ひっくり返った父を見て、私はちょっとおかしくなってしまった。
あんなにお金が、事業が、とうるさかった父が、今は床にひっくり返ってしまっているのだ。
父にとっても、兄が騎士団であったことはびっくり仰天の事実だったのだろう。
お兄様は、お父様が騎士団に入りたがっていた、と言っていた。
それも本当だったのね。
でもお父様にその才能があるようには、私には見えなかった。
母は、驚いていたけれどひっくり返った父を支えもしない。
そんなことをするのは貴族の令嬢じゃない、というのが母の考え方だ。
仕方なく、アリシアが父を支えようとしていたので、私は慌てて手を差し伸べた。
「お、おとうさ、ま!!」
「カリブスが!あのカリブスだぞ!?」
あの、と言うところ、父も兄には期待していなかったのだ。
確かにお兄様は商売事には向かない人だ。
でも、逆に騎士団ならばよかったのか、と言われると、それも想像できない。
そう、想像できなかった。
けれども、私は兄の剣を見て、兄の動きを見て、騎士団に戻るべきだと思っている。
「お父様、しっかりしてください!」
「セシリア!本当なのか!」
「本当です、お父様!お兄様を見に行きますか?」
その問いかけに、父は息を飲んだ。
きっと事実を見るのが嫌なのだろう。
しかし、ルイはそんな弱さを許しはしない。
大事な友人を傷つけられた、と思っているに違いないからだ。
「構わんぞ。今、カリブスはハンスのところにいる」
「ご案内します、お父様」
父はやっと床から立ち上がり、ブツブツ小言を言いながら私に着いてきた。
グラース家の立派な廊下を歩き、中庭へ。
中庭の先には、ルイやハンスが使っている鍛錬場がある。
ここは芝生を抜いて、動きやすい地面にしているのだ。
そこでお兄様はハンス相手に剣を振っていた。
前よりも早くなったような気がするのは、私の目がおかしくなったからかしら!?
でもお兄様は素早く、細い剣が更に細くなるように動いている。
お兄様の剣は、ルイの持つ剣よりもとても細い。
きっと、素早さに応じたものを選んでいるのではないかと思う。
そんなお兄様を見て、お父様はまたひっくり返った。
どうしてそんなに、何度もひっくり返ることができるのかしら?
私は呆れて、アリシアを自分に引き寄せた。
この子まで変になってしまったら、困るわ。
お母様もお兄様を見ていたけれど、驚いた顔はしたものの、父ほどではない。
あらあら、と言っている感じだ。
母にとって子どもたちがどうであろうと、あまり興味がないのである。
「あれ、お父様?お母様も?」
金色の髪に汗を滴らせ、お兄様はこちらを見た。
そのお兄様の腹にハンスが蹴りを入れる。
あの人!
あんなに強いのね!?
吹き飛ばされたお兄様を見て、お父様は口を開きっぱなしだ。
もう開いた口が塞がらないというのは、このこと。
「っつ、た、く、そ……!」
「こんなことで気を抜いていては、勝てませんぞ、カリブス様!」
「うーわー、現役の時よりも厳しくない?」
はは、と乾いた笑いをしながら、兄は流れた血を拭う。
お兄様がこんな人だとは、両親は想像もしていなかっただろう。
「一度も手を抜いたことはございませんが?」
そして、ハンスもこんな一面があるなんて思わなかった。
さすがルイが信頼して側に置いて、副団長まで任せているのが分かる。
母が呑気に「痛くないのかしらぁ」と言っていた。
呑気すぎる……。
痛いに決まってるじゃん、と私は思いつつ、何も言わなかった。
「ハンス!鍛錬をユーマと変われ!」
「承知いたしました、坊ちゃま」
ハンスが剣を収めると、どこからともなくユーマが来た。
お兄様に向かって拳が飛び、寸でで避けたお兄様の後ろにあった木が大きく凹む。
凹んだところから木はひび割れてしまい、倒れた。
しかしそれを見たルイが、大声で怒鳴る。
「ユーマ!!!うちの木を勝手に倒すな!!!」
「すいませーん。避けられちゃいましたぁ!」
「うちの木だぞ!先祖代々わざわざ植林しているんだ!!!」
「はーい、気をつけまーす!」
気を付けるって何を?と私は思った。
何を気をつければ木を倒さなくなるの?
