「腑抜けだな」
魂が抜け落ちたかのように動けなくなっているアイザックに対し、兄のルードルフは実に素っ気ない。
「ついに仕事も手に付かなくなってしまったようだが、それでは困る。私の認可が必要な書類が、また山のように来ているのだ」
「………………それこそ、ご自分でどうにかしてください」
ゆっくり落ち込むこともできないのかと、アイザックはやさぐれる。
大体、王太子の認可を求められている書類を、なぜ自分が決裁前に確認しなければならないのか。アイザックが選り分けたものに署名をするだけの仕事なんておかしいだろう。執務の比重が偏りすぎている。
ルードルフには対外的な執務も多いため、決して楽をしているわけではないことは重々承知しているが。
アイザックは仕方なく手を動かしはじめたものの、やはりため息が止まらない。
リティスを傷付けてしまったことが、頭の大半を占めている。
「それで、今度は何を落ち込んでいるのだ?」
兄の問いかけに、アイザックはのろのろと顔を上げた。
この兄は本当に、仕事をさせたいのか邪魔をしたいのか。
——まぁ、話しながらでも仕事はできるが……。
アイザックは再び書類に目を落とし、口を開いた。
「リティスと……口論、のようになってしまい……それ以来ずっと気まずくて……」
口論、と表現するには一方的かもしれない。
晩餐会の夜。フェリオラ王国の第三王女エレーネが、アイザックの婚約者候補に挙がっていた過去が、リティスにばれてしまった。
いや。おそらくもっと以前から、彼女は知っていたのだろう。それをあの夜に突き付けられたかたちだ。
もしかしたら、ずっと気にしていたのだろうか。溜まっていた不満が一気に噴出したかのように、声を荒らげていた。
「リティスが結婚したあと、落ち込む俺を見かねて母が進めた縁談です。前クルシュナー男爵が亡くなってすぐに取りやめたので、リティスがそこまで気にするなんて思わず……普段穏やかな彼女に非難されたのは初めてだったのでなかなか新鮮に感じましたが——それ以上に、悲しませてしまった罪悪感が大きく……」
「それが当然の反応だろう。むしろ、怒っている女性に対して興奮するなど言語道断。相手に失礼だし、何より気色が悪い」
「興奮したとまでは言っていません。ただ、また新たな魅力を再発見できたといいますか……」
「罵られたことを前向きに捉えている時点で終わっているな」
「気にしていたということは、嫉妬したということでしょう? 嬉しいに決まっているじゃないですか」
「うむ、終わっている。それ絶対に本人には言わない方が身のためだぞ」
「分かっています、俺だってそのくらい」
怒り慣れていないせいで息が上がってしまっていたのも本当に愛らしかったが、リティスに引かれたくないので黙っている。そのくらいの状況判断はできる。
「しかし、一体どこで知ったのか。母上も内々に進めていた縁談なので、知っている者など限られているはず……」
「あぁ、それは私の妻だな。お前の婚約者殿に伝えたことは、その日の夜の内にクローディアから報告があった」
アイザックの疑問に、ルードルフがしれっと答える。
思いがけないところで真相が明らかになり、兄の方へ勢いよく顔を向けた。
「義姉上、何という余計なことを……!」
「そうでもないだろう。私が十分気にかけてやれと忠告したのは、隠しごとをしろという意味ではないぞ。いつまでも黙っておけることではないのだから」
「分かっております。俺だって、いつかは話すつもりでした。ただ時機を見計らっていただけで……」
「いつまで経っても打ち明けられない未来が目に浮かぶが?」
ルードルフの意見はあまりに正論で、アイザックは歯噛みした。
確かに、現状のままではなかなか言い出せなかっただろう。リティスを傷付ける可能性があるものはことごとく排除するというのが、アイザックの信条だ。
「……エレーネ王女の動きが不可解な以上、リティスを不安にさせるようなことは控えるべきだったはずです」
そこは、アイザックにも考えがあったのだと反論したい。
アイザックとエレーネの縁談は、完全な政略結婚だった。
面会も数えるほどしか行っておらず、交流も頻繁ではなかった。手紙のやり取りだって最低限で、内容も仮の婚約を交わしたからには体裁を整えなければならない、という義務感満載の定型文のみだった。
それなのに、交流会でルードベルク王国にやって来たエレーネの、リティスへの態度といったら。
やんわりとした嫌みは日常的に垂れ流され、明らかに敵意があるではないか。
アイザックを好いていたわけでもないのに、なぜリティスに悪意をぶつけるのだろう。彼女の言動は不可解そのものだった。
先日、エレーネを秘密裏に呼び出し、直接問い質した。
室内で二人きりにならないよう配慮した結果、回廊をそぞろ歩きながらの尋問となったが、これ以上リティスの誤解を招かないためには必要な措置だった。
とはいえ、エレーネがのらりくらりと詰問を交わし続けたので、ほとんど得られるものはなかったけれど。
「リティスに手出しをしないよう牽制はしておきましたが、エレーネ王女の目的が分からない限り、まだ油断は禁物でしょう。危害を加える恐れだって皆無ではありません」
深刻に語るアイザックに、ルードルフは胡乱な目付きになった。
「……考えすぎではないか? 単純に、ちょっとした八つ当たりとか。むしろそれが一番あり得そうな線だと思うが」
