リティスの方から会いに行く、と決めた。
謝罪が必要な点はお互いに話し合って、折り合いをつけて。
真摯に向き合えば、きっと以前のような関係に戻れるはず。
覚悟を固めたリティスは、橋梁工事の視察に行った日の夜、アイザックの元を訪れていた。
同じ宮に住んでいるとはいえ、婚約期間中に寝所を行き来するのは不道徳なこと。互いに節度を守り、緊急時以外はほとんど接触をしていない。……会いたくなった時は、緊急の範疇に入る。
まして、リティスの方から訪ねるのは、閨係だった時以来だ。否が応でも緊張が増していく。
リティスは扉の前で、呼吸を整える。
スズネとは、部屋に到着した時点で別れていた。緊張を宥めている間に、あれからずいぶん時間が経っている。手を持ち上げては引っ込めたりを、何度も繰り返して。
——い、いくわよ……。
リティスはついに持ち上げた手で、扉を叩く。
勇気を出したつもりが、何とも遠慮がちになってしまった。叩いた音は弱々しく、アイザックは気付いていないかもしれない。
もう一度試してみようとしたところで、やや慌ただしく扉が開いた。
アイザックが、飛び出すような勢いで顔を見せる。彼はリティスの姿を確認すると、険しかった表情を緩めた。
久しぶりに見る、公務の時とは別の顔。
冷たい美貌をしているのに、アイザックは意外と表情豊かだ。笑ったり拗ねたりすれば、少年らしさが覗く。
リティスも、知らず詰めていた息を細く吐き出した。
——よかった……。
気まずくなって以来、初めて二人きりで話す機会。彼もリティスと同じく緊張しているのだと分かって、全身の強ばりが解けていく。
けれど、再びアイザックの眉間にぐっとシワが寄った。
それだけで、氷を呑み込んだように背筋が冷え込む。
リティスは目を見開いたまま硬直した。
気まずさはあっても歓迎されると、ひどく楽観的に思っていた。
自分と同じように、気まずかろうと久しぶりに会えることを喜んでくれると思っていた。
リティスは思い違いをしていたのかもしれない。
どれほどの喧嘩をしても、根底にある互いを思う気持ちは揺るがない。だから、話し合えばきっと元通りになると。
そうではない可能性を、考えもしなかった。
従順じゃないリティスなど、いらない。素直に頷く以外、価値などなかったのに。アイザックがそう……思っていたら?
リティスはあくまで婚約者。
まだ結婚したわけではない。
体裁を守る必要はあるだろうが……婚約を破棄すること自体は、さほど難しくない。
胸に、どっと不安が押し寄せる。
揺るぎないと信じていた大樹が、あっさり折れる頼りない棒きれだったよう。
リティスを支えていたものが根底から覆され、目眩がした。
好きだと言ってくれた。
抱き締めてくれたし、街歩きの際は贈りものだってくれた。
だがそれは、リティスとアイザックの関係を絶対にするものではないのだ。
むしろ結婚したって、愛情が永遠に続くとは限らない。
そんな当たり前のことに思い至らないくらい、浮かれていた。
自分達だけは大丈夫だと。
——ううん、大丈夫。大丈夫……。
指先が冷えていくのを感じながら、リティスは必死に自分へと言い聞かせる。
……本当に?
こんなふうに言い聞かせないと、今にも崩れ落ちそうなのに?
……殴られても蹴られても、従順にしていればよかった。
嫌だ。アイザックに捨てられるなんて、嫌だ——……。
「——リティス、酷いくまだぞ」
俯く頬に、アイザックの手が触れた。
何を言われたのか理解できない頭で、リティスは呆然と顔を上げる。
そこにあったのは、気遣わしげな優しい眼差しだった。
「ろくに眠れていないんじゃないか? 顔色が悪い。それに、すごく疲れているみたいだ」
「アイザック様……」
「俺の部屋で少し休んでいけ。俺はソファでいいから、寝室のベッドを使って……」
「い、いいです。大丈夫、です」
「交流会で忙しいことくらい分かっているんだから、無理はしなくていいんだぞ?」
頬に触れる指先が、じんわりと温もりを伝えてくる。
心配そうな言葉一つ一つが、心の奥底に芽生えた不安を掻き消すように降り積もっていく。
——あぁ、私は、なんてこと……。
一時でも彼を疑ってしまったことが恥ずかしい。
アイザックはいつだって、惜しみなく愛情を与えてくれているのに。
——そうだわ……だからこそ、アイザック様と並び立ちたいと……同じくらいの愛情を、感謝を返せるような人間になろうと……。
リティスが頑張りたいのは、アイザックのためだった。
彼の愛情に相応しい人間になりたいと思ったからこそ、どんなに疲れていても苦じゃなかった。
勉強の楽しさなど二の次だったのに、一番大切な気持ちを忘れるところだった。
リティスは、泣きそうな気持ちをこらえて微笑んだ。
「ありがとうございます……けれど、大丈夫です。アイザック様のお顔を見たら、元気が出ました」
「本当か? リティスはすぐに無理をするから心配で……あ。これは心配だから、束縛の内には入らない、だろう?」
急に狼狽えだしたアイザックに、リティスはきょとんと目を瞬かせる。そして理解に至ると、思いきり噴き出した。