そもそも殴って木を倒す人間がいる!?
私は寄せていたアリシアをさらに強く抱き寄せた。
「ってことで、あんまり逃げないでもらえますかね?」
「え~、それって僕には無理な話じゃない?」
ユーマは兄に向って拳を放つ。
そのスピードは速く、そして重たい。
短剣を取り出して、お兄様の足を狙った。
しかしそれを、お兄様は弾く。
本当に鍛錬なの?と思ってしまうくらいに私はドキドキしてしまう。
「ああ、カリブスが、うちの馬鹿息子が……」
「お父様、お言葉が」
「いや、あれば本当に馬鹿息子だぞ!」
自分の息子なのに。
父はそう言いながらも、ユーマと鍛錬を続けるお兄様を見ていた。
その横顔はまるで夢を追いかける少年のようだ。
ああ、お父様。
あなたもそうやって夢を追いかけていた時期があったんですね。
私はそれを見て、まるで物語の1ページを開いたかと思った。
「ハンス、ウォーレンス家の荷物を部屋へ」
「承知しました、坊ちゃま」
「妹はセシリアと同じ部屋にしてやれ」
ルイの言葉に、私は驚いた。
いいんだろうか。
部屋に結界をするとか言っていたのに。
「ルイ、いいんですか?」
「構わん。ただし、一晩だけだぞ」
「ありがとうございます。アリシア、あなたもお礼を言って」
妹に促すと、アリシアは静かに頭を下げ、お礼を言った。
少し緊張しているのか。
なんとなくぎこちなさは会ったけれど、この子だってまだ子どもだ。
これくらいは。
「アリシア、私の部屋を見せてあげるわ、行きましょう」
「お姉様、お兄様はいいのですか?」
「いいのよ、好きにさせておいて。お兄様のことはユーマがなんとかしてくれるわ」
お兄様とユーマの鍛錬は続いている。
このままお兄様が強くなって、決闘に勝てた時は、お兄様の恋は実るのだろうか。
いいや、絶対に実らせなくては!
ここで勝つのが恋物語の定番でしょう!
私はド定番の恋愛モノが大好きなのよ!
「お姉様、私のドレスも持ってきたので、見てもらえますか?」
「ええ、見せてちょうだい!」
「うふふ、素敵なドレスができたんです!」
「本当?よかったわ!」
「お姉様、あの、私が作ったネックレスはいかがでしたか?」
ネックレス。
アリシアが作ったもの。
私は、それを聞いて青くなってしまった。
あれを狙って、私は襲われたのだ。
マリアさんも怪我をして。
あの時、私はネックレスを踏んで壊してしまった。
残骸もルイが騎士団を通して処分してしまったので、どうなったのか詳しくは知らない。
「アリシア、ごめんなさい、その……あのネックレスは壊してしまったの」
「え、そうだったんですか?お姉様にお怪我は?」
「大丈夫、私には……怪我はないわ」
「よかった。ネックレスはまた作ればいいんです。お姉様がご無事なら!」
おかしいな、と私は思う。
こんなに私を想ってくれる妹が、あんなものを作ったの?
それとも別の誰か?
何が起きたの?
ルイに視線を送ると、話すな、と言いたげだった。
だからこの話は終わりにして、妹と歩き出す。
この子の知らないところで、何かが動き出しているような気がした。
アリシアは、私の結婚を反対していたけれど、今では受け入れてくれているようだ。
結婚式を楽しみにしてくれていて、いつものようにニコニコ笑って話をする。
つないだ手が温かい。
赤ちゃんの頃から変わらない。
あんなひどい目にあったけれど、それがこの子のせいだなんて思いたくない。
いいえ、きっと違う。
違うのよ、と私は何度も思いながら、妹の笑顔を見つめるのだった。