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第50話  楽しい時の幕切れ

 王都の郊外には、小高い丘がある。

 起伏のある土地を均して街を形成した、その名残りだ。

 平民が多く住む街、その周囲をぐるりと囲む高い塀の外に存在するのだが、リティスは一度も登ったことがなかった。

 芝のように短く刈り込まれた遊歩道があるからには、気晴らしに訪れる者も多いのだろう。

 宝飾品店を出たアイザックに連れられて向かったのが、その丘だった。

 小高いといっても、裾野の森林帯から頂上まではそこそこの距離がある。スズネが選んだ踵の低い靴でなければ苦戦したかもしれない。

「わぁ……!」

 頂上にたどり着いた頃には、空は茜色に染まりはじめていた。

 たなびく雲がいつもより近く感じる。

 少し火照った頬を撫でる風が心地よかった。

 塀の向こう、遠くに見晴るかす街は建物が密集しており、雑多な雰囲気だ。あの賑わいや熱気、アイザックと食べた昼食まで鮮明に浮かんでくる。

 楽しかった今日の出来事を思い返しながら、リティスはアイザックを振り返った。

「少し登っただけなのに、眺めがいいんですね!」

「王都は窪地を利用して作られたからな」

 ほんの少し足を伸ばしただけで、こんなにも見応えのある景色を眺められるとは思わなかった。同じ王都なのに、中にいる時とは全く印象が違う。

 隣に立って同じ景色を見下ろすアイザックも、満足げに笑っていた。

 夕陽の色に染まった銀色の髪が、柔らかな風に揺れている。その横顔は王都の街並みと同じくらい、リティスの心を惹きつけた。

「——リティス?」

 アイザックの視線がこちらを向いたので、慌てて目を逸らす。見惚れていたことが知られては恥ずかしい。

 思いが通じ合っても、そこからほとんど間を置かず婚約者となっても、彼の美しさには未だに慣れない。子どもの頃から思い続けていた弊害だろうか。

「えっと、アイザック様は、こちらに来たことがおありなのですか?」

「あぁ。家族でな」

「えっ、両陛下方と?」

 驚きの情報に目を瞬かせる。

 まさかやんごとなき身分の方々が、家族で丘を登っていたとは。

 ——意外……でも、ないのかもしれない。

 アイザックと再び親しくなってから、彼らの仲のよさを間近にする機会が多かった。

 家族で、ちょっとしたピクニック気分で遊びに来たのだろう。何なら食事も用意していた可能性がある。

 親しみやすい王族一家の様子を想像して微笑んでいると、ふと肩に手が置かれた。

 いつの間にか、アイザックとの距離が近い。

 二人きり。……正確には、護衛として諜報部隊のスズネや騎士達がそこかしこに潜んでいるのだろうが、気配すら感じられないのでリティス的には実質二人きりだ。

 急にそれを意識してしまい、鼓動が速くなる。春の暖かい風よりも、隣に立つ彼の温度を強く感じる。

 一応婚約者なのに、やっぱり緊張が隠せない。

 ——あ、あんなふうに、裸同然の格好で抱き合ったこともあるのに……。

 閨係だった頃より、むしろ関係が後退しているような気がした。

 いい加減慣れないと、そろそろ本気で愛想を尽かされるのではと不安になる。

 リティスは懸命に緊張を押し隠し、一際明るい声を上げた。

「そ、そういえば! 宝飾品店でクローディア様にお土産をと話していたのに、結局買わずじまいになってしまいましたね!」

 アイザックは、戸惑った様子ながらも相槌を打った。

「あ、あぁ……そんなことも言っていたな」

「はい! クローディア様に相応しい品がたくさんありましたよね!」

 とにかく意識を逸らそうと必死だったため、リティスは面白くなさそうに顔をしかめるアイザックに気付かなかった。

「特に、ウルジエ共和国製のネックレスはクローディア様のために作られたといっても過言ではない美しさでした! うっすらと赤みがかった真珠で、まさにあの方を象徴するような——……」

