目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第78話 リティス、お願いをする

 ユレイナに招かれてのお茶会は、いつもガラス張りの美しい温室が会場だった。

 王族か、彼らに許された者のみに出入りが制限されているからだ。

 だが今は、じっとしていても汗ばんでくる季節。

 なので今日は、王宮の敷地内にある川辺でのお茶会だった。

 ルードベルク王国に短い夏をもたらす太陽の熱は、ガゼボの上部から下ろされた日除けの紗幕のおかげで感じられない。時折川風が吹いては、薄い紗幕の中に涼をもたらす。

 用意された飲みものも、よく冷えた紅茶だ。菓子もレモンケーキや桃のゼリーなど、さっぱりとしたものが揃っている。

 リティスから勉強の進捗状況を聞き終えたユレイナは、満足げに頷いた。……本当にこの人が『ピンヒールの豪傑』だなんて、にわかには信じがたい。

「では、結婚前に学ぶべきマナーや結婚式のしきたりも、学習は済んだのね」

「そうですね……もう、ほとんど」

 リティスは曖昧に笑い、誤魔化すために紅茶を飲んだ。

 詳しくいうと閨房学の学習過程も既に終わっているが、そこだけは黙秘させてもらう。この場にはケインズもいるのだ。

「よかったわ。私達も、アイザックが婚約期間短縮のために動いていたなんて知らなくて。リティスさんには本当に申し訳なく思っているの」

「いえ、ユレイナ様が謝られることではないです。そこはもう、誰にも相談せずに実行してしまった本人の問題ですし、その件に関してはアイザック様ともきちんとお話しておきましたから」

 答えつつ、その時のことを思い出してしまう。

 思いきり不自然に話を打ち切ってしまったけれど、アイザックに怪しまれてはいないだろうか。

 彼の側にいると意識しすぎて落ち着かない……なんていう本音は、絶対に知られたくない。下心丸出しではないか。

 ——好きな人の前で、裸にならなければいけないなんて、消えてしまいたいほど恥ずかしい……けれど、私はアイザック様と……。

 考えれば考えるほど、義両親との平和なお茶会の支障をきたしそうだ。

 リティスはいったん気持ちを切り替え、前向きな決意を語る。

「とにかく今は、挙式に間に合うよう精いっぱい頑張るだけです。早く結婚して家族になりたいという点では、アイザック様と同じ気持ちですから」

 破廉恥な妄想をしていたことは、悟られていないようだ。

 ユレイナは無垢な様子で相好を崩した。

「アイザックがリティスさんと結婚できて、本当によかったわ。リティスさん、あの子を選んでくれてありがとう」

 心から祝福してくれているのが分かるから、罪悪感が湧いた。駄目な義娘ですみません。

 ユレイナは頬を染め、本当に嬉しそうに微笑んでいる。

 そうしてリティスの両手をそっと握った。

「あなたが家族の一員となる日が、とても楽しみなの。これからも……いいえ、これからはもっと、仲よくしていきましょうね」

 とても温かなものが、胸の真ん中にポツリと明かりを灯す。

 アイザックと結婚すると、ユレイナはリティスの義母となる。本当の家族となるのだ。

 リティスはゆるゆると口端を上げ、かすかにシワの刻まれた優しい手を握り返した。

「——はい」

 ふわりと風が吹いて、紗幕が作る影が揺れた。

 草葉が擦れる音を聞きながら、リティス達もさざめくように笑い合う。

「ふふ、楽しみだわ。一緒に買いものなんかもしてみたいわね」

「……あ、あまり高額なものは、事前に固辞させていただきますね……」

 リティスは戦々恐々としながらも、きっちりと断りを入れておく。

 アイザックのように贈りもの攻撃をされてはたまらない。

 そこで、寡黙なケインズが珍しく率先して口を開いた。

「……あの子はね、なかなか人に心を開かない子どもだったんだ」

 あの子。

 この話の流れでいうと、当てはまるのはアイザックだけだろう。

「そうなんですか?」

 正直、今の彼からは考えられない。

 暴走してしまう時もあるけれど、アイザックは飛び抜けて優秀だ。

 身分も年代も問わず誰とでも打ち解けている姿を、交流会の時に確認している。

 ケインズは椅子に深く座り直し、懐かしむように瞑目した。

「昔から聡明で、それゆえ他人の心の機微に敏感だったんだろう。どれだけ完璧に本音を隠しても見抜かれてしまうから、媚びを売る貴族もどんどん減っていって、そのせいで同年代の友人を作る機会もなくなった」

 そういえば、リティスがアイザックと出会ったのも、友人という名の将来の側近候補を見繕うためのお茶会だった。

 あれは兄弟両方のためという名目だったが、実際にはアイザックに友人を作ってほしい親の願いが強かったのかもしれない。

 思い返してみても、ルードルフには既に親しい友人らしき者がいたし、その人物は今も側近として彼に仕えている。

 一方のアイザックはといえば、お茶会を通して友人などできなかったし、今も側近を持っていない。

 信頼する部下といえばスズネが属する諜報部隊くらいなので、親の目論見が全く成就していなくて悲しい。

 ——あ、でも……。

 唯一、お茶会という枠組みを外れたところで、親しくなった者がいる。

 リティスが顔を上げると、待ち構えていたかのようにケインズと視線がぶつかった。

「そんなアイザックがある日、目を輝かせて友達ができたことを報告してきた。そう——リティスさんだ」

 リティスは目を瞬かせつつも頷いた。

 そうだ。リティスは当時も、アイザックを気難しいなんて思ったことがなかった。

 純粋で、青色の瞳をきらきら輝かせながら家族について語る、可愛らしい少年。それが彼への第一印象だ。

「驚くべきことだった。あの子の口から『友達』なんて言葉を聞くのは、初めてだったから。しかも、相手は女の子だという。家族と乳母のマリー以外、近付くことさえ拒絶していた、あのアイザックが」

