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第73話 大好きな、あなたと

 王太子夫妻の登場に、リティスはすぐに頭を低くした。

 周囲の者達も一斉に辞儀をしているのが分かる。

「顔を上げていい。今宵は別れを惜しむための会だ。我々のことは気にせず楽しんでくれ」

 ルードルフの鷹揚な許可を得て、それぞれが姿勢を戻す。

 リティスが顔を上げると、目が合ったクローディアが微笑む。

「ウルジエ共和国の酋長とよしみを結べたことは、あなたにとってとても強固な後ろ盾となるでしょう。さすがリティスさんね」

 持ち上げられても、曖昧に微笑むことしかできない。

 リティスがすごいのではなく、オルジオの娘であることを隠したままルードベルク王国で居場所を作ったエマがすごいのだから。

 それでも、上位の者に話しかけられたのなら応じるしかない。

 リティスはさも当然のように頷く。

「過分なご評価、恐れ入ります」

「あなたに手を出そうなんて勢力は、これで完璧に息の根を止められたのではないかしら?」

 クローディアに続いて、ルードルフまで楽しげに笑う。

「まぁ、それがなくともアイザックご乱心事件でほぼ壊滅状態だっただろうがな」

「もうその事件の話題はやめません……?」

 小声ではあったものの、リティスはついいつもの調子で返してしまった。ここは公の場、と自戒する。

 ルードルフ達が壇上から降りてきたということは、そろそろダンスの時間がはじまるらしい。

 ちらりと視線を送り、高いところで会場を見渡す国王夫妻を観察する。ユレイナの席の隣にはデュセラもいた。

 リティスが夜会の空気を乱したことで、眉をひそめているかもしれない。……あるいは、指輪紛失の噂が広まった時に、既に見限られている可能性もあるが。

 じっと目を凝らしてみても、国王夫妻の微笑の裏に隠されたものを見つけることはできない。

 当然だ。この距離でリティス程度の付き合いの者に推し量れるはずがないし、彼らがみだりに感情を見せるわけもない。

 すると、すぐ背後まで近付いていたクローディアが耳元で囁いた。

「ケインズ様もユレイナ様も、リティスさんと早く会いたがっているわ。あの方々は、デュセラ首相の行動を黙認していらしたから」

「え……」

 思わず、振り向いてしまいそうになった。

 けれどクローディアがこっそり話しかけた理由を考え、ぐっとこらえる。あまり他人に知られるべきではない、交流会の裏側の情報なのだ。

「……そうだったんですか?」

 潜めた声で訊き返すと、彼女は小さく首肯した。

「私もあとから聞かされたのよ。正反対に見えるけれど、あれでユレイナ様とデュセラ首相は仲がいいの。口出しはしないようにと、内密に依頼されていたそうよ」

 そういえば、指輪紛失の騒ぎが起こってから、国王夫妻との接触が極端に減った。それは、不自然なほどに。

「なるほど……つまり、指輪紛失について陛下にご報告申し上げた際、どのようなお言葉も賜らなかったのも……」

「あぁ、距離をとるような口調はやめてあげて。本人も良心の呵責に耐えられないご様子なのに、リティスがその態度では瀕死の重傷を負われてしまうわ」

「全然そうは見えませんでしたけれど……」

 見えないようにしていたのが本当に演技なら、ケインズが国王として磨き上げた一級品の猫だ。リティスに見破れるはずがない。

「ですが、見限られていないのならよかったです」

 リティスは胸に手を当てた。

 安堵が満ちていくのが分かる。

 少しずつ絆を構築してきたつもりだったので、ケインズの素っ気なさは少なくない衝撃をリティスに与えていた。その恐怖が、ここに来てようやく拭われていく。

「交流会が終わっても、もう今まで通りの関係には戻れないと思っていました。本当に安心しました」

「……あと少し真相を明らかにするのが遅かったら、リティスさんの信頼は回復しなかったかもしれないわね……」

 そんなことはないと笑顔で返していると、遠くでざわめきが起こった。

 ざわめきは一直線に近付いてきており、リティスはその正体が何なのかすぐに悟る。

「——義姉上、リティスを独占するのはやめていただけますか?」

 自然と割れた人垣から姿を現したのは、やはりアイザックだった。

 今夜の彼は、ジャケットとスラックスを漆黒でまとめている。ボリュームのあるクラバットに留められたピンだけが、深緑のようなエメラルドだ。……もう何というか、リティスとの親密さをこれでもかと主張している。

