老婆の話を聞いて、私はほとんど眠れなかった。
ルイの側にいたけれど、不安が大きくて、しっかり眠れなかったのだ。
夜が明ける前、お兄様が剣を握り締めた。
「起きたのかい、セシリア。ごめんね、奥様を早起きさせちゃってさ」
「お兄様……私が早起きが得意なの、知っているでしょう?」
「ふふ、知ってるよ。僕より何倍も早起きだもんね」
朝が来て、兄はついに決闘に臨む。
この戦いで、彼の愛がどうなるのか、私には分からない。
でもきっと。
必ず手に入るはずだ、と私は信じていた。
小屋の外に出ると、朝靄の中を美しい朝日が差し込み、自然豊かなこの土地が、更に美しいと感じられる。
今まで、貴族の世界ばかりを見ていた私にとって、ここでのことは新鮮であり、かつての自分の世界を思い起こさせた。
私の生まれた旅館の朝も、季節によってこんな日があったのだ。
美しい朝日、木々の新緑、池の鯉が鮮やかに泳ぎ、新鮮な空気がある、そんな場所で私は生まれ育った。
その老舗旅館の跡取り娘―――男の子が生まれなかったから、仕方なく。
私は男の子が生まれなかったから、仕方なく跡取りとしてその家に残されていただけ。
愛情はあったのか、なかったのか。
少しでも何か思うところは、あったのか。
家族の愛情も、祖母からも、母からも、父からも、大きな大切にされたという記憶なく、生きてきただけのこと。
その命が終わり、大好きだった本の中に転生した。
もしかしたら、これは私の脳内でできた幻覚かもしれない。
もしかしたら、これは嘘の世界なのかもしれない。
それでも。
目の前に差し込む朝日は本物で、今ここに生きている私は、本当の私だ。
私は、セシリア・ウォーレンス。
いいえ、セシリア・グラース。
この国の騎士団長の妻。
ちゃんと、生きているし、これからも生きるのだ。
兄のため、家のため、愛しい妹のために、この部族と交渉に入る。
彼らがどんな手を使ってくるか分からないけれど、私は彼らと交渉し、必ず誰も失うことなく、グラースの屋敷に戻ると決意していた。
「セシリアは、朝がよく似合うよね」
「……そうでしょうか?」
「セシリアは昇る太陽、アリシアは佇む月」
「太陽と月なら、一緒にはいられないじゃないですか」
「だから、僕やルイがいるんだろ?」
金色の髪を輝かせ、兄は笑った。
微笑む兄は、アリシアによく似ていて、そして母にもよく似ている。
家族の中で私だけが血の繋がりはないのに、大事にされた。
転生前の世界では、考えられないくらいに大事にされ、お金も時間もかけられたと思う。
だから、今もこうしていられる。
ルイに見つけてもらえた。
「私はルイと生きていくんですけれど」
「あらら、あんなに嫁に行くのを渋っていたセシリアがねぇ」
「渋ってはいませんが」
「ルイも不器用だからさぁ……でも、セシリアが側にいてくれたら、ちょうどいいかもしれないね」
まるで最期の言葉みたい。
お兄様ったら、そんな言い方ばかりするんだから。
嫌な予感を誰だって感じてしまう。
「お兄様」
「どうした、セシリア?」
「負けないでくださいね」
「負ける気があるなら、こんな山奥まで来ないだろ?」
「もう、そんなことばかり言って」
負ける気はない、負け戦に出て行くつもりはない。
それがこの国の騎士団だ。
騎士団に入ったからには、負けるために戦いに行くことは許されない。
国王陛下のため、国のため、国民のために、戦いに行く。
誰かのために、何かのために戦うのが、騎士団なのである。
「家族を増やすよ」
「変な言い方しないでください」
「いや、だって、彼女と結婚できたら、セシリアには姉ができるんだよ?家族が増えるじゃないか!」
「そうですけど、言い方が変です!」
兄は、笑っていた。
笑いながら、決闘の場へ赴いた。
我々は、部族の人たちが集まる中の一角に場所をもらった。
