リティスはやる気に満ちていた。
アイザックからの信頼を得て、本当の意味での対等になること。そのため今まで以上に貪欲になって、実績を求めること。
当面の目標が明確になったからか、気持ちも新たに交流会へと向かっていける。
……けれどそういう時に限って、事件とは起こってしまうものなのだろう。
今日も今日とて、リティスは歓待役としての職務を全うする。
本日の予定は、王都最南端にある救貧院の慰問。元々リティスに任されていた公務だ。
王都の救貧院は馴染みのある場所なので、あまり緊張していない。
緊張していないが、不安ではある。
救貧院の子ども達は、空気を読んでリティスの外面を守ってくれるだろうか……と。
「あ、リティスじゃん!!」
「はぁっ!? 今日視察に来るっていうお貴族様って、リティスだったの!?」
「何だ、準備してて損したー!」
「リティス、久しぶり! で、レース編みは?」
「え、何も持ってきてない? そんなわけないよね?」
「レース編みがないなら用はない。おいみんな、練習に戻ろうぜ」
……守ってくれるはずがなかった。
救貧院の運営責任者である教師も真っ青な顔で子ども達を押さえようとしているが、彼らを何もなしに黙らせるなんて不可能だと分かっている。
せめて到着した際、有無を言わせないため彼らの口に菓子を放り込む機会さえあれば、多少は色々取り繕えただろうに。
「久しぶりですね、リティス…………もはや、なんと謝ればいいのか……」
王都の救貧院の運営責任者は、隣接している教会の神父でもある優しい男性だ。
挨拶と共に謝罪を口にする教師は、ひどく憔悴していた。
「子ども達に、私の訪問を事前に伝えていたこと、私は微塵も疑っておりませんよ……」
「分かってくださいますか……なにぶん、どれほど真剣に説こうと、半数は話を聞いておりませんから……」
「たいへんお疲れ様でした……週末にバザーが開催されると知りながらお邪魔してしまい、申し訳ございません……」
今週末は、三ヶ月に一度のバザーが開催される。それに向け今は忙しく、準備がいよいよ大詰めとなっているところ。
子ども達がやたらと忙しないのも、教師の話を聞かないのも、この大切な催しを成功させるためというのが大きかった。
救貧院の生活は常に苦しいのが現状だ。
子ども達の着るものや食べもの、テーブルやベッドなどの備品、建物の修繕費まで、出費は多岐にわたる。国から支給されている運営費では、とてもではないが賄いきれない。
けれど、そうして財政がひっ迫している中でも、玩具や甘いお菓子を買って、たまの贅沢をしてみたいというのが本音。
純粋無垢な子ども達のそういった願いを叶える機会が、バザーだ。
しかも慈善活動は貴族の嗜みとされているため、バザーで扱う商品のほとんどが彼らの寄付で成り立っている。
リティスも、クルシュナー男爵家でお世話になっていた当時、バザーに出品するための寄付品を作っていた。
得意のレース編みで生み出した作品の数々は中流階級を中心に好評で、なかなかいい値段で売れていた。
バザーの売上は、全額救貧院の運営費に回される。
つまり、元手ほぼなしで利益を得られるという、ものすごい掻き入れ時なのだ。
前置きが長くなったが、子ども達が毎回決死の覚悟でバザーに挑んでいることは、十分伝わっただろう。
目先の利で頭がいっぱいだからこそ、貴人の存在に気付かず、リティスからレース編みを巻き上げるような言動をする。ちなみに目付きも追い込みをかける者のそれで、やたらとギラギラしている。
教師は非常に肩身が狭そうにしながら、深々と頭を下げた。
「こちらこそ、たいへん申し訳ございません……丹精込めて作ったレース編みを寄付してくださるリティス様を、まるで金づるのように扱って……」
「いえいえ、忙しい時期に来たこちらに非が……」
教師と謝罪合戦を繰り広げていたら、背中に視線を感じた。
そうだった。今日はクルシュナー家にいた頃のように遊びに来たのではなく、正式な慰問に訪れたのだった。
しかも今回は橋梁工事の時の面々に加え、ウルジエ共和国の酋長オルジオまで勢揃いの状態。いきなり失態をさらしている場合ではなかった。
リティスは頬が引きつりそうになるのをこらえながら、来賓の団体を振り返った。
「こ、これはですね……」
「よし、復唱はじめ! 『おじさん、そんなにたくさん買ってくれるの……?』」
「『おじさん、そんなにたくさん買ってくれるの……?』」
「はい、次! 『おばさん、優しいんだね……お母さんって、こんな感じなのかなぁ……』」
「『おばさん、優しいんだね……お母さんって、こんな感じなのかなぁ……』」
「よし、いいぞ! 『お兄ちゃん、あったかい……』」
