役所を出ると、村の眺めが懐かしまれた。ここに思い入れはないのに、シェリーは込み上げるものが抑えきれなくなる。
家族のように大切な友人がいる。彼女とは、意見が食い違ってしまった。だが村の実態を知った以上、人間の彼女を探して保護して、移民プログラムを止めなければいけない。
思いが、堰の切れたように溢れ出す。よく知らない青年に泣き言などぶつけても、困らせるだけだ。分かっているのに、誰かに聞いて欲しかった。
「翡翠とは、元の関係に戻れないかも知れない。彼女も悩んで、覚悟したはずなの。この村を誰より憎んでいたのに……」
彼女の無念は晴れない。それでも、無実のトヌンプェ族まで恨むことをやめたのだ。他人を思い遣れる彼女は、許す強さも持ち合わせていた。
後ろ向きな感情が、シェリーを心許なくさせる。同時に研究者としての悔しさが、シェリーを苛む。
最後の暗号が導き出せない。トヌンプェ族らのコンピューターは、彼らとロボット達の同期を切断出来るくらいには掌握したのに、村全体に張り巡らされた移民プログラムには歯が立たない。あれに干渉出来さえすれば、地上の資源を収集していたロボットらは機能しなくなる。侵入者達の野望は絶たれて、末世も遠ざかるはずだ。
「やつらの収集がなくなっても、僕達が手を取り合う世界は、実現するでしょうか」
独白にも聞こえる青年の声が、夜風に乗った。
「西の悪魔は、戦争を司ると言われています。けれど実際は、……ご存じでしょう」
シェリーは、何も言い返せない。
彼が何を言いたいか。それは、シェリーもいやというほど耳にしてきた。人間が勝手に争った。奪い合った。トヌンプェ族らは、戦争に直接関わっていない。
「それでも守りたいものがあるなら、シェリーさん。あの家々を見て下さい」
「家?」
シェリーは、青年の視線を目で追う。
変わった点はない。ただ、日中とは雰囲気が違う。夜の帷の下りた家々は、どこも既に消灯している。夕方の騒動の影響で、役所に近付くほど荒れている。昼下がり、翡翠と並び歩いた森も見える。あの向こうで彼女と永遠を約束したかと思った。当然、次も二人揃って、両親に会いに行けると信じていた。永遠が不確かだと分かっていながら、また信じた自分自身が可笑しくなる。それから、また村に視線を戻す。
「…………?!」
シェリーは、二度見した。
家の配置が変わっている。細緻に記憶していたのではない。ただ夕暮れ、村の中央に並んでいた三つの赤い屋根は、印象的だった。それらの内、一つが、離れた位置に移動している。白い屋根が隔てていた。
「村が、動いてる……?」
一見、何も変わらない。仮に動いていたとして、あまりにゆったりとしているからだ。だが、確かに位置が変わっている。建物も、木々もだ。ここは地形が変わるのか。それともトヌンプェ族らの優れた技術が、そうしたトリックを実現しているのか。だとすれば、何のためにだ。
その時、シェリーは既視感を覚えた。
あの光景に見覚えがある。
どこかで見た並びに似ている。トヌンプェ族らが禁忌としている、最も強力なハッキングプログラムを呼び出すための、文字と記号の並びだ。ただし、どこかしらの不備で未だ作動しない、シェリーが解こうとしていた暗号。
「悪魔が村そのもので、彼らの禁忌の暗号は、眺めそのもの……」
青年の沈黙を肯定と取って、シェリーは通信機を借りる。
「モモカ」
受信履歴から呼びかけると、すぐ彼女の応答があった。
シェリーは、例のハッキングプログラムが完成させられそうであること、そのための暗号が時間で変動することを、彼女に伝える。
「言語は、おおむね合ってた。ただし配列……空白、改行まで一致しなければいけなかったんだわ」
『すぐに移動基地ごと引き返すので、待ってて欲しいです。さっさと移民プログラムを止めて、翡翠も連れ戻すです!』
モモカの興奮気味な声が返ってきた、その時──…
『何だ、こいつら?!』
彼女の背後で、青年の切迫した声がした。輝真か。
ザザーーー……
村の方角がざわついていた。
前方に顔を向けたシェリーは、ロボットらの大群を見る。それらが、プラグ状の腕の先端を地面に突き刺す。すると、目を凝らせば分かる程度に流動していた家々や木々の動きがぎこちなくなり、停止し出した。まるでバッテリーの切れかけた、機械仕掛けのおもちゃだ。
ややあって、シェリー達の前方に、移動基地が滑り込んだ。
モモカが出てきて、空中プロジェクターを展開する。今日までシェリーが何度も打ち直してきた文字の並びが、記憶に新しい配列に訂正されている。道中、彼女が作業を進めたのだろう。
トヌンプェ族独自の言語の羅列と村を交互に見ながら、シェリーは暗号を完成させていく。次々とプログラムのロックが解けて、見たこともないHTMLが画面に広がる。もうすぐだ。頑なに閉ざされていた悪魔の弱点が、いよいよ呼び出せる。
カタカタッ……カタッ。
ピピーーー……
エラー音が、最後の暗号を拒絶した。
あの村の配置通りに文字を写せば、間違いない。だのに一箇所、HTMLが穴埋め出来ない。村に降りたロボット達が、景観を乱しているからだ。
「ハッキングプログラムは、もう使えまい」
シェリー達が振り向くと、人相の良い老齢の男性がそこにいた。村長だ。自身の優位を確信した彼の目が、脱走犯らを順に見る。
彼の後方に翡翠がいた。
「終わったって……?」
嫌な予感が、シェリーに迫る。
翡翠の表情に目を凝らしても、彼女が今、何を考えているか読み取れない。そしてシェリーは、それを知ることを恐れてもいる。