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第95話

老婆の話を聞いて、私はほとんど眠れなかった。

ルイの側にいたけれど、不安が大きくて、しっかり眠れなかったのだ。

夜が明ける前、お兄様が剣を握り締めた。


「起きたのかい、セシリア。ごめんね、奥様を早起きさせちゃってさ」

「お兄様……私が早起きが得意なの、知っているでしょう?」

「ふふ、知ってるよ。僕より何倍も早起きだもんね」


朝が来て、兄はついに決闘に臨む。

この戦いで、彼の愛がどうなるのか、私には分からない。

でもきっと。

必ず手に入るはずだ、と私は信じていた。


小屋の外に出ると、朝靄の中を美しい朝日が差し込み、自然豊かなこの土地が、更に美しいと感じられる。

今まで、貴族の世界ばかりを見ていた私にとって、ここでのことは新鮮であり、かつての自分の世界を思い起こさせた。


私の生まれた旅館の朝も、季節によってこんな日があったのだ。

美しい朝日、木々の新緑、池の鯉が鮮やかに泳ぎ、新鮮な空気がある、そんな場所で私は生まれ育った。

その老舗旅館の跡取り娘―――男の子が生まれなかったから、仕方なく。

私は男の子が生まれなかったから、仕方なく跡取りとしてその家に残されていただけ。

愛情はあったのか、なかったのか。

少しでも何か思うところは、あったのか。

家族の愛情も、祖母からも、母からも、父からも、大きな大切にされたという記憶なく、生きてきただけのこと。


その命が終わり、大好きだった本の中に転生した。

もしかしたら、これは私の脳内でできた幻覚かもしれない。

もしかしたら、これは嘘の世界なのかもしれない。


それでも。

目の前に差し込む朝日は本物で、今ここに生きている私は、本当の私だ。

私は、セシリア・ウォーレンス。

いいえ、セシリア・グラース。

この国の騎士団長の妻。

ちゃんと、生きているし、これからも生きるのだ。


兄のため、家のため、愛しい妹のために、この部族と交渉に入る。

彼らがどんな手を使ってくるか分からないけれど、私は彼らと交渉し、必ず誰も失うことなく、グラースの屋敷に戻ると決意していた。


「セシリアは、朝がよく似合うよね」

「……そうでしょうか?」

「セシリアは昇る太陽、アリシアは佇む月」

「太陽と月なら、一緒にはいられないじゃないですか」

「だから、僕やルイがいるんだろ?」


金色の髪を輝かせ、兄は笑った。

微笑む兄は、アリシアによく似ていて、そして母にもよく似ている。

家族の中で私だけが血の繋がりはないのに、大事にされた。

転生前の世界では、考えられないくらいに大事にされ、お金も時間もかけられたと思う。

だから、今もこうしていられる。

ルイに見つけてもらえた。


「私はルイと生きていくんですけれど」

「あらら、あんなに嫁に行くのを渋っていたセシリアがねぇ」

「渋ってはいませんが」

「ルイも不器用だからさぁ……でも、セシリアが側にいてくれたら、ちょうどいいかもしれないね」


まるで最期の言葉みたい。

お兄様ったら、そんな言い方ばかりするんだから。

嫌な予感を誰だって感じてしまう。


「お兄様」

「どうした、セシリア?」

「負けないでくださいね」

「負ける気があるなら、こんな山奥まで来ないだろ?」

「もう、そんなことばかり言って」


負ける気はない、負け戦に出て行くつもりはない。

それがこの国の騎士団だ。

騎士団に入ったからには、負けるために戦いに行くことは許されない。

国王陛下のため、国のため、国民のために、戦いに行く。

誰かのために、何かのために戦うのが、騎士団なのである。


「家族を増やすよ」

「変な言い方しないでください」

「いや、だって、彼女と結婚できたら、セシリアには姉ができるんだよ?家族が増えるじゃないか!」

「そうですけど、言い方が変です!」


兄は、笑っていた。

笑いながら、決闘の場へ赴いた。


我々は、部族の人たちが集まる中の一角に場所をもらった。

