広々とした空間に、夜風が流れ込む。
大きな掃き出し窓などが全て開け放たれ、広間は開放的な雰囲気に満ちている。
夜会の会場は、以前に収穫祭でも使用された広間だ。
以前と異なるところは、春ならではの色とりどりの花で飾られている点だろうか。風に乗って、花の芳香が会場中に広がっている。
今夜は、国内貴族の多くが参席している。
当初、リティスに対する厳しい目が、まだ残っているのでは——と心配していたけれど、とてつもなく杞憂だった。
むしろ遠巻きにされ、目も合わせてもらえない。関わろうものなら死あるのみ、と言わんばかりだ。
——これはこれで注目されているし、居たたまれないわ……。
今夜のリティスは、ライラックの花に似た薄紫色のドレスをまとっていた。
けれど身につけている宝飾品は、全て青い宝石がででんと主張するもの。やはりこれが威圧感を与えているのではないだろうか。
リティスが動くと貴族達も避けて、周囲には常に円形の空間ができていた。こんなにたくさんの人がいるのに、なぜか孤独を噛み締めている。
「レディ・ディミトリ。ここにいらしたのですね」
困っているところで近付いてきたのは、クルシュナー男爵夫妻だった。
救われた心地で、リティスは二人に挨拶をする。
「こんばんは。素敵な夜にお会いできて嬉しいわ、クルシュナー男爵夫妻」
「レディ・ディミトリにご挨拶申し上げます」
エマとトマスに頭を下げられると、非常に居心地が悪い。敬語を使ってはいけない点も違和感だ。
それでも、公の場ではリティスの方が身分が上。
貴族達の視線が集まっている中では、普段通りに接することなどできない。これでもかなり親しげに挨拶をしている方だ。
リティス達は壁際に寄って、改めて言葉を交わす。
「お久しぶりです、エマさん。トマスさんも」
「本当に久しぶりね。交流会で忙しいことは分かっていたから、会いに行くのを控えていたのよ」
「久しぶりだね、リティス。子ども達も君に会いたがっていたよ。特にルシエラ」
いつもの気安いやり取りをしたことで、胸がいっぱいになる。
本当に会いたかった。積もる話もたくさんあるのだ。
「エマさん……!」
ついに感情に突き動かされるまま、エマに抱き着いてしまった。
「こら、リティス?」
「だって……お二人を見ていたら安心してしまって……」
ようやく緊張する外交から解放され、日常に戻るのだ。
リティスだってクルシュナー家の子ども達が恋しい。まだ夜会に出席できる年齢ではないから、会えないことは分かっていたけれど……やっぱり会いたい。
リティスにとって彼らは家族なのだと実感する。
「もう、誰に咎められたっていいです」
「今のあなたを咎められる人、誰もいないと思うわよ」
エマの呆れ声に、リティスは察した。
当事者のリティスが昨晩知ったばかりなのに、彼らはもうアイザックの所業を把握しているのだ。
エマの肩越しにトマスを見上げると、彼はあご髭を撫でながら面白そうに笑っている。
「聞いたよ、アイザック殿下のご乱心事件。いやぁ、見事に恐れられているね」
「ご乱心事件……」
なんと不名誉な噂か。
今日の夜会、欠席したい。
聞くところによると、アイザックは婚約者の生家であっても容赦なく切り捨てる、冷酷無慈悲な第二王子だと噂されていたらしい。その時点で貴族達にとっては恐怖の対象だったと。
最近の仕事ぶりは辣腕としか表現のしようがなく、アイザックには無闇に近付かない方が利口とまで言われていたが……ここに来て認識が一変する事件が起こった。
それが、リティスを過剰に批判していた貴族達の、謎の豹変。まるで洗脳でもされてしまったかのように、これまでの主張を取り下げリティスを支持しはじめた。
この出来事の裏にアイザックがいると知った者達は、ここに至るまでの様々な出来事から、ある共通点に気付く。
たとえば、完膚なきまでに潰された、元レイゼンブルグ侯爵。
収穫祭の夜会をきっかけに、彼は娘を虐げていたのでは……という疑惑が浮上していた。
他にも、アイザックに別の婚約者をあてがおうとした貴族達。
彼らはその後、脱税や違法労働、公文書偽造といった何かしらの罪に問われ、それぞれ地位を追いやられたり勢力を失ったりしている。
これらは一見、全く繋がりのない事象にも思えるが……一致している点が一つだけある。
アイザックとリティスの恋に、邪魔だったということ。
脱税や違法労働はあくまで個別の事件だが、捕縛の裏にアイザックの暗躍があったのなら、印象はずいぶん変わってくるではないか。
ここで、貴族達の見解が一致した。
アイザックだけでなく、リティスにも触れてはならぬ——と。
「まぁ、うっすら事実だから、否定しづらいところだよ」
「いやぁぁぁぁぁ……」
トマスが説明を締め括ると、リティスは消え入りそうな悲鳴を上げた。
本当は絶叫がほとばしりそうなところ、最低限で全力の配慮だ。
知らなかった。アイザックがもっと以前から、もっと駄目なことを仕出かしていたなんて。
ただですら注目を浴びているのに、これでアイザックが揃ったらどうなることだろう。
やはり逃げよう。それしかない。
そう結論づけていたリティスの肩を、エマが励ますように叩いた。
「殿下のあれは、今にはじまったことじゃないわ。気にしたら負けよ」
「無理です……アイザック殿下が、職権乱用でいつか身を滅ぼしかねないと思うと……」
「ない罪を強引に作っているわけではないのだし、ぎりぎり合法よ」
「ぎりぎりじゃないですか……」
エマがアイザックとの結婚に反対するのは、こういうところなのかもしれない。
アイザックの人間性がまずい。リティスが関わった時だけ、異常にまずい。
側にいると、彼のためにならないかもしれない……と半ば思い詰めるリティスに、エマはからりと笑った。
「まぁ、事件がなくても今回ばかりは咎められないだろうけどね。主賓の関係者に抱き着いたって、より緊密な仲に発展することを、むしろ歓迎されるでしょうし」
「……え?」
リティスが抱き着いた相手というのは、もちろんエマのことだろう。
だが、主賓の関係者?