「ただの八つ当たりではないとしたら? 裏に遠大な陰謀があったとしたら? リティスが巻き込まれるかもしれないなら、見逃すわけにはいきません」
「遠大な陰謀があるとしたら、些細な嫌みをぶつけるくらいでは済まないと思うが」
「俺は、あらゆる可能性を考慮しているんです。楽天的に構えていてはリティスを守りきれませんから」
「…………お前のその、婚約者殿が絡んだ途端にポンコツになるところ、本当に治した方がいいぞ……」
兄の心からの忠告など、今のアイザックの耳には入らない。
数年ぶりに会ったエレーネは、美しく成長していた。
一つ歳下の彼女に会ったのは、三年前に行われたフェリオラ王国主催での交流会の時以来なので、ずいぶん大人びたというのがアイザックの感想だった。
だが、それだけだ。
サテンの生地を幾重にも重ねたドレスは妖精のように可憐だったけれど、特に異性として意識することはなく、よく似合っているとしか思わなかった。もっと言えば、リティスの方が圧倒的に似合いそうなドレスだな、とか考えていた。
——それが、油断を誘う罠だったのか……? 実は無害そうな笑顔の裏に、権謀術数を巧みに隠していたのでは……。
「……何か、阿呆らしいことを考えている気配がするな」
「思考を読まないでください。そして阿呆らしいことでは決してありません」
危機回避のためにはどのような芽も潰していかねばならないというのに、ルードルフは何も分かっていない。
「危機回避より、まず婚約者殿との仲違いを解消すべきでは?」
「だから、思考を読まないでくださいと」
「私的な場に限るが、お前はわりと顔に出る方だからな」
アイザックは反射的に口元を覆い隠した。
色々図星だ。
エレーネに疑惑を向けることで、リティスと気まずい状況から目を逸らそうとしていたかもしれない。
「仕事がこれほど溜まっていなければ、俺だって、すぐにでも謝りに行くつもりで……」
「腑抜けているからそれも難しいと。一生かかっても無理そうだな」
「うぅ……」
謝ろうにも、色々と準備ができていないことを見抜かれている。
辣腕だなんだと騒がれているが、結局アイザックはこの兄に敵わないのだ。
「実は……スズネを使ってリティスの行動を監視していたことがばれてしまい……『束縛の激しい男は嫌われる』と……」
スズネから受け取ったこの伝言のせいで変に身構えてしまい、リティスに会いに行くことを躊躇しているのもある。
しょうもない本音を明かすと、ルードルフは肩を揺らして笑い出した。
「なかなかやるな、彼女も……」
「笑いごとではありません、兄上」
「そう言われてもな……まぁ、束縛が激しいのは変えようがないから、諦めてもらうしかないな。お前も、謝ることが増えただけと思えばいいだろう」
簡単に言ってくれる。
アイザックは執務机に突っ伏した。
「もう少し……もう少しだけ時間を置いたら、リティスと二人で話す時間を作ります……」
そんな弟を見下ろし、ルードルフは肩をすくめる。
「構わないが、くれぐれも交流会中に波風は立てるなよ。それと、勝手に先走るのではなく、婚約者殿を思い遣ること」
「肝に銘じます……」
忠告の後半部分には、何やら助言の域を越えた重みがあった。
もしかしたら兄も、自身の思いに振り回されたことがあるのだろうか。
そこでアイザックは初めて、兄夫婦のありように興味を抱いた。彼らも甘えたり、弱音を吐いたり、いちゃいちゃしたりするのだろうか。
——そうか。兄達を参考にすればいいのではないか?
アイザックの中で、ふと妙案がひらめく。
先人に学ぶことで、今回のように衝突することなく、円満な夫婦関係を築けるかもしれない。
だがその思いつきはすぐに放棄する。
相手があのクローディアでは、とてもではないが参考にならない。
「——何か失礼なことを考えていらっしゃいませんか、アイザック殿下?」
「ひっ……!」
突然頭を鷲掴まれ、アイザックは悲鳴を漏らした。
頭を容赦なく押さえつけてくる相手を見上げる。そこには、美しい笑みを浮かべたクローディアが立っていた。
「ルードルフ様に確認したいことがあって足を運んだけれど……執務を怠り頭の中で義姉を貶めるとは、実に優雅ですこと」
「だから……夫婦揃って思考を読むなと……!」
リティスはまだこの本性を知らないから、クローディアを盲目に慕うことができるのだ。
これが貴婦人の鑑なんて、嘘だろう。
「殿下——私はがっかりいたしました。あれこれご助言差し上げましたのに、好きな女性を幸せにすることもできない体たらく」
「うっ……って、あれは助言の体で俺をからかっていただけでは……」
「そのくせご自分も思い悩んでいるだなんて、怠慢にもほどがあるのでは? 言葉にしなければ何も伝わりません」
「うぅっ……って、あなた方には結構伝わっている気がするが……」
「リティスさんを悲しませているのは事実なのに、いちいち反論を挟まないでくださいませ。そういうところですよ、殿下」
「ぐっ」
痛いところを突かれ、アイザックは黙り込んだ。
悔しいが、確かにそうかもしれない。
自分の判断は間違っていない、自分に非はないと、何でも正当化するのはよくないことだ。
己の所業を顧みるアイザックに、クローディアは輝かんばかりの笑みを向けた。
「アイザック殿下に足りないのは、相手を思い遣る気持ちです。一方的で独りよがりなのです。ということで——やはり再教育が必要でしょう」
この時、アイザックは確かに教鞭の幻聴を聞いた。
その日の執務室には、何者かの悲鳴がこだましたという。