「……フロイ様、こんにちは」
そうだった。
この辺りは、同盟国から来た貴賓達が滞在する区画とも近いのだ。
こんな時は、できれば誰にも会いたくなかった。
リティスは頬が引きつるのをこらえ、辛うじて微笑む。というか、うやむやになっている内にすっかり名前呼びが定着してしまっているではないか。
そこに抵抗を感じないほと、距離の縮め方が自然なのだろう。フロイは人の懐に入るのがうまいのだと気付く。
警戒心を抱かせない笑みを浮かべながら、彼は頭を下げた。
深々と体を折り曲げるようにするのが、ウルジエ共和国流の挨拶の作法だ。リティスも同じように頭を下げる。
「こんにちは。リティス様も散策ですか? ルードベルクの王宮の庭園は、どこもとても綺麗ですね」
「こんにちは。フロイ様も、散策をなさっていらっしゃったのですね。今日は突然予定が変更となってしまい、ご迷惑をおかけいたします。埋め合わせということでもございませんが、何かご要望がありましたら、ぜひお申し出ください。迅速に対応させていただきます」
「いえいえ、お気遣いなく。むしろこうしてゆっくり過ごす時間ができて、ありがたいくらいです。ここはとても綺麗ですから」
彼の視線が、庭園に咲く花へと注がれる。心からそう思っているのが伝わってきて、リティスはホッと息をついた。
華やかな庭園などもある中、ここはのどかな印象に作られている。
早咲きの小薔薇が見頃を迎え、黄色や白の花弁を控えめに綻ばせている。
細い糸状の葉が特徴的なニゲラが青色の花を咲かせ、その隣には小さな白い釣り鐘のように可憐なカンパニュラ。薄青色のデルフィニウムも、花穂を天に向けて伸ばしている。まるで、緑豊かな地方の花畑に迷い込んだかのようだった。
混乱や悲しみでほとんど目に入っていなかった花々が、ささくれた心を癒やしていく。
こんなにも綺麗なのに、リティスは花を楽しむ余裕さえなくしていたらしい。
「本当に……綺麗ですね。華やかな庭園も美しいですが、ここはとても落ち着きます。どなたかのお宅にお邪魔しているような、居心地のよさといいますか」
リティスの相槌に、フロイはおどけて肩をすくめた。
「分かります。優しくて穏やかで、その辺の木陰で横になって、居眠りをしたいくらいですよ」
「それは、ずいぶん気持ちがよさそうですね」
「おや、経験がない? 気分が晴れるのでおすすめですよ」
何気なくマーガレットの花弁に触れていた指先が、止まる。
彼の台詞は、リティスが落ち込んでいることを見抜くかのようだった。
フロイを振り返る。
目が合うと、彼は漆黒の瞳を無邪気に細めた。他意も敵意も感じられない、人懐っこい大型犬のような笑み。
もし、言葉を尽くして慰められていたら、リティスは隙を見せずに対応しただろう。
来賓をもてなす側の人間なので、その役割を放棄するわけにはいかない。愚痴を吐くなんて論外だった。
けれどフロイは、強引に悩みを聞き出そうとはしない。適切な距離感で、柔らかな空気で和ませてくれる。
だからリティスも、詰めていた息をゆるゆると吐き出していた。
「……ウルジエ共和国では、どなたも地面でくつろぐのですか? あの酋長様も?」
「うちの親父殿は例外ですね。だって、想像してみてくださいよ。あの厳しい顔で寝転んでいたら、通りすがりの国民がみんな飛び上がってしまいます」
「まぁ。眠っている時まで威厳を保たれるなんて、まさに国の代表のあるべき姿ではございませんか」
クスクスと笑って、空を見上げる。
綿のような雲が流れる青空に、長く尾を引く鳥のさえずりが響き渡る。黄色い蝶がそこかしこで飛び交い、陽光がキラキラと舞う。
こんなうららかな日に落ち込んでいてはもったいない。
居室の窓辺で紅茶でも飲みながら、大好きなレース編みをしたくなってきた。
座り込んで花を愛でていたフロイが、しかつめらしい表情でリティスを見上げる。
「実際、今からでもいかがですか? 一人では気後れするということでしたら、私もご一緒いたします」
真面目な顔で何を言うかと思えば、共に居眠りをしようという誘い。
