戦後、戦場から戻ったグラース家の人間は、ルイフィリア1人きりだった。
あんなに自分を支えてくれていた両親も、弟も、すべて失った。
彼は静かな屋敷に戻り、それからハンスを呼び寄せる。
引退すると決めて、ハンスはあまり騎士団に顔を出さなくなり、それ以来グラース家の執事になっていたのだ。
「坊ちゃま」
「部屋の片づけを頼みたい。すまないな」
「承知いたしました」
「不要なものは捨ててくれ。分からないものは確認を」
「はい、心得ております」
「ハンス」
呼ばれて、ハンスはルイフィリアの顔を見た。
いや、正確には顔など見えなかった。
包帯を巻いた頭は、窓の外を見ている。
しかし彼が失意の底にいることは、すぐに分かった。
「はい」
「……騎士団長は、お前では駄目なのか」
「坊ちゃま。騎士団は代々グラース家の男児が跡を継ぐように、と国王より命を受けております」
「分かっている」
すべてを失って、彼は次に立ち上がる力が湧かなかった。
苦しくて、寂しくて。
よく食べていたはずなのに、食べ物も喉を通らなくなった。
マリアがさまざまなものを持ってきてくれたが、どれも大して食べたいと思えない。
そんな時、ハンスがルイフィリアの母の部屋を片付けた。
母の名はエルデ・グラース。
赤い髪を短髪にした、緑の瞳が美しい人。
騎士団長がある日突然連れてきた娘が、気づけば妻になっていた。
そして、男の子を2人産む。
エルデは騎士団2人目の女騎士だ。
ちょうどマリアと入れ違いで騎士団に入った、女の中ではとにかく強くて活発な剣士である。
マリアとは仲が良く、彼女が夫を亡くしたというので、そのままグラース家に連れてきた。
エルデは、料理や裁縫などはできなかったが、本を好んだ。
出身がこの国ではなく、東の方ではないかと言われているが、彼女自身もはっきりとは言わない。
しかし、読み書きの癖は東の方とよく似ており、彼女の好む本は東の方の紙が多く使われていた。
この国で、紙や本はとても貴重なものだ。
紙は貴重なものなので、本とはそれだけで値段をつけられない程の高い代物なのである。
それを嫁入り道具に持ってきたエルデは、女騎士という才能の裏に、知性を持つ人だった。
その本について、ハンスはどうするか尋ねてきたのだ。
彼が言いたいことも分かる。
貴重な品ばかりだから、保管するべきか、売り払うか、譲るのか、考えねばならなかった。
「……学園の図書館に寄贈すればいい」
ルイフィリアは、母の本を屋敷に置いておくことが哀しかった。
愛する母の愛した本。
本は残ったのに、母の命は魔女にとられた。
悔しくて、哀しくて、本を見ると母の笑顔を思い出してしまう。
しかし、貴重なものだと分かっているから、どうしても燃やすことはできなかった。
もしも誰かが、この本を愛してくれたなら―――
そんな淡い希望が、ルイフィリアにはあったのかもしれない。
自分にはできなかったことを、他人に求めてはいけない。
自分が辛かったことを、他人に与えてはならない。
騎士団として、人の上に立つ者として、彼は自分を追い詰めることしかできなかった。
ハンスはルイフィリアの指示どおりに、ほとんどの本を学園の図書館へ寄贈した。
学園では目玉が飛び出るくらいの大事。
こんなにたくさんの本を騎士団長の家からもらい受け、驚かない者の方が少ない。
しかも、どれも貴重な上に、保存状態がよかった。
しかし、ハンスはすべてを寄贈しなかった。
エルデが気に入っていた本は残し、それ以外だけを学園へ持って行ったのだ。
帰り道、エルデがハンスを父親のように慕ってくれていたのを思い出す。
初めて出会った時は、異国の不思議な女性だった。
赤い髪に緑の瞳。
それが印象的な娘。
細い剣1本で、自分を負かした女は初めてだ。
マリアですらできなかったことを、彼女はいつも楽しんでやる。
身軽で、軽やかで、まるで風のよう。
よく飛び跳ねて、まるで猫のよう。