「『お兄ちゃん、あったかい……』」
「もっと目を潤ませて、上目遣いで! 『お姉ちゃん、って読んでもいい……?』」
「『お姉ちゃん、って読んでもいい……?』」
「うまいぞ、お前ら! 当日はちゃんと薄着でな! 寒そうに震えながらくっつき合ってりゃ、より同情を引けるぞ!」
「はい!!」
……とんでもない現場を見られてしまった。
とにかく憐れみを誘って財布の紐を緩ませるという、子ども達が編み出した技。
確かにリティスも、何度か練習風景を目撃したことはあった。けれどよりにもよって、この練習の最中だったとは。しかも春なのに寒そうにするって何だ。
これは完全にリティスの不手際。
そして来賓の中には、今か今かとそれを待ち構える者がいる。
そう、フェリオラ王国のエレーネ王女だ。
もうどうあっても言い繕うことはできない。
リティスに一歩先んじて、教師が膝から崩れ落ちた。
「あああああああああんなに何度も今日だけは我慢しろと言ったのにいいいいいい」
「せ、先生、お気を確かに」
リティスは教師を宥めながらも、できれば自分も正気を失いたいと思った。
各国代表達の反応を確かめるのが怖い。きっと全員から白い目で見られていることだろう。
リティスは観念し、今度こそ頬を引きつらせながら振り返る。
すると、弾けるような笑い声が起こった。
空を仰いで豪快に笑っているのは、デュセラだった。
「いやぁ、最高だね! 元気があって結構じゃないか!」
「え……え……?」
リティスは目を瞬かせたが、オルジオまでもが頷いている。
「悲しいことだが、どこの国にも孤児は一定数いる。その彼らがこれほどたくましく、明るく笑っていられるのだ。何ら恥ずかしいことではない」
批判されるとばかり思っていたリティスは、目を見開いたまま子ども達を眺める。
彼らは相変わらず騎士団方式で、バザーへの心構えを徹底的に叩き込んでいる。……すぐ側に周辺国の首脳陣が揃っているのに、気付かないほどには熱くなっている。普段の彼らなら全力で媚びていただろうに。
——そう……いい子達なのよ……。
リティスがクルシュナー夫人と呼ばれていた頃、救貧院によく足を運んでいたのは、子ども達の強かさに元気をもらっていたからだ。
レース編みを生産しては、笑顔で巻き上げられる。そのやり取りが実に小気味よく、不思議と憎めないのだ。
明るくて、たくましくて、仲間思い。年上の子達は、率先して小さい子の世話をしている。騎士団方式のやり方に馴染めない者には、別途役割を与えているし。
当たり前のように助け合う彼らにとっては、この救貧院全体が一つの家族なのだろう。
それにここは、雑然としてはいるものの常に清潔だ。
国からの支援が充実しているから、食料をめぐって殺伐とすることもないし、文字を学ぶための教科書だって豊富に揃っている。
救貧院側も、手厚い支援に甘えるばかりではない。
王都最南端という立地を逆手に取って、建物の裏側には広大な畑が広がっている。子ども達が管理しているもので、完全自給自足を目標にしているという。
そうすれば甘いものや娯楽に予算を回せるという下心満載の理由だが、ここまでくるといっそ清々しい。
いつだって希望が満ちている。
だからリティスは、この救貧院が好きだった。
何とか教師に立ち直ってもらい、視察を再開させる。
歩き出す際、リティスはちらりとエレーネの反応を窺う。
いくらでもこちらを攻撃する手段にできただろうに、他国の首相が肯定したものを表立って批判することはできないようで、彼女は最後尾でつまらなそうに口を噤んでいる。
リティスはホッと胸を撫で下ろし、けれどすぐにそれではいけないと思い直した。
——交流会の期間を、その場しのぎで切り抜けているだけでは駄目だわ……。
いつまでも怯えてばかりではいられない。
これまでのリティスは、何とかエレーネと衝突せずに交流会を終えたいという考えだった。
だが今は、確固とした覚悟で歓待役に挑んでいる。
親密とまではいかないまでも、エレーネとだって分かり合う必要があるのだろう。それこそが、交流会の意義でもあるのだから。
建物の中に入る直前、背後にいる者が、素早くリティスに耳打ちした。
「——あとで、内密に話がしたい」
落ち着いた印象の声音と、飾り気のない口調。
肩越しに振り返ると、シマラがこちらをじっと見つめている。
デュセラの娘で、レーデバルト連邦の次期首相に最も近いと目されている女性。
彼女に話しかけられたのは、交流会がはじまってから初めてのことではないだろうか。しかも他の者達に気付かれぬよう、周囲に視線を走らせ警戒している。
——誰にも知られたくない話ってことかしら……。
何だか不穏なものを感じながらも、リティスは小さく頷き返した。