フロイがあまりに真剣に勧めてくるから、つい噴き出してしまった。
「さすがに王宮の庭園では支障が出ますので、やめておきます。……けれど、ありがとうございます」
「そうですか。では、またの機会があればぜひ私もお誘いください」
フロイはそう言って立ち上がると、会った時のように深々と礼をしてから去っていく。
こちらを振り返ることなく遠ざかっていく背中を、リティスは微笑んだまま見つめた。
彼のさりげない優しさのおかげで、頑なだった心が素直になれた気がする。アイザックの婚約者として今回の外交を成功させなければならないので、落ち込んでいる暇はないということも思い出せた。
「さっぱりとした、気持ちのよい方ね……」
「はい。あのような方
「
スズネはエマと違ってアイザック推進派なのに、なぜか手厳しさはそう変わらない。絶賛喧嘩中のリティスでさえ、ちょっと不憫に思ってしまう。
もう一度フロイが去っていった方を振り返る。
のどかな遊歩道には、もう彼の姿はない。
あの、するりと心に寄り添ってくる感覚。気取らない笑顔と親しみやすさ。一緒にいるだけで元気をもらえて、自然に気を許してしまうような空気感。
——やっぱり、どこか覚えがあるような……?
また既視感に囚われるも、明確な答えにはたどり着かず、リティスは何度も首を傾げる。
『実は今回の訪問、あなたにお会いすることも楽しみの一つでした』
彼は晩餐会の夜、そんな意味深なことも言っていた。
優しげな美貌はもとより、会話をしていれば絶対に忘れられないと思うのだが。
「過去に会ったことがある、とか……?」
とはいえ、レイゼンブルグ侯爵家にいた時は、貴族的な催しにはほとんど参加できなかった。
前クルシュナー男爵と婚姻関係にあった時も、夜会に参加したのは数えるほどだ。
異国の要人に会う機会などほぼなかったと言える。
「——リティス様」
「……!?」
考え込んでいると、思考に割り込むようにスズネの顔が接近していた。数拍ほど至近距離で見つめ合ってから、リティスは大きく肩を揺らす。
こちらの心臓は早鐘を打っているというのに、スズネは平然と会話を続行する。
「あのお方には、あまり気を許さない方がよろしいかと。確かに魅力的ではございますが、必要以上にリティス様と接点を持とうとしている気がしてなりません」
「そ、そうかしら……」
「婚約者がいる女性に『会うのが楽しみだった』などとのたまう輩は、大体遊び人です」
「それは偏見……あら?」
リティスは、夜会を中座した時にフロイと交わした会話について、誰にも話していない。
なぜスズネが把握しているのかといえば——答えは明白だった。
「スズネ……あの時近くに潜んでいたのね」
諜報部隊に所属している彼女ならば、盗み聞きなど容易いことだろう。
半眼になって問い詰めると、スズネは狼狽えるどころか胸を張った。
「はい。アイザック殿下のご命令があったので」
「アイザック様……」
もう本当に、何をやっているのか。
いいや、諜報活動が任務のスズネに、何をやらせているのか。
「私の任務は、リティス様をお守りすることでもありますので」
「そうね、それはその通りだわ。ところで、会話の内容についてはアイザック様に報告したのかしら?」
「ご想像にお任せします」
リティスは頭を抱えた。
きっぱり否定しないのなら、余すところなく報告しているということではないか。やはり職権乱用だ。
王族が公私を混同するとは何ごとか。
拍車がかかった過保護にときめくより、税の無駄遣いへの腹立たしさが勝る。
何より、自分はこっそりエレーネと会っておきながら、こちらの行動には干渉してくるなんて。
顔を上げたリティスは、微笑みを浮かべていた。だがそれは、どこか迫力の漂う笑みだった。
リティスはあくまで笑顔のまま、スズネの肩を労わるように叩く。
「『束縛の激しい殿方は嫌われる』——巷にはそんな格言があるらしいと、アイザック様にご報告してちょうだい」
「…………承りました」
スズネは賢明にも頷いた。
アイザックが激しく動揺することは分かりきっているけれど、もはや彼女に拒否権はないのだった。