そして日が落ちる頃、晩餐会がはじまった。
緑雨の間は、大事な会合で使用されることが多いという。
大広間ほどの空間はなく、中央には真珠と金で飾られた大理石の長卓が鎮座している。
大輪の百合の花が活けられた花器は緑青色で、部屋全体が白一色の中、とりわけ鮮やかな印象だ。
この部屋がほぼ白色で統一されているのは、来賓達を際立たせるためかもしれない。
各国の正装が集い、それぞれに異なる趣の美しさを見せている。
ウルジエ共和国の酋長と息子フロイは、裾が広がった軽やかな衣装に身を包んでいる。
幾何学模様が施された布地自体が薄手なので、ルードベルク王国の正装と比べると堅苦しくない。男性が鮮やかな色を着こなすというのも新鮮だった。
レーデバルト連邦の首相と娘シマラは、さらに薄い透けるような生地を幾重にもまとっていた。
内側の布地が淡く色味を発することで色彩が混じり合い、幻想的な雰囲気をかもし出している。
フェリオラ王国のエレーネ王女が着用しているのは、ルードベルク王国で主流のものと似たドレスだ。
昼に会った時より華やかに装っており、色は清楚な印象の淡青色。宝飾品も青系でまとめており統一感があった。
ルードベルク王国の王族も、誰一人見劣りしていない。
各国の代表が一堂に会すると、それだけで目にも賑やかな光景だった。
厳かな空気の中、晩餐会がはじまる。
まずは開催国であるルードベルク王国の代表として、ケインズが乾杯の音頭をとった。
「我らの同盟が、この先もつつがなくあるように」
全員がグラスを掲げ、末席についたリティスもそれにならった。
隣の席に、チラリと視線を走らせる。
リティスの隣にはアイザックが座っていた。彼は普段と変わらぬ様子で、早速正面に座ったシマラに話しかけている。
話題は素晴らしい衣装についてで、彼女は言葉少なに応じていた。会話を嫌っているというのでもなく、元々寡黙な性分らしい。
シマラの隣に座っている母親のデュセラは、むしろ積極的にユレイナと会話をしているようだった。
三十八歳ということらしいが、溌剌とした様子から年齢を感じさせない。衣装から覗く引き締まった腕もしなやかで、武芸に秀でているだろうことが見て取れた。
ルードルフとクローディアの正面には、ウルジエ共和国の親子が座している。
息子のフロイが美しくも人好きのする容姿なら、父親のオルジオはとにかく威厳に溢れていた。
鋭い鷹のような眼差しと、整えられた顎ひげ。彫りが深い顔立ちは国柄だろうか。一見話しかけづらい雰囲気だが、ケインズと酒の話題で盛り上がっているところをみると、穏やかな気質なのだろう。
来賓達を観察していると、フロイと視線がぶつかった。
不躾に見つめるのは非礼にあたる。リティスは素早く視線を外そうとした。
だがフロイからは、思わぬ反応があった。
こちらの非礼など気にする様子もなく、むしろ笑顔でリティスを見つめ返してきたのだ。柔らかな笑顔になるとさらに親しみやすい印象になり、視線を外すのも忘れて見入ってしまった。
——フロイ様の笑った顔……どこかで見たような……?
ふと頭に掠める既視感はあったものの、目の前で繰り広げられる会話に気を取られる。
シマラと話していたアイザックに、今度はエレーネが声をかけていた。
彼女はフェリオラ王国の宝石加工技術について最新の情報を語り、アイザックはそれを熱心に聞いている。
見ていられなくて、リティスはさりげなく視線を逸らした。
今自分は、普段通りに笑えているだろうか。
味のしない食事を淡々と進めていると、不意に隣から声がかかった。
「——レディ・ディミトリ」
見上げると、傍らにはフロイが立っている。
彼は気取らない笑顔で手を差し出した。
「酔い覚ましに、夜風に当たりたくなりました。お許しいただけるのでしたら、少々お時間をいただけませんか?」
どうやら案内を頼まれているようだ。
一人手持ち無沙汰にしていたから、気を遣われたのだろう。
フロイは気配りも完璧で、リティスの婚約者であるアイザックにも伺いを立てる。
「アイザック殿下。あなたの大切な花を、ほんのひと時お貸しいただいてもよろしいでしょうか?」
面と向かって尋ねられれば、アイザックも断りづらい。女性の自由を尊重しない、心の狭い婚約者だと思われてしまうからだ。
アイザックからの了承を得ると、フロイは改めて手を差し出した。
「ルードベルクの王城の庭園は、それは見応えがあると聞きます。レディ・ディミトリ、案内してくださいますか?」
「……はい。喜んで」
リティスはフロイの手を取って立ち上がった。
アイザックへ、素早く視線を送る。
彼の眼差しは心配を隠しきれていない。それでも黙って見送らなければならないせいで、ひどく歯痒そうだ。
