夜会も閉幕し、交流会の全日程が終わった。
翌日。日が昇り、気持ちのよい青空が広がりはじめた頃——来賓達はそれぞれ帰国の途につく。
見送りに出ていたリティスは、感慨深い思いで目を細める。
本当に怒涛の一ヶ月だった。
「やはり少し、寂しいものがありますね……」
「そうか? リティスは試されたり利用されたり、散々な目に遭っていると思うが」
「アイザック様……」
今日もリティスの隣に居場所を死守するアイザックが、身も蓋もないことを言う。感慨はどこへ。
見送りには王族や首脳陣だけでなく、クルシュナー男爵夫妻も来ている。
エマはオルジオやフロイと別れを惜しんでいるところだ。
「——まぁ、今後も長い付き合いになるんだ。細かいことはいいじゃないか」
リティス達の前で豪快に笑っているのは、デュセラだった。
謝罪どころか、悪びれる様子が一切ないのはさすがだ。
——まぁ、謝れば国としての貸しになってしまうものね……。
徹底している。
行動の全てが国のためというのも、非常にデュセラらしい。
「来年はレーデバルト連邦が、交流会の開催国だ。我が国のいいところを、これでもかってくらい知ってもらうよ」
「私に、拒否権はないのですね……」
「アイザック殿の隣に立ち続けるなら、拒否権なんざあるわけないだろ」
「!」
それは、暗にリティスを認めたも同然の発言。
こちらが驚いている間に、デュセラは不敵な笑みを一つ残して去っていく。
その颯爽とした背中は、みなぎる自信で輝いているように見えた。
入れ替わるようにやって来たのは、エレーネとシマラだ。
「レディ・ディミトリ。お別れのご挨拶をさせていただきます」
「また手紙を送らせてほしい」
「いらん。リティスに構うな」
なぜか隣のアイザックが、保護者の立ち位置で申し出を一刀両断する。
エレーネは、今ようやくその存在に気付いたとばかりに、アイザックと目を合わせた。
「あら。最愛の婚約者以外には極端に配慮が足りないアイザック殿下ではございませんか」
「そちらこそ、中身の邪悪さがにじみ出ているぞ」
「うふふ。あなた様と結婚せずに済んで、本当によかったですわ」
「はは。それもこちらの台詞だな」
両者はにこやかに会話を交わしながらも、芯まで凍えるような冷たさをまとっている。
怖い。かかわりたくない。
極寒地帯からこっそり退避するリティスに、また別の方向から声がかかった。何だか目まぐるしい。
「おや。ご挨拶に上がったのに、アイザック殿下はお忙しいようだ」
「——フロイ様」
フロイは、春の陽気のように穏やかな笑みを浮かべた。
移住の話を断っても、エマと姉弟だったと分かっても、彼の態度は一貫して変わらない。それがリティスの気を楽にしてくれた。
気を遣いすぎる必要も、負い目も引け目も感じなくていい。明確な言葉にしなくても、フロイの誠意が伝わってくる。
リティス達の関係性は、こうして穏やかなまま続いていくのだろう。
「フロイ様との刺激的なお茶会も、しばらくはお預けとなりますね」
「寂しいならぜひ、ウルジエ共和国に遊びに来ていいんですよ?」
フロイから軽々と放られた誘いに、リティスは目を瞬かせた。
「遊びに……ですよね?」
「あなたさえよろしければ、移住というかたちでも一向に構いませんが」
「フロイ様……諦めていらっしゃらなかったのですね……」
有能な人材の勧誘に、フロイは余念がないようだ。
彼は少し意地悪げに目を細めた。
「なぜ諦める必要が? 人の心とは移ろうものですよ」
「それは——……」
「——それはあり得ないことです」
リティスの代わりに答えたのは、アイザックだった。
警戒心を剥き出しにする彼と対峙するフロイは、非常に楽しそうだ。
「おや、アイザック殿下。私とリティス様の歓談がお気に召さないですか?」
「召さないですね、私は嫉妬深いので。魅力的な婚約者を持つと不安が絶えないのですが、フロイ殿には私の苦労など、ご理解いただけないでしょうね。これほど素晴らしい女性はそういませんから」
「おやおやおやー。同盟関係を破棄する勢いで牽制されておられますね」
「私は、彼女の愛を得続けるために必死なだけです」
頭上を飛び交う際どい言葉に、リティスは赤くなったり青くなったり忙しい。
アイザックはいちいちフロイを警戒しなくていいし、こんな時にまでリティスへの賛辞を織り交ぜなくてもいい。無駄に心を削る。
リティスはアイザックの手を取り、強引に話を変えた。
「……いつかウルジエ共和国に、遊びに行きたいものですね。一緒に」
何とか笑顔を作って見上げると、彼は頬を染める。
作戦通り諍いを止められたのは喜ばしいが、なぜこうも可愛いと思われているのか未だに謎だ。
「あぁ。リティスが望むなら、結婚後すぐにでも公式訪問をしよう。そして俺達の仲のよさを存分に見せ付けるんだ」
「今から楽しみですね。結婚はまだ先の話になるでしょうから、来年の交流会の開催の方が早いかもしれません」
無邪気に語るアイザックを微笑ましく見つめていると、フロイが怪訝な声を上げた。
「いえ、三ヶ月後には挙式の予定だから日程の調整をするように——とお願いされましたが?」
「……………………はい?」
フロイがとんでもないことを言い出し、リティスは笑顔のまま固まった。
「……誰と、誰の挙式が、いつ?」
「ですからリティス様と、アイザック殿下の挙式が、三ヶ月後に」
こちらの反応と淡々とした声に、フロイはやや気まずげだ。
まさか当事者のリティスが挙式の日程を知らされていないなんて、思いもよらなかったのだろう。全く同感だ。
「……アイザック様?」
リティスが振り返ると、彼はなぜか得意げな顔をしていた。
「毎日の公務に加えて交流会への対応、色々と慌ただしかったが、俺はその合間を縫って結婚の準備を進めていたんだ。リティスを驚かせようと思って」
リティスが結婚は来年以降になると口にしたのは、ちゃんと理由がある。
ルードベルク王国では、王族の婚約期間を一年以上設けているのだ。
これはあくまで慣習だが、リティスには教養が足りない自覚がある。だから大急ぎで結婚する必要はないと思っていた。
なぜ、ものすごく短縮しているのか。
——先ほどのデュセラ首相の発言も、私を認めたというものではなく、単純に事実として、その時にはアイザック様と結婚しているからという……?
