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第54話 何もかも上手くいかない

「リティスさんのドレス、とても素敵ね。ルードベルク王国で作られたものかしら?」

「はい。こちらは水が綺麗なリオーネ地方で作られた生地を使っております」

「素敵ね。わたくしのドレスは、ウルジエ共和国から取り寄せた最高級のレースがあしらわれているのよ。同盟国とより親睦を深められるようにと、あつらえたものなの」

「……とても素晴らしいと思います」

 せっかくの交流会の場で、自国のものばかり身に着けるべきではない——と、暗に言っているのだろうか。

 だんだん、エレーネのおっとりとした微笑みを見るのが苦痛になってきた。

 彼女と会話をする機会は多くあるのだが、毎回過度な緊張を強いられている気がする。

 うっすらと分かりづらい皮肉を仕掛けられるせいで、最近はどんな言葉も深読みをしてしまう。ほとんど疑心暗鬼だ。

 リティス自身がうまく対処ができないのも、苦痛の一因だった。

 完璧に跳ね除けることができれば、エレーネも懲りて嫌みを控えてくれるかもしれない。リティスがされるがままでいるせいで、彼女が好きに振る舞えてしまっているのだ。

 ——いきなり割り込んで婚約者になった申し訳なさとか以前に、跳ね返すだけの技量が圧倒的に足りていないから……。

 ユレイナ主催のお茶会で、クローディアは対等に渡り合っていた。

 それができないのは、リティスが未熟だからだ。

 交流会の日程をこなしつつ、エレーネの陰湿な攻撃に備える。

 それだけで心労が募り、他に気が回らない。

 くたくたになって眠る前、いつもアイザックの顔が浮かぶ。

 言い争いをしたあと、まだきちんと向き合えていない。

 このままではいけないことくらい分かっている。

 分かっているのに、忙しいことを言い訳にして逃げている。

 そうこうしている内に一週間も経ってしまった。時間が経てば経つほど気まずくなってきて、勇気が出ない。

 ——ううん。こんなことじゃ駄目よね。

 王子妃教育の過程で、逃げずに向き合うことをエルティアから学んだ。

 これは政治的な問題ではないけれど、対処方法は変わらない。目を背けていては前に進めないのだ。

 今日はたまたま、交流会の予定にぽっかりと穴が空いていた。

 たまたまというか、前日の夜に飲みすぎたユレイナとデュセラが二日酔いのため、王都郊外の河川で行われている橋梁工事の視察が中止になっただけなのだが……とにかく、降って湧いたこの休日を、利用しない手はない。

 ——交流会の日程終了まで、まともに時間が取れないかもしれない。この機会に、アイザック様と話そう。

 スズネによると、彼は現在執務室にいるという。

 王宮でも、限られた者のみが出入りできる東の翼棟。王族専用の執務室はそこに位置している。

 文官が多く働いている中央棟とは違って、東の翼棟は静けさが保たれている。

 執務室が近付くにつれ、緊張が増していった。アイザックの顔を見たら冷静になれないかもしれない。

 だからリティスは、事前に頭の中でやるべきことを羅列していた。

 カッとなって言いすぎたところは謝って、なぜ事前にエレーネとのことを話してくれなかったのかなど、訊くべきところはしっかり質問。

 仲直りがしたいこと。気まずくて二人きりになれなかった時間を、寂しく感じていたこと。以前のように何気ないことで笑い合いたいこと。この先も衝突することはあるだろうけれど、その都度きちんと向き合いたいこと。そうして、この先もずっと一緒にいたいこと。

 素直な気持ちを、ありのまま話すのだ。

 回廊を歩きながら、何度も確認しては反芻する。

 ——素直に、素直に……。

 リティスは自身の動悸を宥める。こんなに緊張するのは、久しぶりに二人きりになるせいか、喧嘩ののち関係修復という流れ自体が初めてだからか。

 いよいよアイザックの執務室が近付いてきた。

 回廊の角を曲がり、ゆっくりと顔を上げる。

 その時、突き当たりに人影を見つけた。

 日射しが差し込む南向きの窓を背にしているから、一瞬誰だか分からなかった。

 けれど、頭が理解するよりも早く、足が止まっていた。

 人影は二つ。

 一つはアイザック。見慣れた彼の横顔を、端正な立ち姿を、逆光だからと間違えるはずはない。

 もう一つ、アイザックと並んで立っているのは……エレーネだった。

 互いに真剣な顔で、何やら話し込んでいる。

 内密の話なのか声を潜めている。そのせいで二人の距離は、とても近い。

 腕を組んだアイザックが、頭一つ分背の低いエレーネに顔を寄せる。

 彼の口が、エレーネの耳元にゆっくりと近付き——リティスは咄嗟に背を向けて駆け出していた。

 心が悲鳴を上げている。

 なぜ、二人きりで会っていた?