そうは言っても、周囲はとにかく部族の人たちばかり。
見た目も、衣類も、雰囲気も、何もかもが違うのだ。
男性たちは剣や弓など武器を持ち、若い女性でさえ、槍を握ってこちらを睨んでいる。
そうだろう、この部族にとって私たちは部外者。
もしも勝って族長の娘と結婚することになれば、外との交流もできるし、そもそも部外者が部族に入ってくる。
今まで外とのつながりを拒んできたのに、こんな形で門戸が開かれるのは、不本意極まりないのだ。
そう、だから。
だから私は、そこに交渉を入れ込む。
交渉することで、結婚して血が混じることだけではない、それ以外のことを伝えるのだ。
そして、若い人たちが自由になり、部族と外が交流を持ち、何もかもが丸くなるようにする。
「嬢ちゃん、交渉相手はこっちだ」
「ユーマ、ありがとうございます」
「ま、俺ができるのはこれくらいだからな」
ユーマが間に入り、私は交渉相手と会った。
そこにいたのは、長い黒髪と美しい顔をした女性だ。
「預言者だ」
「え、昨日のお婆さんは……」
私が会ったのは老婆だった。
あの人が預言者だと思っていたのに。
「先代です。代替わりしました」
「そ、そうだったんですね……」
「先代と話をしたんですね。先代は、ごく一部の人にしか話をしないんです」
「え……?」
「先の戦争で、家族を亡くしました。視えていたようですが、自然に逆らってはならない、と言ってそのまま家族を死なせてしまった、と。代替わりする頃には、少し精神を病んでおりました」
あのお婆さん……。
だから、魔女の話をしたのかもしれない。
「私は、あなたのことは多くは視えません。ですが、あなたの知りたいことに答えましょう。分かる範囲ですが」
「つまりそれは、私が何かを知りたい、と分かっているんですか?」
「はい。魔女のことでしょう」
知っていた。
本当に知っていた、と思うと、少し恐くなる。
場所を移動すると言われ、彼女の家である場所に案内された。
そこは、まさに工房と呼んでもいいようなところだ。
薬草のような匂いがして、乾燥させた植物、入れ物など、まさにと言った雰囲気。
ユーマは外で待つ、と言って中には入らなかった。
「お手数おかけしましたね、ここまで」
「いえ、私はむしろ……交渉をしに来たようなものなので」
「いいんですよ。私は外に出ることは反対していません。むしろ、外に出てもっと自由であってもいいと思うんです」
「それは……どうして、ですか?」
私が尋ねると、女性は優しく笑った。
どこかで見たことがあるような、そんな笑顔だ。
「子どもを産みました。だいぶ昔の話です。……外の人との間に」
「え?」
「でも、ここでは育てることができず、旅人に渡すしかなかったんです。だから、私は外へ出ることは反対していませんし、反対できません」
「あの、お、お子さんとは……それ以来ですか?」
私が尋ねると、彼女は儚く微笑むだけだった。
きっと、子どもとは生き別れたのかもしれない。
そうなれば、むしろ外に出られるようになって、子どもと再会したいのかも。
私は、そんなことを思った。
しかし今は、もっと大事なことがある。
「私……魔女のことを知りたくて」
「魔女の何を知りたいのでしょう?」
「……妹が、魔女の魂を持つと夫に言われました。覚醒すれば、妹の人格はなくなり、魔女になってしまう。そして、また争いが起きると思って……。妹が魔女に覚醒しなくなる方法は、ないかと……」
「魔女の覚醒……では、私の知り得る範囲での魔女の話をしましょう。きっと、あなたの知っている話とは違うはずです」
「違う……?」
「ええ。これは預言者によってつながれてきたもの。紙にも文字にも、何にも残っていないものですよ」
預言者である女性は、始終にこやかだった。
その笑顔にも何か意味があるのか?
私はそう思わずにはいられなかった。