〝ぽかぽか あたたかな はるのひ
となりには くいしんぼうの はなよめさん
いわってくれる かぞく ともだち
チーズに りんご おいもに ベーコン
おいしいごはんも たべきれないほど
とても すてきな けっこんしき
『しあわせだね』『うん、おいしいね』
野ネズミふたりは わらいます
野ネズミふたりは しあわせな ふうふになりました〟
八歳の頃、満足な教育を受けてこなかったリティスが、厳しいマナー講師から教科書代わりに渡されたのが、絵本『野ネズミのけっこんしき』だった。
『次に来るまでに、これで読み書きを完璧に仕上げなさい』という意図で渡されたものだが、実母が亡くなって以降初めて本を手にしたリティスは、とても舞い上がっていた。
八歳までに覚えた中途半端な読み書きを、たった一人で補完していく作業。たいへんだったけれど、リティスは諦めなかった。
何度も何度も練習したおかげで、読めるようになるのは早かった。
そうなると、喜びを誰かと共有したくなるもので……こっそり義弟のヴォルフに会いに行っては、絵本を読み聞かせていたものだ。ちなみに義母がユリアを溺愛していたため、義妹には近付けなかった。
当時のことを思い出すと、未だに胸が温かくなる。
寒々しいレイゼンブルグ侯爵邸での日々の中で、数少ない優しい記憶。
だから、『野ネズミのけっこんしき』はリティスにとって、とても大切な思い出だった。
幸せな夫婦になった野ネズミ達のように、リティスももうすぐ幸せになるのだ——と、思っていた時期もあった。
衝撃が体から抜け切らない。
閨房学の教師が退室していくのを、リティスは半ば放心しながら見送った。
……ついに、知ってしまった。
閨では具体的に、どのようなことが行われるのか。男性と女性のまぐわいについて。
教師は、基本的には男性側に身を任せていればいいと説明していたように思う。
けれどリティスの頭の中は、それどころではなかった。
アイザックと、ベッドの上で触れ合ったことはある。
体が熱くて、ふわふわとした心地で、幸せで……それなのに、どこか物足りなくて。
あの幸せなひと時の延長線上に、あんなことやこんなことが。
もう、閨のことで頭がいっぱいだった。
——私は閨係として、全然駄目だったんだわ……ユレイナ様から、閨係を務めた褒賞について訊かれた時、断っておいて本当によかった……何も成し遂げていないのに、税を無駄に浪費するところだったわ……。
現実逃避に真面目なことを考えようとしてみたけれど、逆に閨係を務めていた過去の黒歴史を掘り返してしまう。
アイザックの体にマッサージを施してみたり、ホットチョコレートを飲んで興奮を促してみたり。そのくせ、彼の隣で毎回健やかに眠っていたあの頃。
——だ、駄目すぎる……!!
リティスはテーブルに突っ伏して頭を抱えた。
今後迎える閨に関することだけを思い悩んでいたいのに、恥ずかしい記憶がそれを許してくれない。
アイザックはあの頃……どう思っていたのだろう。
リティスは赤くなった頬を押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。
リティスの奇行によく呆れなかったと思う。いいや、呆れてはいたけれど、ただ見放さなかっただけかもしれない。
——それは、私を思ってくださっているからで……あぁ、何回もああいうことが続いたから、経験がないってアイザック様に気付かれたのね……。
あの頃のリティスには分からなかったことも、今になって腑に落ちる。色々恥ずかしいし情けない。
けれど、アイザックの愛情をさらに実感することができた気もする。
——私は……あと一ヶ月後、あの方と結婚する……。
どきどきと高鳴る鼓動を宥めるように、胸に手を当てる。
『野ネズミのけっこんしき』のようなふんわり感はないけれど、幸せな夫婦になるのだ。
◇ ◆ ◇
アイザックが挙式の時期を大幅に早めたと知ったあの日の衝撃から、はや二ヶ月。
リティスは、ディミトリ公爵夫人であるエルティアから、引き続き花嫁修業を受けている。——交流会以前より圧倒的な進捗速度で。
エルティアは王妃ユレイナの実妹でもあるし、リティスの戸籍上の養母でもある。彼女からは、結婚式の作法についてを学んでいた。
「しきたり通り無事に挙式を終わらせないと、その夫婦は不幸になるといわれているのよ」
「……………………え?」
「王家に対するやっかみもあるのでしょうけれど。姉のユレイナも相当苦労したと聞いているわ」
……幸せな夫婦になるまでの道のりは、とても遠く険しいようだ。
物憂げに溜め息をつくエルティアを、リティスは呆然と眺める。憂う顔さえ優雅だった。
彼女は典礼の作法が載っている、分厚い本を差し出した。この中に、結婚式に関する記述もあるらしい。
「まぁ、本当にたいへんみたい。早朝から清らかな泉に身を浸し、祈りを捧げ……なんてね。不敬にも、王族に嫁がなくてよかったと思ってしまうほどよ」