だいぶ前にスズネに託した伝言が、しっかりと効いているようだ。
「判断が難しいところですね。『交流会の歓待役を辞退しろ』と言い出したら、それは束縛に入るかもしれません」
「やめろとは言わない。だが、いっそ適度に手を抜いて対処すればいいのにとは思っている」
「なっ、なんてことを提案するんですか!?」
アイザックのために全力を尽くそうと、気持ちを新たにしていたのに台無しだ。
「交流会は、立派な王子妃となるための試験なんですよ」
「母上の思惑なんてどうでもいい。俺は立派な王子妃じゃなくても、リティスしか選ばないと決めている」
「アイザック様が決めていても、周りはそういうわけにはいかないんです」
彼があまりに過激なことを言うから、リティスもついいつも通りに応じてしまう。
久しぶりに、気負わずアイザックと話せている。
唇に笑みが浮かぶのを抑えきれない。本当に日中の疲れがとれているのだから、不思議なものだ。
「俺は元々、リティスが苦労しなければならないことに納得していない。第二王子の結婚くらいで大騒ぎする方がおかしいんだ」
「大半の者が大騒ぎすることですよ、それ」
「煩わしいことに振り回されるくらいなら、いっそ身分を返上したいくらいだ」
「王族が身分を返上したところで、公爵の位を与えられるだけでしょうね。つまり、何の義務もなくなりません」
アイザックが自身の義務を放り出すなんて、リティスははじめから思っていない。
王族として何不自由なく育ったからには、その分重責を負わねばならないと、彼は理解している。
アイザックが手にしてきたもののほとんどが、国民の税で成り立っているのだ。もらうものだけもらって今さら逃げようとしても
許されない。
端から文句を封じられたアイザックが、急に目を据わらせた。
「……やはり俺が裏から手を回して議会の狸爺共を一人ずつ潰していくしか……」
「なぜ不穏な手段しか出てこないんですか!? 先ほどからさすがに過保護すぎますよ!」
アイザックの愛情は、本当に疑いようがないほど重くて激しい。
今それをひしひしと実感した。
だからこそ、もどかしくもある。
アイザックに大切されている。それ自体は嬉しい。
けれど過保護に守られていると、まるで『リティスにできることなど一つもない』と否定されているようで……。
リティスには、それが歯痒かった。
もっと信用してほしい。
彼の妻となるからには、対等でいたいのだ。
そうでなければ過保護なアイザックのことだから、リティスが王子妃になったとしても、煩雑な公務などを自身で一手に引き受けてしまいそうだ。ただ宮の中で、真綿に包むように守ろうとしかねない。
——信用すると言うだけなら、簡単。
おそらくリティスが乞えば、アイザックは頷いてくれるだろう。
けれど、彼のこれまでの行動が全て無意識下で行われていたのなら……直すのは簡単なことではない。実際のところ、アイザックには自覚すらないのだから。
——私が、もっと変わらなければいけないんだわ……。
今だってそうだった。
自分の勘違いで勝手に不安になって、落ち込みかけた。
そんな弱い人間を、誰が信頼できるだろう。
感服せざるを得ないほどの実力を見せつけ、信用をもぎ取るしかないのだ。
「……決めました」
「? どうした、リティス?」
呟くリティスをアイザックが覗き込んだ。
彼の青い瞳を真っ向から受けて立ち、高らかに宣言する。
「王妃殿下だけでなく、あなたに認めてもらうこと——それを、これからの私の目標とします!」
アイザックは一拍置いてから、心底怪訝そうに首をひねった。
「意味が分からない。俺はとっくにお前を認めている。何なら、リティスへの愛情に服従を誓っていると言ってもいいくらいなんだが。舐めろと命令されればお前の靴を舐めることくらい平気で——……」
「その先は王子という立場上、言っちゃ駄目なやつです!」
リティスはアイザックの失言を、危ういところで阻止した。……阻止しきれていないような気もするが、何とかぎりぎり尊厳は守られたはずだ。
「そういうことで、私はこれからさらなる努力をして交流会を成功させるつもりですので、覚悟しておいてくださいね!」
鼻息荒くまくし立て、リティスはくるりと踵を返す。
アイザックは圧倒されたのか言葉もない様子だ。
そうしてしばらく回廊を歩き続け、アイザックの居室からすっかり離れた頃。
リティスはへなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「仲直りをしに行ったのに、何でこんなことに……」
ほとんど宣戦布告じみた発言だった。恥ずかしすぎる。
一体何をしに来たのかと、不審がられているに違いない。
リティスはしばらく、その場を立ち上がることができなかった。
一方アイザックはというと。
「謝ったらいちゃいちゃできるかもと、期待していたんだが……」
隙あらばいちゃつこうという下心もとい願望が粉々に砕かれ、リティスと同じく打ちひしがれていた。