今宵の主賓はというと、当然同盟国の面々だ。
一体どういう意味なのか、頭を目まぐるしく回転させていると、最近聞き馴染んだ声が耳を打った。
「——姉上。ご無沙汰しております」
振り向くと、正装をしたフロイが立っている。その隣には同じく正装したオルジオもいる。
そしてフロイの視線の先にいるのは——エマだ。
「……え?」
リティスの反応に気付いて、エマはフロイを咎めた。
「ちょっとフロイ。もしかして、リティスに何も話していないの? 私もルシエラに邪魔されて伝えられずじまいだったけど、とっくにあなたが話しているだろうと思っていたのに……」
「いつ気付くだろうかと待っていたんですよ」
「そりゃ私とあなたは似てるけど、言わなきゃ分からないことだってあるでしょうが」
軽快に言い合う二人からは、遠慮のなさが窺える。
というか、言われてみればエマとフロイは顔立ちに似通った部分がある。
きつくうねった黒髪と、健康的な色の肌。瞳の色は違うけれど、笑った時の目のかたちがそっくりだ。
姉上。ということは、姉弟。
つまりエマは、ウルジエ共和国酋長のオルジオの娘、ということでもあるのか。
彼女が東隣のウルジエ共和国出身であることは知っていたが、まさか酋長の娘だったとは。
エマは呆然とするリティスを振り返った。
「ごめんなさいね。こういう悪ふざけをする、迷惑な身内なのよ」
それに反応するよりも早く、フロイが不服げに反論する。
「迷惑なのは姉上の方でしょう。『運命の人を見つけた』とか言い残して、あっさり国を出て行ってしまうんですから。おかげで私が後継者教育を受ける羽目になりました」
「いいじゃない。我が国は共和制、絶対に酋長に選ばれるわけじゃないんだから。知識はいくらあっても困らないものよ」
「そうやってご自分のなさったことを正当化するの、本当に得意ですよね……」
姉弟だ。
紛うことなく身内の仲睦まじさだ。
呆然としつつも妙に納得していたリティスだったが、フロイまでこちらを窺うから、我に返らざるを得なかった。
「リティス様……怒っておりますか?」
「怒ってなど。ただ、とても驚いて、言葉が出なくて……」
フロイは、ばつが悪そうに唇を尖らせた。
「たいへん申し訳ございませんでした。困らせるつもりはなかったのです。姉とは頻繁に手紙のやり取りをしていたので、リティス様についてもよく聞いていました。そのせいか、初対面にもかかわらず他人の気がしなくて」
恋愛感情は全く感じられないのに、親愛に似た何かはあると思えた理由が、これだったらしい。
「それで、初めから親しげな振る舞いをなさったのですね……」
「ここまで黙っていたことは謝ります。あまりにあなたの守りが堅いから、少し悔しくなってしまいました」
隣で口を挟まずにいたエマが、弟の謝罪に目くじらを立てる。
「リティスの守りが堅い? フロイ、一体何を仕出かしたの?」
フロイはリティスに向け、いたずらっぽく目をつむった。
「それは秘密です。——ね」
同意を求められては、頷くしかない。
あなたの弟が恋愛感情を利用して、移住を勧めてきた……とはとても言えない。
エマの怒りの矛先は、父親にも向かった。
「ちょっと、父さん。何でフロイを野放しにしたのよ」
「うむ……」
「うむじゃないのよ。こういう時くらいしっかりしてちょうだい。寡黙さで威厳を出してる場合じゃないわ」
「ううむ……」
ほぼ空気と化していたオルジオは、ここに来て前へと進み出た。
「レディ。息子の過ちを謝罪する」
「あ、過ちなんて……逆に意味深に聞こえます」
リティスが慌てて訂正を求めると、オルジオは頭を撫でた。厳めしい顔付きのままだから分かりにくいが、困っているのだろうか。
そうしてウルジエ共和国式の、深い礼を披露する。
「申し訳なかった。今後は私とも、ぜひ仲よくしていただきたい」
「ですから、その言い方ですと誤解を招きかねないので——……」
今度は言い終える前に、周囲がどよめいた。
見回すと、貴族達の視線がこちらに集中している。
しかも、誰もが驚愕を露わにしている。
困惑するリティスだったが、また別の方向から響いた凛とした声が、その場に満ちた動揺を一掃する。
「——これは素晴らしいことね」
リティス達の元に近付いてきたのは、ルードルフとクローディア——王太子夫妻だった。