魔女は、最後に何をしたのか―――それが目の前一帯を爆破させ、すべてを焼き尽くすこと。その瞬間をカリブスはただ茫然と見ていた。まさかこんなことが起きるなんて。騎士団の半分以上を巻き込み、その地を魔力と炎で焼き尽くした。それをただ見ているだけ、自分の剣が何にもならないことを知った瞬間。彼にとって、それは絶望に近い味をしていた。魔女に深手を負わせたのは、ルイフィリアとフォールスの母であるエルデ・グラース。赤毛に緑の瞳を持った、強き女騎士。しかし相手は魔女に覚醒したとは言え、実の姉だ。エルデは自身の命を懸けて深手を負わせることしかできなかった。戦場に散ったエルデと命の危機となっている騎士団長。騎士団長は、魔女の魔力によってひどい呪いを受け、きっとこのまま息を引き取るだろう。その前に長男であるルイフィリアに家督と騎士団長を譲ると考えられている。
そして。
「ルイフィリア様!」
駆け付ける騎士団の誰もが傷ついていた。魔女の炎に焼かれ、魔女の呼び出した冥府の敵に貫かれ、大怪我を負っている。彼らを統率するべきルイフィリアもかなりの傷を負っていたが、彼は倒れることができなかった。両親が倒れ、残るは自分と弟だけのグラース家だ。しかしその信頼すべき弟も、魔女の炎に焼かれてしまっていた。
部下が連れてきたのは、かろうじて意識だけを残したフォールスであり、知らぬ者が見ればただの焼け焦げた死体にしか見えなかっただろう。彼の胸に残るグラース家の紋章が、ルイフィリアの手の中で燃え尽きた。
「に、さ……」
「フォールス!!」
魔女の炎は地獄の炎と呼ばれ、一度火が付けば消えることはない。焼かれた人間は、命どころか魂までを食われるという。崩れ逝く弟を見て、ルイフィリアは泣いた。騎士が泣いてはならぬと分かっていたが、最愛の弟が死んだのだ。家族を次々に喪い、ルイフィリアは意気消沈してしまう。彼にとって、家族は最愛の者であった。
フォールスの遺灰と共に魔女に決死の剣を向けようとした時、焼け野原の炎が消えた。それはつまり、魔女がこの地を去ったのだ。ルイフィリアの魔眼で周囲一帯を探したが、魔女の痕跡はどこにもなかった。騎士団の死体が山のように残り、共闘した山岳の部族の死体もちらほらと見える。ルイフィリアは、当てもなく彷徨い続け、ついにハンスが彼を捕まえて部隊に戻した。
カリブスは、親友の死を間近で見ていた。正確には、フォールスが彼を庇って炎に焼かれたのだ。魔女の炎は魔力の高い者から狙っていく。それを知っていてフォールスは前に出たのである。魔女の炎に焼かれた時のフォールスの叫びを、カリブスは忘れられなかった。魔女の炎は人から尊厳も誇りも、理性も、何もかもを奪う。激痛と肺を焼かれる酸欠状態に苦しみ、フォールスは灰となって倒れる。その時の目が。母親譲りの緑色の目が、カリブスを睨んでいるようだった。いや、恨めしそうに見ていたのか。なぜ、カリブスを庇ったのか後悔していたのか。死者の声は分からないが、カリブスはあの目が恐かった。
戦争は、魔女の逃走ということで国王に報告され、終結となる。魔女は深手を負ったので、傷を癒すことに何年も費やすか、転生するかもしれない、という噂が国の魔術師が出した結論だった。魔眼を持つルイフィリアでさえ追跡できないとなれば、転生の可能性は非常に高く、場合によっては誰かの体を乗っ取るということもする可能性があり、今後の魔女の動きは予測がつかない。しかし、それは長年繰り返されてきた魔女との戦争の一端でしかないと、ルイフィリアは思うのであった。
ルイフィリアが屋敷に戻ると、しばらくしてそこへカリブスがやってきた。彼も傷を負っていたので、しばらく治療をしていたのである。家族のようにしていたカリブスの来訪をルイフィリアは喜んだが、彼が口にしたのは吉報ではない。