夜の庭園は、ランタンやろうそくで幻想的に照らし出されている。
春の夜は、散策をするにはちょうどいい気候だ。
けれど夜の庭園にて、元騎士団長に拘束された記憶は新しい。
リティスはとてもではないが歩き回る気になれず、建物からほど近いガゼボにさりげなくフロイを誘導する。
「話に聞いていた通り、素晴らしい庭園ですね。王妃殿下はまるで魔法使いだ」
「ありがとうございます。それを聞けば、王妃殿下もお喜びになると思います」
ユレイナの園芸好きは、同盟国間でも有名らしい。
リティスはようやく、肩の力を抜いて笑えた気がした。
淡い明かりに照らされ、フロイが笑い返す。
彼の黒い瞳は、夜の暗さなどものともせずに輝いている。星空を閉じ込めたように美しく、爽やかな笑みと相まってひどく魅力的だった。
「リティス様、とお呼びしても?」
「え?」
「実は今回の訪問、あなたにお会いすることも楽しみの一つでした」
フロイは、リティスのことを以前から知っていたかのように話す。
だからこれほど親しげに接するのだろうか。だが、リティスには面識があった覚えはない。
——あ……でも、どこかで会ったことがあるような、あの感覚は……。
先ほど感じた既視感を思い出し、リティスはフロイをじっと見つめた。
彼は何も言わない。ただ楽しそうに、リティスの返答を待つばかりだ。
まるで、気付くかどうかこちらを試しているかのように。
けれど、考えていられる時間はそう長くなかった。
「——フロイ殿」
呼びかけに振り返ると、そこにはアイザックが立っていた。
「そろそろ晩餐会は解散となるので、報せに参りました。閉会の挨拶の際には、フロイ殿も同席していた方がいいでしょう」
「これはお気遣いいただき、感謝いたします」
時間切れだ。
公的な顔でアイザックに応じたフロイが、リティスを見下ろし残念そうに肩をすくめる。
「……今日はここまで。ですがリティス様とは、またゆっくりお話できる機会があればと思います」
彼は素早く囁くと、会場へ戻っていく。
その背中にリティスへの未練はなく、さっぱりとした態度にむしろ好感を抱いた。
意味深なことを告げられたけれど、口説かれたわけではないと思う。
フロイの接し方は、一貫して気さくな友人のようだった。ただ、リティスにはやはり彼と会った記憶がない。
真剣に考え込んでいると、急に腕を引かれた。
見上げると、アイザックが険しい顔をしている。
「暗がりで男と二人きりになって、もし襲われでもしたらどうするつもりだった!?」
「襲われ……彼は国賓ですよ。滅多なことをおっしゃってはなりません」
小声で声を荒らげるという器用な芸当をする婚約者を、リティスは慌てていさめた。
一応国賓のフロイを憚っているようだが、内容がひどすぎる。
まだ交流会ははじまったばかりなのだ。
ここで問題を起こせば、歓待役であるリティスにとって失敗と同義だった。
「それに、二人きりだったわけではありません。スズネもおりましたし、フロイ様も従者を連れていらっしゃいました」
「フロイ、『様』……?」
アイザックが、信じられないとばかりに目を見開いた。
「俺は最近になってようやく『アイザック様』と呼んでもらえるようになったのに、フロイ殿は出会った初日で……?」
突然どうでもいいことを比較され、リティスは頭が痛くなってきた。
こちらは交流会を成功させようと必死なのに、アイザックは何を気にしているのか。
「彼の国は共和国。酋長様はともかくフロイ様には敬称がございません。便宜上そう呼ばざるを得ないのはお分かりでしょう?」
「分かっている。分かっているから、今後は俺のことは『アイザック』と呼び捨てにしてくれ」
「全然分かっていないではありませんか……っ」
嫉妬ということは分かる。それがリティスへの好意から来るものだということも。
普段ならきっと、困ったり呆れたりしつつも、どこかに嬉しいと思う部分があった。
だが——……。
「……アイザック様だって……」
「? リティス?」
リティスは唇を噛み締めて俯いた。
本当は晩餐会の間も、先ほどクローディアから聞かされたことが頭の中をぐるぐると巡っていた。
アイザックが好き勝手に感情をぶつけるから、リティスの頭にも血が上っていく。
「リティス、一体どうし——……」
「——アイザック様だって……エレーネ王女殿下が婚約者候補だったこと、黙っていたではありませんか……!!」
しん、と辺りが静まり返る。
勢いで口走ったあとになって、リティスも一気に頭が冷える。
慌てて口を押さえるも、もう遅かった。
アイザックが呆然とリティスを見下ろしている。
アイザックに甘えられている証拠?
この事態を、そんな可愛らしい言葉で片付けられるだろうか。
……婚約者と、初めて口論になってしまった。