 頑張ろうと、素直な気持ちで向き合おうと掻き集めた勇気が、バラバラに砕け散っていく。

 見たくなかった。

 もう何も。

「——リティス様!!」

 背後からリティスの手を引いたのは、スズネだった。

 彼女がついていたことを思い出し、にわかに冷静になっていく。

「ごめんなさい、スズネ……急に走り出したら、あなたにも迷惑よね」

 居住まいを正して微笑むと、彼女は珍しく眉をひそめた。

 痛々しいものを見るような眼差しも、今は辛い。リティスは気付かれない程度に視線を外す。

「……私の方こそ、たいへん申し訳ございません」

 思いがけず、スズネが謝罪を口にした。

 リティスは驚いて視線を戻す。

「な、何でスズネが……謝る必要なんて、どこにも……」

「アイザック殿下が、あなた様を傷付けた。不可抗力とはいえ、あの方は私の雇い主です」

「……不可抗力の使いどころが、間違っている思うけれど……」

 リティスの気持ちを紛らわせようとした、スズネの軽口なのだろう。

 つい笑ってしまったおかげで、確かにずいぶん楽になった。ようやくまともに息が吸えたような。

 リティスは、両手で包み込むように彼女の手を取った。

「ありがとう、スズネ……」

「お礼を言われるまでもありません。私にとってリティス様をお守りするのは、趣味であり生き甲斐ですので」

「フフ、仕事じゃなく?」

 キリリとした顔で宣言するスズネがおかしくて、リティスはまた笑う。冗談だとしても嬉しい。

 たとえアイザックと仲違いをしても、こうして味方をしてくれる者がいる。それだけで気持ちが救われた。

「……宮に戻るわ。今日は誰にも会わずに、ゆっくり休むことにする」

 戻る先がアイザックの宮という点に、若干の抵抗を感じるけれど。

 どうしてもエレーネといた場面を思い出してしまうので、本当なら物理的にも彼と距離を置きたかった。

 ——アイザック様を信じたいのに……。

 なぜ、元婚約者候補と内密に会っていたのか。胸に嫌な感情が湧き起こってくる。

 これは、嫉妬だ。

 まだ結婚したわけでもないのに、アイザックは自分のものだと叫びたくなる。先ほども、咄嗟に背を向けなければ彼らに駆け寄っていたかもしれない。

 彼に近付くな、この人は私のものだ——と。

 人目の多い中央棟を避けるため、東の翼棟の裏口から外に出る。業者や使用人などが利用する通用門を抜け、王族が生活をする奥宮に戻った。

 この辺りまで来れば、時折巡回の騎士とすれ違うくらいで、ほとんどひと気がなくなる。

 気丈に背筋を伸ばしていたリティスは、ようやく王子の婚約者としての体面を放り出すことができた。

「あーーーー、もう」

 本当なら座り込みたい気分だったが、さすがに外では憚られる。

 私室だったら、ベッドに飛び込んで足をばたばたさせるくらいはしていただろう。

「考えることが次から次へと……何で密会? 私に内緒にしていたのは疚しいところがあるから? やっぱりその場で問い質すべきだった? でもそうすると交流会にも支障が出ただろうし……あーーーー、もう頭の中がぐちゃぐちゃ……」

「荒ぶっておりますね。……偵察いたしましょうか?」

「抗いがたい誘惑だけれど……いいえ。諜報部隊のあなたの能力を使ってしまえば、それこそ職権乱用だもの」

 アイザックに会いたくないのにアイザックを問い質したいというのも、矛盾に溢れている。もう本当にぐちゃぐちゃだ。

 リティスは道沿いの花を眺めるふりをして、全力で項垂れる。

 こんな時、どう対処すればいいのかまるで分からない。恋愛経験がないせいだ。

「恋人の浮気への対処法……ルシエラの恋愛小説を、もっと読んでおけば……」

「その手法は問題しかないと、十分身に沁みているはずですが」

 スズネは具体的な部分をぼかしているが、閨係時代にやらかした数々の失態のことを言っているのだろう。

 アイザックの隣で快眠していたことや、謎のマッサージなど、黒歴史が次々に甦る。傷口に塩を塗るのはやめてほしい。

「それに、アイザック殿下を擁護するつもりはありませんが、浮気と断定するには早計かと」

「分かっているわ……まだ浮気未満よね」

「全く分かっておられないようで」

「けれど、どこからが浮気になるのかしら? 私は肉体的な接触だけでなく、心の触れ合いだって看過できないものだと思うわ」

 こうしてスズネと話しているだけでも、ずいぶんと気が紛れる。彼女もそれが分かっているから、あえて話に乗ってくれるのだろう。

 リティスが普段より饒舌なことも、無理のある笑顔も、指摘せずにいてくれる優しさがありがたかった。

 軽口を叩き合っていたスズネが、急に取り澄ました侍女の顔になる。

 どうしたのかと首を傾げていたリティスは、しばらくしてからその理由に気付いた。人の気配が近付いていたのだ。

 足音がリティスの耳にも届くくらいになってくれば、その人物の姿も明らかになる。

「——リティス様」

 にこやかに歩み寄ってきたのは、ウルジエ共和国のフロイだった。




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