今日こなさなくてはならない授業を全て終え、リティスは離宮に戻るところだった。
その途中、気まぐれに進路を変える。
通り道からそれほど外れることもないので、ついでに薔薇庭園を散歩することにした。
もう汗ばむ季節となっているため、当然花は咲いていない。見頃を終えた薔薇は、深い緑色の葉を大いに繁らせている。
交流会の期間中、ここでお茶会をした。
あの時の顔触れも、一ヶ月後の結婚式には参列する。
何度か手紙のやり取りをしているので、出席が可能というのは個人的にも聞いていた。おそらく、ルードベルク王国内で最も早く情報を仕入れていたと思う。
——とてもたいへんな日々だったけれど……また会えるのは、純粋に嬉しいわ。
薔薇の葉に触れながら、彼らとの再会に思いを馳せる。
同盟国の代表達は、全員が全員一筋縄ではいかない強烈な個性を持っていた。
しかし、最近になって思う。誰より強烈なのは、自身の婚約者なのかもしれない……と。
というのも、こうしてそぞろ歩いてみても、背中にびしびしと視線を感じているからだ。
ここ最近は、こんなことが頻繁に起こっていた。どうせこちらの行動など、スズネを通して全て筒抜けになっているだろうし。
リティスは溜め息をつき、薔薇の青葉から手を離した。
「……私も馬鹿ではないので、刺には触れないように気を付けていますから。そんなに不安そうに見つめられたら、穴が空いてしまいそうです」
誰もいない空間に放った言葉。
けれど、しばらく待ってみると、庭園の刈り込まれた低木が揺れた。
「……リティス」
所在なさげに顔を出したのは、もはや当然のごとくアイザックだった。
リティスは自身の婚約者に、冷え冷えとした眼差しを送った。
「アイザック様。結婚式までは会うのを控えると、約束したはずでは?」
そう。アイザックがこちらの断りもなく挙式の予定を早めたせいで、リティスは非常に忙しくなった。
だから結婚式当日まで会うつもりはないと、はっきり伝えてあったのに——これだ。近頃のリティスは、婚約者から尾行被害を受けるようになっていた。
「ご公務はどうされたんですか?」
アイザックは答えない。
婚約者の挙動が不審すぎる件。
「……どうやら、私に用件があるわけではないようですね。それでは失礼いたしま……」
「まっ、待ってくれ……!」
リティスが背を向けようとした途端、彼は繁みから飛び出してきた。
アイザックの銀髪にいくつもの葉が付いており、気になっていたのだ。ようやく近い距離になったので、丁寧に一枚ずつ取り除いていく。
それでもリティスが無表情を保っていたので、アイザックは怯えつつ口を開いた。
「に、二ヶ月だぞ……? そろそろ許してくれないか……?」
「許すも許さないも、本当に会いに行く時間がなかったのです」
「こっちは何度も謝ったんだから、そろそろ許してくれたっていいだろ。それなのにいつまでも怒り続けて……」
「アイザック様。謝罪をしたから許せというのは強要——加害者側の傲慢です。許すも許さないも謝罪された者の権利。つまり被害者側に決定権があるのです。誠意ある謝罪とはどのようなものか、きっちり学び直して来てはいかがでしょうか?」
「たいへん申し訳ございませんでした……」
アイザックの勢いが、あっという間にしぼんでいく。
現在も公務中は噂通りの辣腕を振るっているらしいが、リティスが見かけるアイザックは、雨の日に捨てられた犬そのものだ。不思議なことに、心なし頬がやつれてもいるような。
本当は、もう怒っていない。
ただ不満なのだ。
アイザックは、どんなに大切なこともリティスの了承なしに決めてしまう。
こんなことはこれまでにも多々あって、これからも彼の隣にいる限り、ずっと起こることなのかもしれない。
王族特有のものだと諦めてしまえば楽なのだろうか。
——けれどクローディア様は……譲れない部分は誰にでもあると言っていたわ。
そこを互いに主張して、妥協点を探って。
夫婦とは、そうして一つひとつ違うかたちに形成されていくものだと思うのだ。
だからリティスは、ここで折れないと決めた。
何がいけないのか、リティスが何に傷付いているのか。
アイザックに分かってもらうまで、絆されてはいけない。
「私が何に怒っているのか、考えてくださいましたか?」
「あぁ。リティスのこととなると周りが見えなくなってやりすぎてしまうところを、怒っているのだと思う」
「そ、れは……それも確かに、あるのですが」
的確な意見が返ってきて、リティスは面食らってしまった。
アイザックは元々、リティスより優秀な頭脳の持ち主。答えを導き出すことくらい、簡単なことなのだろう。
