーは戸惑う。その戸惑いを悟らせまいと、努めて無表情を装っていると、翡翠が続けた。
「私が戻れば、工場だって説得出来る。身内なら、燃料の工面も」
「考えろよ。あの村長が、やつらとの取引をやめてまで、お前の話を聞くと思うか?」
ショウに続いて、レンツォも翡翠に同じ意見を述べている。
仮にあの叔父が折れたとする。もれなく村も襲撃対象になるのは、目に見えている。
翡翠に何のメリットもなく、ただうまの合わない親族との生活が残るだけだ。
「だからって、このまま旅を続けるの?燃料も尽きそうなのに?」
全員が何も言えなかった。
東や中部の肥沃の土地に引き返すという手もある。
だが今は、いつどこで通行止めになるかも分からず、それまでに燃料がもつか危うい。
「私の、せい……」
「何でシェリーが」
説明するまでもない。
シェリーを慕って、いつでも全てを肯定してくれる翡翠は、本当に見過ごしているかも知れないが、これは村に来た時の誤判断が招いたことだ。
ショウ達の反対に耳を傾けていれば、あの二人を移動基地に入れなくて済んだ。他のトヌンプェ族が侵入していた可能性もゼロではないが、燃料まで持ち出されなかっただろう。
後悔してもしきれないシェリーの隣に腰を下ろして、翡翠がすり寄ってきた。
広いリビング。間取りはゆったりと余裕があるのに、翡翠はこうして、よくシェリーに身を寄せたがる。初めは冷やかしていた輝真も、今では彼女が甘えたがらない方が、珍しがる。
翡翠が、話し始める。
「こうするつもりだったの、みんな、気付いていたでしょ?」
「…………」
「私の気持ちは決まってた。爆弾の製造を止める。製造さえ止められれば、爆撃はなくなるんだから」
あどけない顔立ちに引き立つ強い意志。
見惚れそうになるほど儚く綺麗な翡翠の目に、シェリーは心当たりを覚える。
この村の救助を決めた時から、彼女は、今のようにどこか遠い場所を見ていた。燃料が持ち出されたより前からだ。
シェリー達が、彼女の決意を認めようとしなかっただけだ。
翡翠が沈黙を破った。
「一生、あの村で暮らすなんて言ってないよ」
わざとらしくおどけた彼女の視線が、シェリーに向く。
「私の目的は、工場を止めてもらうことだけ。西へは行けなくなったけど、迎えに来て欲しい。脱落しちゃう私を、その時になっても、呆れないでいてくれるなら」
「…………」
呆れるはずない。
翡翠はシェリーと同じくらい、この旅を大切にしていた。
西への志を断念する彼女の勇気を、誰に咎められるだろう。
彼女が本当に非力で臆病だったら良かったのにと、シェリーは思う。何かを得たくて生き続けようと覚悟したのに、彼女以外の全てを捨てても惜しくなくなる時がある。
他に方法はないのか。全世界の──…いや、全宇宙の軽蔑の的になるほど卑怯な手を使ってでも、彼女を側にとどめておく方法は。
「必ず翡翠を迎えに行く」
シェリーは翡翠の腰を抱いた。姉が、妹の初めての遠出を見送るようにして。
そして、今度はどこかに楽しく旅行へ出かけたい、とも続ける。
悪魔の──…トヌンプェ族の野望を暴いて阻止しても、シェリーと翡翠の繋がりは消えない。同じ目標を抱いて、苦難を共有することもなくなる代わりに、選択肢は増えるだろう。
今にも泣きそうな翡翠の顔を、シェリーは直視出来なくなる。
「今日までだって楽しかったよ。でも、そうだね。今度は、行きたいところ、シェリーに考えてもらおうかな」
涙を誤魔化すための空想が、広がっていく。
海が良いか、山が良いか。テーマパークも見てみたいと言い出す翡翠に、いよいよシェリーはたまらなくなる。
両親とは、目覚めたあとに思いを馳せて交わしていた約束の一つも、果たせなかった。やっとのことで貧しさから抜け出せても、病魔に続いて戦争という障壁は、あれだけ睦まやかだった一家に家族旅行の夢も断念させた。
今度こそ実現したい。
テーマパークが建つくらい、未来は平和か。夢だけを集めたような、一日中、きっと笑顔で大切な人と過ごせる楽園。
そんな世界で、シェリーは翡翠と旅の続きがしたい。