あれから、実のところ数日が経った。
父は姉に縁談の話が来ていることを言えずに、次の仕事に向かったようである。
今回屋敷に戻ったのも一時的なものであり、また数週間は戻らない予定だ。
アリシアは、父を笑顔で見送り、姉にまだ縁談話が回っていないことを確認して安堵の息をついた。
姉へ縁談話が来たのは、正直なところこれが初めてではないのを、父とアリシアは知っている。
貿易商を営む父と、学園を常に主席で過ごしていた長女となれば、関係を持ちたい貴族は多いらしい。
しかし、そんなこと妹にとっては関係ない。
姉は自分だけの姉であって、家や金のために嫁ぎ先を決めるようなことがあってはならない、と思っている。
同時に、このまま姉が嫁ぐことなく行き遅れ、そのまま年を取ってしまえば、次の転生先を考えてもいいかもしれない。
この世界でも上手く行ったのだから、次の世界でも上手く行くはず。
自分が成人した頃には、魔力も十分に回復しているであろうから、今度は計画的に魔力を貯めて、次の世界を選んでもいいな、とアリシアはニヤリと笑う。
紅茶に映った自分の顔は、まさに悪女であった。
姉の幸せを願う、最恐の悪女である。
それを繰り返していくならば、これから先、幾つもの世界を姉の魂と渡り歩くことができるだろう。
そうなれば、今までの孤独は感じることはなくなるし、楽しい日々が待っている。
なんなら、魔力を大量に使って、記憶を改ざんしてもいい。
できなくはないのだが、魔力の消費量がとんでもない量になってしまうので、そう簡単には行えないだけだ。
自分好みの姉を作っていく―――いや、今度は反対でもいいかもしれない。
それも面白いだろう。
そんなことを考えていると、口元が緩んでいく。
「アリシア、ケーキが焼けたわよ」
「まあ、お姉様!」
「見てちょうだい、とっても美味しそうでしょ?」
ニコニコ笑う姉は、とても愛しい存在だ。
アリシアは姉に向かって満面の笑顔を見せた。
「お姉様、今日のお紅茶はとってもいい香りがいたします!」
「そうでしょう?新しい茶葉なのよ!アリシアが気に入ると思ったわ」
姉は妹の好みを把握している、と思っているかもしれなかった。
しかし、実際は妹が姉の喜ぶことを理解しているのだ。
金色の髪や青い瞳、これだけでも姉は大好きで、それに人当たりがよければ十分だ。
貴族の令嬢としてのよさよりも、もっと姉が好むもの。
それはこの「本」の中にある、キラキラ輝く乙女の姿。
「お姉様、お父様ったら、お仕事ばかりですね」
「そうねぇ。今度はどちらに行かれるのかしら」
「この前は砂の国へ行かれたと聞きました」
「あら、だから向こうの織物があったのねぇ」
刺繍が好きで、料理が好き。
綺麗なものをさらに綺麗に、それが姉の大好きなこと。
キラキラ輝く、お姫様を姉は所望しているのだ。
か弱くて、可愛らしい。
ドレスが似合って、リボンをつける。
そんなものが大好きな姉を、大好きな妹。
私だけを見てくれればいい―――たとえ、中身が魔女でも。
「アリシア、私ね、学園を卒業したのだけれど……」
「どうしたのですか、お姉様?」
「家にずっといるのもいいけれど、少し働きに出てみようかと思って」
「は?」
間抜けな声が出た。
この姉、何を言っているのだ。
貴族の娘が、貴族として生きてきた娘が、働きに出る?
そんなこと、できるはずがない。
いや、普通はそんなことを考えない!
「家庭教師に出ようと思って」
「か、ていきょうし?」
「そうよ。いくつか知り合いのお屋敷を回って、家庭教師に入らせてもらおうかと思うの」
「か、か、か、家庭教師ィ!?」
ということは、妹の時間を捨てて、別の人間を育て上げるということ?
愛しい妹との時間を、ゆっくりのんびり、楽しむという選択はないということ!?