優秀な頭脳を駆使してやりすぎてしまう点は、確かに問題だ。
だがそれも、一度立ち止まってリティスに相談してくれれば、ある程度は防げるはずだった。
アイザックの肩口に載っていた小枝を払い、めくれていたジャケットを整える。
そうしてリティスは、厳しい表情を崩さず彼を見上げた。
「私達はこれから、夫婦になるんですよ。もちろん公務に携わっている以上、秘匿すべきこともあるでしょうが、話せることはなるべく打ち明けるべきです。どんなことだって二人で悩んで、二人で選択して、二人で進んで行くんです」
実母が幼い頃に亡くなっているから、夫婦というのがどうあるべきなのか、リティスには本当のところが分からない。
ただ、家族として迎え入れてくれたクルシュナー男爵夫妻や、アイザックの両親。彼らには共通点がある。
それは、互いに全幅の信頼を置いていること。
相手のことを理解し、心から慈しみ合っているからこそ生まれる、混じりけのない信頼。
きっと長年寄り添い、関心を持ち続けたからこそ、そこまで信じきれるのだろう。
あれが夫婦としての理想だと、リティスは思っている。
「お願いです。私のためを思うなら、まず私にどうしてほしいのかを確かめてください。そうでなければまた何度も同じことで衝突する羽目に——って、アイザック様?」
リティスは怪訝になって目をすがめた。
説教をしているのに、なぜかアイザックがにやけきっている。
それはもう嬉しそうで、幸せそうで、どこもかしこも締まりがない。
やはり婚約者の挙動が不審すぎる件。
リティスは恐怖すら感じて体を引いた。
「ついに、怒られていても喜びを感じるようになってしまわれたのですか……?」
「それは元々うっすらあった要素というか、リティスにならば何をされても幸福であるのは事実だが、今はそうではなく」
「今以外はそうなのですね……」
アイザックの愛が重すぎて、心の距離を感じる。
彼はゆるんだ口元を引き締め、咳払いをして誤魔化した。決して誤魔化しきれていない。
「夫婦、とリティスの方から口にしてくれたのが、嬉しいんだ。あと、怒っているのに俺の世話を焼くお前が、可愛すぎて」
アイザックの青色の瞳が、とろけるような愛情を浮かべてリティスを映す。
ついでに袖のシワまで伸ばしていたリティスは、自分の手を凝視してから慌てて我に返る。完全に無意識だった。
「俺達、ようやく夫婦になるんだな」
感慨深げにアイザックが呟く。
風が吹いて、音を立てながら薔薇の葉を揺らした。
茜色に染まりつつある空。夏の密度の濃い空気の中、アイザックの銀髪がきらきら輝いている。
「リティスの言う通りだ。幸せになろう——二人で」
「アイザック様……」
心臓が痛いほど鳴って、涙がにじんだ。
見惚れるほど綺麗な笑顔と共に告げられた、優しい約束。
それはどこか神聖な響きを帯び、誓いにも似ていた。
アイザックの腕がゆっくりと伸びて、抱き締められる。
十六歳の彼は成長期真っ只中で、毎日少しずつ変化しているのだ。
少し頼り甲斐が増した腕も——包み込むような愛情も。
確かにリティスの思いを受け止めてくれたのだと分かった。
嬉しくて、ほっとして、アイザックの胸に体を預ける。
けれど、その瞬間に思い出してしまった。
よりによってこんな状況で。
ベッドの上で見下ろしてくる、アイザックの熱を帯びた瞳。胸元をくすぐる、湿った髪の感触。息づかい。そしてその先に待ち受けているあれこれの具体的な——……。
「アアア、アイザック様!?」
「どうした、リティス?」
突然声をひっくり返らせたリティスに、彼は首を傾げる。
その首筋の色っぽさが目に毒……とか見つめている場合ではない。これではリティスの方が不審者になってしまう。
「その、えっと、本日はお日柄もよく……!」
「なぜここに来て挨拶を?」
視界がぐらぐらと揺れる。
羞恥心が込み上げて、体温も急激に上がっている。大量の汗まで噴き出してきた。
「せ……節度!! 婚約者とはいえ、節度を守らなくてはなりませんよね……!!」
何とか言いわけを見つけたものの、アイザックはさらに不可解そうにするだけだった。
「今さら? キスくらい何度も……」
「何ごとも今さらなんてことはありません! はじめたのが人より遅くても、輝ける日がいつかきっと……!」
「何の話だ」
全身真っ赤になっている危急時に、アイザックを納得させる必要はない。
リティスはとにかく強引に話を切り上げた。
「では、私はこの辺で!」
「あっ、ちょっ、リティス……!」
止める間もなく逃走するリティスの背中を、アイザックはしばらく訝しげに眺めていた。