「拒絶……何だか私には、想像もつきません」

「まるで懐かない猫のようだったよ。全身で警戒して……きっと心ない言葉や態度に、何度も傷付いてきたんだろう」

 リティスにとってのアイザック少年は、少し生意気で、けれど無邪気な子どもだった。

 一生懸命リティスを喜ばせようと、お菓子をポケットに忍ばせて、失敗して。

 あれは、家族にしか見せない自然体のアイザックだったのかもしれない。

 胸が痛い。

 どこまでも幸せそうに笑っていた少年に、苦しい現実があったなんて。

 リティスの方がずっと年上だったのに、微笑ましく見守る心の片隅では、羨ましいとすら考えていた。家族を愛し、家族に愛されている幸せな子どもだとばかり思っていたから。

「アイザックは、リティスさんが結婚をしたあとも、ずっと一途に思い続けた。それはもう、痛々しいほど。だが今にして思えば、他の女性に一切惹かれないということでもあったんだろう。それこそ幼少期から、あの子の目にはリティスさんしか映っていなかった」

 幼かった少年は成長した。

 美しくたくましく成長し、辣腕と囁かれるようになり——リティスを閨係に指名するという暴挙に出た。

 こうして振り返ってみると、再会の時からアイザックの愛が暴走している。

 幼い頃から変わっていないのだ。

 ずっと一心に、純粋なまま、リティスを追いかけてきてくれた。

 締め括りに、ケインズは朗らかに笑った。

「あの子の運命は、きっと生まれた時から決まっていた。それが、リティスさんだったんだろう」

「そう……かもしれません」

 リティスにしては、後ろ向きでない返事ができた。

 本当に運命かもしれないと、そう思えるほど愛されている。こんなに臆病で弱気なリティスが、唯一自信満々に信じられる愛。

「私にとっても、アイザック様が運命です。アイザック様が諦めないでくれて、手を伸ばしてくれて……私も本当によかった」

 自分に自信のないリティスは、常に殻に閉じ籠もって身を守っていた。

 誰の手も優しさも、感謝はするけれど同時に拒んでもいた。

 傷付きたくなかったから。

 もう、心を預けられるほど誰かを信用することなんて、できなかったから。

 なりふり構わず暴走して、それでも懸命にリティスを愛そうとするアイザックでなければ、きっと殻を破れなかった。

 リティスの方からも手を伸ばそうなんて、思えなかった。

 アイザックの行動が際立っているから、彼ばかりが恐れられているけれど……おそらくリティスだって十分な愛情過多。

 他人にとっての短所が、二人には長所になっている。

 お似合いなのだろう、たぶん。

「安心してください。私も、アイザック様の手を離したりしません。アイザック様を幸せにしてみせます」

 リティスは自然と笑っていた。

 大胆な宣言を聞いて、ケインズも微笑んで頷く。

「交流会の時、私は君にひどい態度をとった。すまなかったと思っている。本当は私も、君が家族になることを心から歓迎しているよ」

 指輪紛失を報告した際、彼は慰めも叱責もせず、ただ沈黙を貫いた。

 確かにあの時は傷付いたし、不安になった。

 けれどリティスを試したデュセラの心情は理解できるし、ケインズやユレイナが協力しなければ事件として成立していなかったかもしれない。

 リティスにとって割り切らなければならないことで、許すも許さないもなかった。

 あの当時の出来事についてケインズが触れるのは初めてだから、戸惑いしかない。

 しかも国王陛下が、謝罪の言葉を口にするなんて。

 リティスは慌てて首を振った。

「へ、陛下。謝罪は必要ありません」

「必要だよ。家族になるのだからね」

 ケインズの返答に目を瞬かせる。

 そうか。今の彼は国王ではなく、父親としてここにいるのだ。

 リティスがそう思い至った時、未だ握ったままだったユレイナの手に、力が込められる。

「私も、あの時は本当にごめんなさいね……」

 しょんぼりと肩を落とす彼女にも、リティスは首を振る。

「ユレイナ様は、むしろ謝りすぎです」

 あれから会うたびに、ユレイナは謝罪を繰り返していた。もう本当に気にしていないのに。

「お気持ちだけで十分ですから。気にされないでください」

「そういうわけにはいかないわ。そうだ、何かお願いごとはない? できる限り叶えるわよ」

 それは、これまでにない提案だった。

 当然固辞しようとしたリティスだが、ふと口を噤む。

 願いごとなら、ある。

 リティス一人ではどうにもできないこと。だがユレイナの協力があれば、可能かもしれない。……そう、気付いてしまった。

「……では、一つだけ——……」

 ここで引き合いに出すのは、卑怯かもしれない。

 けれどリティスは、ずっと胸に抱えてきた思いを、もう抑えることができなかった。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?