アリシアは混乱していた。
そもそも貴族の娘が働きに出るだけでも、おかしいというのに、家庭教師だなんて野蛮すぎる!
「お姉様が家庭教師ですか!?」
「ええ、そうよ。駄目かしら?」
「いえ、その、あの……」
「学園に入る前の子に色々習い事を教えたりするの。素敵じゃない?」
素敵じゃない。
まったくもって、素敵じゃない。
なんで、そんなことに結論が出たのか。
アリシアは、それを回避すべく、頭をフル回転させた。
「お姉様、か、か、家庭教師ならば、まずは私に色々教えてくださいませ!?」
「あら、アリシアにはいつも色々教えているでしょう?」
「も、ももも、もっと、色々教えてください!!」
目が回るような、展開にアリシアは本気で困り果てていた。
姉はもともとそんなところがある。
だから、転生前の世界で自殺しようとしていた人間に飛び掛かり、一緒に死んでしまったのだ。
そんな姉だから、一度言い出したら、もっと大きなものがなければ意見を変えることはない。
どうしよう。
本気で困った。
自分が魔女であることを明かしてしまおうか。
アリシアはそこまで思う。
しかし。
しかし、そんなことをすれば姉が哀しむのも分かる。
妹が魔女だなんて知ったら、心優しい姉はひどく哀しんでしまうだろう。
それは避けたい。
哀しませたいわけではないのだ。
アリシアは頭をとにかく回転させ、答えを、急ぐ。
「お、お、お、お姉様に大事な話がある、とお父様が」
「あら、そんなこと言っていたかしら?」
「お、お忙しいようで、帰るまで待つように、と……」
「あら……じゃあ、家庭教師に出る話もその時にしようかしら」
「そうですね!それまでは急がない方がよろしいかと思います!」
一生続く安定や安寧はない。
いつの日か、揺るぎがくるもの。
それが、今、目の前に。
姉の結婚を阻止したつもりだった。
阻止したつもりだったけれど、貴族の娘が家庭教師に出るなんてことよりはましなのだろうか?
「仕方ないわね。お父様がお帰りになるまで、ゆっくり過ごしましょう」
「はい、お姉様!」
「じゃあ、それまではアリシア専用の家庭教師ね」
「はい!」
アリシアは、その言葉につい心をときめかせてしまった。
自分専用の家庭教師になってくれる姉。
姉との充実した時間。
愛しくて、甘くて、幸せ。
だから、アリシアは油断してしまったのだ。
父の帰りが早かったこと。
縁談話がかなり押しが強く、すぐに返事が必要である状態にあったこと。
帰り着いた父親は、セシリアを部屋に呼びつけ、縁談話を受けなければいけない、と話を進めた。
相手は顔も知らない、この国の騎士団長だ。
しかしこの家にしてみれば、騎士団長の家に養女がもらわれて行くならば、安泰ではないか。
ついに姉は、結婚することになってしまった。
傾いた家のため、お金のため、哀しい結婚だ。
アリシアはそれを止めたかったが、それよりも早く騎士団長が動いてしまった。
騎士団は、魔女を討伐するために結成された、国を守るものだ。
自分が魔女であることが知られるのは時間の問題である。
なぜなら、騎士団長の家系には、魔眼というものを代々受け継いでいる。
その目で見られれば、自分の魂が魔女だと分かってしまう。
姉の結婚相手には会いたくないが、姉には会いたい。
どうしたらいいのか、と考える。
結婚式の前に、姉は騎士団長の屋敷に移り、結婚式までを過ごす。
貴族の家では、新しい家のことを学ぶ。
大きな貴族の家では、荷物が多いこともある。
荷物の運び出しで時間がかかるため、結婚式までの時間を長くとることもあるのだ。
姉のいなくなった屋敷はつまらない。
あの温かくて、あの自分だけを愛してくれる存在がいない。
妹は、父の馬車を勝手に拝借して、屋敷を飛び出すのだった。