そうは言っても、周囲はとにかく部族の人たちばかり。

見た目も、衣類も、雰囲気も、何もかもが違うのだ。

男性たちは剣や弓など武器を持ち、若い女性でさえ、槍を握ってこちらを睨んでいる。

そうだろう、この部族にとって私たちは部外者。

もしも勝って族長の娘と結婚することになれば、外との交流もできるし、そもそも部外者が部族に入ってくる。

今まで外とのつながりを拒んできたのに、こんな形で門戸が開かれるのは、不本意極まりないのだ。


そう、だから。

だから私は、そこに交渉を入れ込む。

交渉することで、結婚して血が混じることだけではない、それ以外のことを伝えるのだ。

そして、若い人たちが自由になり、部族と外が交流を持ち、何もかもが丸くなるようにする。


「嬢ちゃん、交渉相手はこっちだ」

「ユーマ、ありがとうございます」

「ま、俺ができるのはこれくらいだからな」


ユーマが間に入り、私は交渉相手と会った。

そこにいたのは、長い黒髪と美しい顔をした女性だ。


「預言者だ」

「え、昨日のお婆さんは……」


私が会ったのは老婆だった。

あの人が預言者だと思っていたのに。


「先代です。代替わりしました」

「そ、そうだったんですね……」

「先代と話をしたんですね。先代は、ごく一部の人にしか話をしないんです」

「え……?」

「先の戦争で、家族を亡くしました。視えていたようですが、自然に逆らってはならない、と言ってそのまま家族を死なせてしまった、と。代替わりする頃には、少し精神を病んでおりました」


あのお婆さん……。

だから、魔女の話をしたのかもしれない。


「私は、あなたのことは多くは視えません。ですが、あなたの知りたいことに答えましょう。分かる範囲ですが」

「つまりそれは、私が何かを知りたい、と分かっているんですか?」

「はい。魔女のことでしょう」


知っていた。

本当に知っていた、と思うと、少し恐くなる。

場所を移動すると言われ、彼女の家である場所に案内された。

そこは、まさに工房と呼んでもいいようなところだ。

薬草のような匂いがして、乾燥させた植物、入れ物など、まさにと言った雰囲気。

ユーマは外で待つ、と言って中には入らなかった。


「お手数おかけしましたね、ここまで」

「いえ、私はむしろ……交渉をしに来たようなものなので」

「いいんですよ。私は外に出ることは反対していません。むしろ、外に出てもっと自由であってもいいと思うんです」

「それは……どうして、ですか?」


私が尋ねると、女性は優しく笑った。

どこかで見たことがあるような、そんな笑顔だ。


「子どもを産みました。だいぶ昔の話です。……外の人との間に」

「え?」

「でも、ここでは育てることができず、旅人に渡すしかなかったんです。だから、私は外へ出ることは反対していませんし、反対できません」

「あの、お、お子さんとは……それ以来ですか?」


私が尋ねると、彼女は儚く微笑むだけだった。

きっと、子どもとは生き別れたのかもしれない。

そうなれば、むしろ外に出られるようになって、子どもと再会したいのかも。

私は、そんなことを思った。

しかし今は、もっと大事なことがある。


「私……魔女のことを知りたくて」

「魔女の何を知りたいのでしょう?」

「……妹が、魔女の魂を持つと夫に言われました。覚醒すれば、妹の人格はなくなり、魔女になってしまう。そして、また争いが起きると思って……。妹が魔女に覚醒しなくなる方法は、ないかと……」

「魔女の覚醒……では、私の知り得る範囲での魔女の話をしましょう。きっと、あなたの知っている話とは違うはずです」

「違う……?」

「ええ。これは預言者によってつながれてきたもの。紙にも文字にも、何にも残っていないものですよ」


預言者である女性は、始終にこやかだった。

その笑顔にも何か意味があるのか?


私はそう思わずにはいられなかった。



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