リティスは、穏やかな日常が戻ってくると思っていた。
これで花嫁修業は再開するけれど、束の間の平穏くらい噛み締めたって罰は当たらない。……そう、思っていたのに。
——しかも私が交流会の歓待役で悪戦苦闘しているのを横目に、確認すらせず結婚準備期間を削ったの……? 『第二王子の婚約者』と認められるために頑張っていたのに……?
リティスの中で、怒りがどんどん加熱されていく。
それにいち早く気付いたのはフロイだった。
「あー……、我々はこの辺でお暇させていただきましょうか、親父殿。今夜予約している宿まで休む間もありませんし」
彼はそそくさとリティス達から離れていき、オルジオに帰国を促す。
そうして無理やり馬車に押し込まれそうになっていたオルジオが、振り向いてリティスに目礼した。
「達者で。結婚式、楽しみにしている」
オルジオは無自覚に、火に油を注ぐ。
リティスはこれまでになく輝く笑顔で応えた。
「——はい。ありがとうございます」
そうして一台の馬車が、ウルジエ共和国へと旅立っていった。
リティスはそれを見送ってから、周囲の変化に気付く。
デュセラ達を乗せた馬車も、いつの間にか出発していたようだ。どうやら、全員逃げたらしい。
——つまり本当に、私だけが知らなかったと……。
とはいえ、ようやくこの時が来た。
交流会を無事終了させるまではと、鋼の意志で怒りをこらえていた。
リティスはついにアイザックと向き合う。
こちらが笑顔を貼り付けているからか、彼はあくまで誇らしげだ。危機感がない。
「アイザック様……とても驚きましたわ」
「そうだろう。いや、単純に俺が一年も待てなかっただけなんだ。邪魔な虫がつかないよう、早くリティスを妻にしなければならないと思ってな」
「なるほど……一年かけてこなしていく予定だった学習内容も全て前倒しにして三ヶ月以内に完璧に仕上げねばならないのですが私にならきっとできると信じてくださったつまり信頼の表れである、ということですね」
「リ、リティス? すまない、途中から何を言っているのか見失ってしまったのだが……」
アイザックは、ようやく不穏な気配を察したらしい。
おろおろとリティスを宥めようとしているが、そうはいかない。
「結婚式って、二人で挙げるものだと思っておりました」
「あ、あぁ、そうだな。当然だ」
「けれど、アイザック様は私の意思などどうでもよろしいのですね。私の立場では逆らうことなどできないので、受け入れるしかありません」
「そ、そんなことはない。衣装や宝飾品、何だってリティスの思うままに決めていいんだ」
「何だって? そう言ってくださいました?」
「あぁ、もちろんだ」
言質はとった。
リティスはにこりと笑みを深めた。
「それでは、私は花嫁修業を三ヶ月で終えねばなりませんので——しばらくはアイザック様とお会いするのを控えようかと思います」
「……リティス!?」
アイザックは愕然と叫んだ。
リティスだって寂しいが、忙しくなるのは事実。会う暇さえなくなるだろうことは簡単に予想がつく。
むしろアイザックは、どうして今まで通り会えると思っていたのだろう。交流会期間中ですらなかなか会えなかったのに。
「残念ですね」
「そんな……リティス!! 俺は、早く結婚したくて……ただそれだけで……!!」
「はい、それだけだったんですよね。私が関わるとアイザック様がぽんこつ気味になることに、最近気付きはじめました」
「リティスーーーーーー!!」
アイザックが悲鳴を上げても、周囲の誰も心配しない。むしろ自業自得と思っているのか、同情すら集まっていなかった。
エマとトマスも。ルードルフとクローディアも。ケインズとユレイナも。
もちろん、スズネすら。
「アイザック殿下——同情の余地なしです」
主君に向けるとは思えぬ冷たい眼差しを受け——アイザックが膝から崩れ落ちる。馬車停めにひと気がなくてよかった。
リティスは苦笑をこぼすと、アイザックの瞳の色によく似た、淡く澄んだ空を見上げる。
……幸せとは、きっとこうした騒がしさが、いつまでも続いていくことだろう。
青い空を愛しみ、リティスは柔らかく目を細めた。