「騎士団を辞めるよ、ルイ」
「な……」
「ごめんね、もう僕では役に立たない。フォンを助けられなかったし」
「アイツのことは……仕方あるまい。魔女と戦う者の運命だ」
「君はそう思えるかもしれないけど、僕はそういう家には生まれてない。ただの貿易商の息子さ。それが剣を振っていただけのこと」
カリブスの目からは希望が消え、彼は剣を置く。
「もう、必要ない」
「待て、退団には騎士団長の許可がいる」
「君の許可があれば……」
「いや、父上は……まだ存命だ最後に会ってくれないか」
騎士団長、アシュベルツ・ウルス・グラースは、人のいい騎士団長だった。腕の立つ者は、荒くれ者が多いと言うが、彼はそんな人間ではない。むしろ、誰からも好かれ、どこに行っても愛されるような人柄だった。カリブスが入団試験を受けることになった時も、笑顔で受け入れてくれたような人である。
2階の突き当り、日当たりのいい部屋。ここはかつて、子ども部屋で子どもたちが遊ぶためによく行く部屋だった。命の灯が消えそうなアシュベルツに、ルイフィリアができることはそれくらいだ。もう傷も癒えない、苦しみも軽減してやれない、と医師から言われている。アシュベルツもルイフィリアも魔眼を持っているので、医師に聞かずともよく分かっていた。
「騎士団長、入ってもよろしいですか」
「あ、ああ……」
少しかすれた声ではあったが、返事がある。カリブスは震える手で扉をあけた。死臭と血の臭いが混ざっている。しかしそんな臭いには慣れていたので、カリブスは先へ進んだ。ベッドの上には、アシュベルツが横たわっている。かつて、大柄な男性だったが、今はまるで老人のようになっていた。
「団長……」
「フォールスか……」
「団長、カリブスです。カリブス・ウォーレンスでございます。あなたの一番速い剣です」
「ああ、カリブスか……ひ、さし、いな……」
「団長……!」
「最近、フォールスをみ、ないなぁ……そうか、えんせ、いにやったなぁ……」
痛みと苦しみはかつてのアシュベルツを失わせていた。今では記憶すらまともにない。息子の死を理解できず、ただベッドに横たわる存在だ。
「カリブス、おまえの、父は元気か……」
「はい、団長……」
「そうか、あれとは、学園で、友だったんだよ……アイツは、頭がよくてなぁ」
「そうだったんですね、団長」
「あれは、騎士団に入りたい、と。でも、しけんにおちて、それきりだよ……恨まれてしまった」
それは違う、とカリブスは思った。父は騎士団に入れなかったことが恥ずかしく、商人になることを選んだのだ。貴族の子が承認になるなど恥ずかしいことだ。恥ずかしいことだが、父はその道しかなかった。
「父は、あなたを恨んではいません。今は立派な貿易商です」
「そうか、よかった……そういえば、フォールス、お前は、いつかえってきた?」
「団長……」
「ルイフィリアはよくしてくれる、いい子だ……お前も、ちゃんと……」
伸ばされた手が宙を切る。そんな、と思った瞬間にカリブスは部屋を飛び出してルイフィリアを探した。
「ルイ!!団長が!!」
ルイフィリアに飛びついて叫ぶと、彼は静かにカリブスを見た。
「すまない、付き合わせて」
「そんな……」
「側に、いられなくて……」
喪いすぎて、これ以上は耐えられなかった、とルイフィリアはそう言った。母と弟を喪い、父まで。彼にとって家族が消えていく瞬間に立ち会いすぎて、もう心が折れていたのだ。
こうして、カリブス・ウォーレンスは騎士団を後にする。
その許可を出したのは、新たな騎士団長となったルイフィリア・レオパール・グラースであった。