 彼は尊大な態度でクローディアを追い払った。

「ほら、ダンスがはじまりますよ。まずはあなた方が踊りださねばならないのですから、さっさとリティスの隣を譲ってください」

 クローディアはにこやかな笑みを僅かに引きつらせたが、この場での反論は見事耐えきってみせた。

「……アイザック殿下。あとでゆっくりお話いたしましょうね」

 恐ろしい宣告を残し、クローディアはルードルフと共にフロアの中央へと躍り出ていく。

 王太子夫妻は見つめ合い、時折囁きを交わしながら、優雅にステップを踏んでいく。

 遠めから見ている限り、非常に絵になる二人だ。実際は政治の話ばかりしているから、リティスも当初はひどく驚いたものだ。

「——リティス、手を」

 王太子夫妻に続くのは、慣例でいくとアイザックだ。

 今回は、来賓達もここで踊り出すことになっている。とはいえ、ルードベルク様式のダンスとなるので、参加しなくても一向に構わない。

 リティスはアイザックの手を取りながら、それぞれがどうするのかを確かめた。

 エマは仕方がないと言わんばかりの顔で、オルジオの誘いを受け入れている。

 フロイは楽しそうに笑うだけで、誰かを誘うつもりはないようだ。

 シマラやエレーネはどうだろう。

 もしかしたら、紳士が大量に押し寄せているかもしれない。

 ふと視界の端に映ったのは、壁際に並ぶシマラとエレーネだった。あの二人が一緒にいるところを初めて見た。

 そのままリティスもフロアの中央に引っ張り出されたから、それ以上の観察はできなくなってしまった。

 目の前にはアイザック。

 だが想像通り、恐ろしいほどの人数に注目されている。正直怖い。

 リティスの不安を感じ取ったアイザックは、自信に満ちた笑みを浮かべた。

「大丈夫だ。リティスは俺だけ見ていればいい」

「……とても素敵なお言葉ですが、こうなった原因の方に励まされましても……」

 ご乱心事件として、あちこちで取り沙汰されているのだ。

 隅っこで目立たずひっそり、が信条のリティスとしては、非常に胃が痛い。

「それに、分かっておりますか? 私達が何事もなくファーストダンスを踊ったことなどありませんのに……」

 ファーストダンスとは、とても重要なもの。

 アイザックの正式な婚約者となってからの夜会の参加は、既に何度か経験済みだ。

 そして本来なら、ここはリティスとのダンスを阻止すべく、彼へのダンスの申し込みが殺到している場面だ。

 リティス側が再婚であることやボルツの犯罪のせいで、王室の歴史に傷が付くと言われてきた。婚約者であっても、ずっと侮られてきたのだ。

 だがアイザックは、自信満々の態度を崩さない。

「今日こそ滞りなくいく。絶対だ」

 挑発的な笑みに背中を押されるように、リティスはステップを踏み出した。

 動き出したのに、誰からの制止もかからない。

 こんなことは初めてだった。リティスは信じられない心地でアイザックを見つめる。

 けれど、徐々に真相を理解していく。

 アイザックご乱心事件のおかげで、リティスに文句を言いたくてもできないのではないだろうか。

 この時機を逸すると、暗にリティスを認めたことになってしまうのに。

 ——まさに怪我の功名……。

 そう内心で呟いた時、ハッとした。

「もしかして……これも作戦の内だったのですか……?」

 リティスの問いに、彼は笑みを深めるだけだった。

 だが、それが答えのようなもの。

 ご乱心と囁かれるような振る舞いをして、二人の邪魔をしてはならないという認識を周囲に植え付ける。

 そうすれば、ファーストダンスに邪魔が入ることもないというわけだ。

 アイザックは初めから、それすら織り込み済みだった。そうでなければ、踊る前からあれだけ自信満々だった説明がつかない。

 蛮行と見せかけて、噂に違わぬ辣腕ぶり。

 リティスはもはや感服するしかなかった。

「信じられません……どこまで計算しているのか……」

「リティスとのダンスを邪魔する輩には、いい加減辟易としていたんだ。これでようやくゆっくり楽しめるだろう?」

 大きなことを成し遂げておきながら、アイザックの理由はささやかなものだった。

 呆れすぎてステップを忘れるところだ。

 ——何という……。

 リティスは頰が赤くなるのが止められず、隠すように俯いた。

 アイザックはぶれない。リティスを思って一直線だ。

 ある意味、今回の理由もまた彼らしいのかもしれない。

 リティスは、まだ赤みの残る頰をゆるめた。

「……そうですね。私も、あなたとこうして踊れるだけで幸せです」

 同意すると、アイザックも嬉しそうに笑う。


 二人のダンスは終始微笑ましい雰囲気で、周囲にこれでもかと仲のよさを見せつけたのだった。



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