愛しい娘だった、とハンスは思いながら、主の元へ帰る。
それからのルイフィリアは、落ち込んでいたが、怪我が治ってすぐに騎士団長を襲名した。
ハンスに代わって欲しいと言っていた弱音が嘘のように、彼は堂々と騎士団長になったのである。
安心したハンスであったが、ルイフィリアの心は凍てついた。
自分の代で魔女を討ち取る、と決めた彼は、縁談話をすべて断る。
貴族の娘たちは、パーティーにルイフィリアが来ると知れば、喜んで駆け寄ってきたが、ついには誰も寄れなくなった。
その赤い目が。
その男の凍てつく心が。
側に寄る者すべてを、冷たく突き刺すからだ。
魔女を討ち取る為には、転生した魔女を探さねばならない。
魔女がどんな娘に転生しているかは分からないが、近くに必ず赤髪で緑の瞳の女性がいる。
それだけを頼りに、ルイフィリアは魔女を探し続けた。
そして、ある時学園にそれによく似た娘がいると噂を聞いたのだ。
騎士団の尋問は、学園に通う貴族の娘には辛いだろう。
しかし魔女と通じているならば、見逃すことはできない。
ルイフィリアは確認する為に、学園へ向かった。
学園を卒業して久しいが、ルイフィリアは学園のことをよく覚えていた。
弟やカリブスと過ごした日々が、とても楽しかったからだ。
あの日々は、もう訪れない。
カリブスも騎士団を離れてしまっており、ルイフィリアと会うのはパーティーくらいのものだった。
過去を振り返っても、何も残らない。
創り出す為には、前に進まねばならない。
だから、ルイフィリアは自分で確かめに来たのだ。
魔女に通ずる女を。
名目上は図書館の利用とした。
母の本を寄贈したことを思い出し、それも理由に添える。
ルイフィリアは学園の図書館に入り、本を見ていると見せかけて、本当は赤髪の娘を探していた。
司書が母の本を持ってきてくれたので、懐かしく思いながら本を開く。
しかし、実際には人探しが目的だ。
開いた本の一節が目に入る。
『目的は目の前だ。しかし目的とは真実をいつも隠している。その隠されたものに気づく時、人は前に進んでいく』
きっと母も魔女を討ち取ることを望んでいるのだ、とルイフィリアは思う。
しかし、違った。
本から顔を上げ、本棚の向こうに見えたのは、赤髪で緑の瞳をした娘。
美しく、清楚で、穏やか。
同時に母の面影さえ感じた。
こみ上げるものを感じたルイフィリアだったが、この娘が魔女に通じているならば、と思い、意を決したところで、それはあっさりと打ち破られる。
「この本は……エルデ様という人から寄贈されたのね。素敵な本だわ。花のことがとても詳しく書いてある。エルデ様という人は、さぞ聡明な方なのね」
娘は、母の本を持っていた。
そして、その本から知らないはずの母を知っていた。
ルイフィリアは涙があふれて止まらない。
失った大切な母を、家族を、母が愛した本から知ってくれる娘がいたから。
「エルデ様に感謝しなくちゃ。この花を今度の刺繍の絵にしましょうね。今度、栞も作ろうかしら」
その娘は、母の本を大事に抱きしめて、図書館を出て行く。
それがルイフィリアと、セシリア・ウォーレンスの出会い。
ルイフィリア・レオパール・グラースの恋物語が、始まった瞬間だった。
ルイフィリアは、司書に先ほどの娘はどこの娘なのか尋ねた。
するとウォーレンス家の娘、あのカリブスの妹だった。
グラースの屋敷に戻り、ハンスに娘のことを調べさせる。
すると、娘は孤児院から引き取られた、血の繋がりがない娘で、養女であることがわかった。
傾きかけたウォーレンス家の噂は聞いている。
ウォーレンスの当主が、あの手この手を使っているらしいが、貿易業は傾いていた。
付け込む隙はたくさんある、とついルイフィリアは思ってしまう。
そして。
ウォーレンス家にはもう1人娘がいた。
それこそが、ルイフィリアの宿敵とも言える魔女の転生した姿だと、彼はすぐに気づく―――