「——あの場に用意したのは、全てリティスのためのものだが?」

 言葉じりを捉える語気の鋭さに、リティスは肩を揺らした。

 震えが伝わったのか、彼はすぐに肩から手を離し、謝罪を口にした。

「すまない。だが……俺はあれらを、リティスに捧げる用意があった。全て、お前に似合うと思ったからだ」

「あ……」

「それをお前自身に否定されると、辛い」

 アイザックの、苦みを帯びた笑み。

 傷付けてしまったと分かるのに、リティスは咄嗟に何も言えなかった。

 散々贅沢だと拒絶しておきながら、今さら弁解の余地などない。

 ——それに……私に似合うなんて、到底信じられないし……。

 希少価値の高い宝飾品達が飾るのは、クローディアのような最上級の人間であるべきだ。

 リティスではきっと持て余す。

 懐中時計も、ネックレスも、ショールも。

 身につけた途端に色褪せてしまうのではと、そんな気さえした。

 黙り込んだリティスを眺め、アイザックはますます皮肉げに笑った。

「……俺は、今日一日をリティスと過ごせて楽しかった。だが、リティスはどうだ?」

「どう、とは……」

「勉強の時間を潰されたこと、ずっと気にしていたのではないか?」

「……っ!」

 痛いところを突かれた気がした。

 つまり、図星だった証拠だ。

 アイザックの可愛い我が儘に振り回されるのは、決して嫌じゃない。今日だって心から楽しかった。

 普通の恋人同士のように街を散策し、互いの膝がつきそうなほど小さなテーブルでごはんを食べて、笑い合って。

 平凡で理想的な、夢みたいな一日。

 楽しかったに決まっている。

 ……けれど、交流会が間近に迫っているのに遊び歩いていてもいいのか、という懸念が頭の片隅にちらついていたのは——本当。

 交流会の接待役を完璧にこなしたい。

 その願いは、突き詰めればアイザックの婚約者として認められたい思いの表れだ。

 だがそのために……リティスは、一緒に王都へ出かけたいという彼の純粋な思いを、否定してしまったことになる。

 言い訳すらできずにいると、アイザックはため息を落とした。

 まるで何かを諦めるような、重い吐息。

「……すまなかった。もう、今日のように勉強の邪魔はしない」

 作り損なったような笑顔に、息ができなくなる。

 そんな顔をさせたかったわけじゃない。

 そんなことを言わせたかったわけじゃない。

 それなのに、喉の奥に詰まった言葉は出てこない。

 ——こんな……謝ることもできないなんて……。

 リティスは、自分の要領の悪さに嫌気が差した。

 素直に甘えられれば、きっと彼だってこの場限りのこととして流してくれるだろう。

 けれど心のどこかでは、自身の思いを否定したくないと思っているのだ。

 今頑張るのは、アイザックの隣に並び立つため。いわば二人の未来のためだ。

 息抜きが大事だというのは分かる。アイザックは間違っていない。

 だが、リティスだって間違っていない。絶対に間違っていないのだ。

 もし今ここで謝っては、自分が間違っていたということになりはしないか。そんなふうに考えてしまって、リティスはどうしても謝ることができなかった。

 今まで、こんなにも頑なになったことがあっただろうか。

 実父を恐れて言いなりだったリティスは、どこに行ったのだろう。

 鬱々とした気分でそんなことを考えてしまうのは、アイザックとの間に会話がないからだ。

 結局、王宮に戻るまでの道中、ずっと互いに無言のままだった。

 こうして、楽しい一日は気まずい沈黙で幕を閉じた。


◇◆◇


 三日も経てば、リティスは既に後悔でいっぱいになっていた。

 やはり間違っていたかもしれない。

 こんなくだらないことで意地を張って、婚約者と気まずくなって。愚かとしか言いようがない。

 とはいえ、時間が経てば経つほど、会いに行くにも勇気が必要になってくる。

 息をつく暇もない王子妃教育が、それに拍車をかけた。

 閨係をしていた時とは異なり、今のリティスはただアイザックのことだけを考えているわけにもいかない。

 和解の時期を先延ばしにしている内に一週間、二週間と時が過ぎ——あっという間に一ヶ月。交流会開始当日となっていた。

 今日は来賓達が謁見の間に会し、顔合わせを兼ねた歓待の儀を行っている。

 リティスも、同盟国から訪れた使者達を、王族や国政の重鎮達に交じりながら出迎えている最中だった。

 当然アイザックも出席しており、久しぶりに彼の姿を視界の端に収めれば、色々考えずにはいられない。

 けれどリティスは、努めて笑顔を作った。

 ——今は、目の前のことに集中するの。これまで頑張ってきたことを、無駄にしないように。

 本音を言えば、アイザックとのことを誰かに相談したい。

 恋人や婚約者、あるいは夫と喧嘩をしたことはあるか。あるとすれば、険悪な期間はどれくらい続いたか。どのように和解したのか。 

 けれど『スキモノ未亡人』と噂されていたこともあり、リティスには同年代の友人が極端に少ない。相談しようにも助けを求められるような相手がいなかった。

 唯一エマならば、友人兼家族と呼べるかもしれない。

 だが相談しようにも、アイザックに対して否定的な彼女は大げさに騒ぎそうだし、改めて結婚に反対でもされたらリティスが困る。

 ——気軽に頼れる、同年代で同性の友人……他の人達は、どうやって友人を作っているのかしら……。

 思わず遠い目になってしまうほど、友達がいない。現実が辛すぎる。

 子どもの頃からもっと積極的に社交の場に繰り出していれば、何かが変わっていたのではないかと考えずにいられなかった。



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