リティスはごくりと喉を鳴らし、テーブルの上の本を見下ろした。
「今から作法を覚えて、本当に間に合うのでしょうか……?」
「失敗すると不幸な夫婦になるらしいから、覚えるしかないわね」
「そんな……」
目眩がしそうだ。
アイザックは本当に、何てことをしてくれたのか。
「準備もたいへんそうだけれど、本番も油断はできないわね。確かユレイナが、祭壇まで向かう道程で参列者に足を引っかけられそうになったって」
「ええ!?」
「俯いて歩くから、相手の顔を確かめることができないらしいのよ。しかも新郎も、司教がいる祭壇の方を向いていなきゃいけないと決まっているから、助けることもできないの」
花嫁が挙式の最中につまずいたら、それは失敗とみなされるだろう。
あんなに仲睦まじい二人でも、結婚に反対する勢力がいたということか。
「それは、ユレイナ様もさぞ悔しかったでしょうね……」
犯人が分からなければ、糾弾のしようもない。相手が政敵なら、握った弱みの一つも増えて、まだ溜飲が下がっただろうに。
ところがエルティアは、しんみりとしたリティスの言葉に首を振った。
「これね、笑い話なのよ。ユレイナは妨害される可能性も考え、対策としてとても高いピンヒールを履いていたらしいの。どんなとこが起こったと思う?」
リティスは絶句した。
結婚式に、まさかのピンヒール。
ただでさえトレーンの長いウェディングドレスで歩きづらく、転ぶ危険性が高まるというのに。
一般的には、踵は高くても安定感のあるコンチネンタルヒールが主流だ。
「私達の父が、ピンヒールに賛成したのよ。ユレイナと一緒にウェディングアイルを歩くのは父に決まっていたから、絶対に支えると請け負って」
それで、恐ろしい花嫁行進が実行されたのか。
ユレイナを陥れんと差し出された足が、次々にピンヒールでねじ伏せられていく。水面下では阿鼻叫喚だったのではないだろうか。
その場合、全力で足を踏み潰された者達は、革靴を履いていただけましだったというべきなのか。
おっとりした中にも厳しさがある人だと知っているが、だとしても逸話が豪傑すぎる。
「……なるほど。政敵をあぶり出すにはちょうどよかったんですね。顔を確かめることはできなくても、足の甲に証拠が残っているはずですから」
「ふふ。あなたもだいぶ分かってきたわね」
エルティアは嬉しそうに目を細める。
毒されてきた、の方が近い気がするため、リティスは曖昧な笑みを返すしかない。
「その後、彼らの結婚式を台無しにしようとした浅はかな連中は、出世の道が閉ざされたり、閑職に追いやられたり、全員が衰退の一途をたどっていったそうよ」
「そ、れは……」
リティスはこめかみに手を当て頭痛をこらえた。
何だかごく最近、似たような出来事があったような。
交流会の期間中、リティスは窮地に追い込まれた。
貶めるというより、力量を推し量るための騒動。
だが、これを好機と目論む者達がいた。第二王子妃に相応しくないとして、リティスを排除したがっている貴族達だ。
その後、策略自体は何とか収束したものの、糾弾に動いた者達は……なぜか全員リティス支持派になっていた。
中には真っ当に批判する者もいたはずなのに、一体どのようにして意見を変えさせたのか。
その全貌が知れず、ただ暗躍するアイザックへの恐怖ばかりが募り——この一連の流れに付いた不名誉な名が、『アイザックご乱心事件』。
……恥ずかしかった。婚約者であるリティスの方が離宮に引き籠もりたくなるほど。
つまり、もしかするとユレイナの件も——……。
結論に思い至ったリティスに、エルティアは会心の笑みを浮かべた。
「あなたが考えている通りよ。ピンヒールの案まではユレイナの計画だけれど、そこからは、私達の父と国王陛下が共闘した結果よ」
やはりか。
リティスはもう笑うしかなかった。
「愛情の傾け方が極端なのは、血筋だったんですね……」
「そうね。大切な人を傷付けられたら制裁を下したくなる、そんな星の下に生まれたのかもしれないわ」
「そんな星は一刻も早く燃え尽きた方が世のためかと思います……」
「あら、たいへん。笑わせるつもりが困らせてしまったようね」
疲れきって脱力するリティスの肩を、エルティアが優しく叩いた。
「何で私がこんな話をしたかというと、愛情深いアイザックがついているのだから、あれこれ心配しなくていいと伝えたかったの。きっと結婚式も、万全の体制を整えてくれるはずだわ」
それこそが不安なのだが、理解を求めるのは難しいだろう。
エルティアはアイザックの身内だから仕方がない。
彼女は、今日の授業をこんな言葉で締め括った。
「だからリティスさんは、ただ結婚式を楽しめばいいのよ。花嫁の務めは、幸せそうに微笑んでいることだもの」
ただ楽しめばいい。
その言葉が、やけに響いた。