その翌日は、クルシュナー商会からエマが来訪し、ドレスのサイズ調整や細かなデザインなどを詰めていく予定だった。
「久しぶりね、リティス! 今日のあなたも愛という特効薬で光り輝くような麗しさだわ!」
申し訳なさそうな彼女の隣には、きらきらと瞳を輝かせる長女のルシエラがいた。
しかし今日はそればかりではない。
リティスはまず、ルシエラに挨拶を返すことにした。
「えっと、ご機嫌麗しくってことかな? ありがとう、元気いっぱいね」
「この状況を、元気いっぱいの一言で片付けられるリティスは大物よ……」
そう。今日はルシエラの背後に、さらに二人の少年がいた。
「ルシエラばっかりずるいぞ!」
「そうだよ。僕達だって、リティスにもっと会いたいのに……」
エドゥアルドとダニエルは、ルシエラの双子の弟だ。
まだ五歳の彼らが姉に挑む様はたいへん微笑ましい。
けれど口喧嘩ならば、ルシエラの方が何枚も上手だ。
「あなた達が幼すぎるのもあるけれど、この離宮は男性の入場を制限しているのよ。商人でありリティスの家族でもあるお父様や、信頼のおける教師以外はね。……あぁ、そこはかとなく香る執着溺愛スパダリの嫉妬と独占欲! 最高! この世の楽園はここにありて尊みは世界を救わん!」
「ルシエラがまたおかしくなってる!」
「母様、何とかして」
今日も絶好調のルシエラに、弟達は怯えている。
自身の周囲で大騒ぎをする子ども達に、エマは頭を抱えていた。
「本当にごめんなさい。毎回毎回子ども同伴で仕事に来ちゃって……しかも今日は止めきれなくて三人も……」
「いえ。私も、そろそろエディ達に会いたかったから、ちょうどよかったです」
リティスにとっては懐かしい賑やかさだ。
クルシュナー男爵邸では、子ども達が集まるといつもこの調子だった。
顔立ちは瓜二つだが、双子は性格が正反対だ。
エドゥアルドは負けん気が強く外遊びが大好きで、ダニエルは穏やかでいつもエマにくっついている。
先代クルシュナー男爵が亡くなってから初めて会った子ども達は、リティスにも懐いてくれている。
当時の双子は、リティスが会いに行けていた頃のヴォルフと同じくらいの年回りだったので、義弟への思いも相まって、ことさら可愛がっていたような気がする。
「エディもダニーも、元気だった?」
「もっちろん! ルシエラが前よりもっとおかしくなった以外は!」
「母様から、リティスに一因があるって聞いたけど……」
「えぇ!? 私!?」
エマの方を振り向くと、彼女はさっと顔を背けた。
色々言いたいことはあるが、ルシエラが小説家を目指すようになったのはリティスの助言があったからだし、少しは責任があるかもしれないと思い直す。
「私は、夢を追いかけるって素敵なことだと思うわ」
「あれは将来の夢っていうより、本当の意味での夢まぼろしを追いかけてると思うぞ?」
「最近は、生涯独身宣言までしているよ」
……まずかったかもしれない。
ここに来て、リティスもようやく危機感が湧いてきた。ルードベルク王国において、未婚の女性は異端だ。
いつものごとく、何かを熱心に書き付けているルシエラに訊いてみる。
「あの、ルシエラ。独身だと、既婚者より苦労が多いかもしれないけれど……」
「リティスは結婚してもたいへんだったじゃない」
一度目の結婚は全くその通りだったので、反論できない。
さらに彼女は続ける。
「それに、リティスが変えてくれればいいでしょう?」
「え?」
「ルードベルク王国を、女性が自由に生きられる国にしていってよ」
思いも寄らない意見に、リティスは衝撃を受けた。
リティスが、この国を変える。
女性がどのような人生を選択しても、後ろ指を差されることのない国へ。
フロイからの移住の誘いを断った際、似たようなことは言った。
あの時は、穏便な断り文句という側面が強かったように思う。
けれど——……。
ルードベルク王国の発展に、尽力する。
この時、その言葉はリティスの胸に、深く刻み込まれることとなった。
その後、結婚式に向けた話し合いが着々と進んでいく。
ちなみに子ども達には、打ち合わせが終わるまで庭を散策してもらっている。
案内しているのは極度の人見知りだという、例の『お喋り女の仮面』をつけた侍女だ。子ども達にも人見知りを発揮して突然現れたり消えたりを繰り返しているが、その神出鬼没さが少年少女に受けている。……今どきの子の感性が分からない。
「うーん。ウェディングドレスのトレーンは、長ければ長いほど見栄えがいいのに……」
「挙式のあと、披露宴会場までは幌なしの馬車での移動になります。万が一にも生地が車輪に巻き込まれないよう、もう少し短くてもいいと思います」
「そうね……リティスの本音は、重いしかさ張るし疲れるからだと思うけど」
「そ、そんなことはないですよ」
ちょっとは図星なのだから、エマはさすがだ。
口にした理由も本当なのだが、ドレスの試着をした時、その重量に怯んだのも確か。
ビーズや宝石、幾重にもなったサテンの生地が、体に重くのしかかる。あれを一日中着用するとなると、疲労も相当なものになるだろう。
少し考える素振りを見せていたエマが、再び顔を上げた。
「じゃあ、こうしましょう。ベールをロングベールにするの。馬車に乗る時はベールを外して民衆に手を振るから、外して畳んでおけるでしょう?」
「な、長いのは絶対なんですね……」
「それでも、ドレスよりは軽くなるはずよ。刺繍とレースを組み合わせたものにするけど、透け感はなくさないようにするから」
レース、という言葉にリティスは反応する。
「あの……その、ロングベール……私が編んだものでもいいでしょうか?」
おずおずと口にした内容に、エマは目を見開いた。
「え。リティス、そんな時間はあるの? 駄目よ、花嫁は美容にも気を遣わなきゃいけないんだから。確かに、あなたがデザインしたものの方が素敵でしょうけど……」
「じ、実は、昔から少しずつ手を入れてきた作品があるんです……!」
どうせ無理をするだろうと説き伏せにかかるエマを、リティスは懸命に遮った。
彼女が聞く気になったのを見逃さず、すぐさまスズネに頼んでクローゼットに保管してある生地を持ってきてもらう。
向こうが透けるほど薄いチュールレースの下地に、薄いモスリン生地を重ねて縫い付けた純白のレース。縁取りにアザミの花と葉をあしらい、素朴だが丁寧に作り込まれている。
エマは食い入るようにそれを見つめると、リティスに視線を移した。
「これって、もしかして……」
「あ、気付いちゃいました? はい、実は先代クルシュナー男爵と結婚する際に用意していたもので……」
「いわくつきじゃない!!」
エマは悲鳴に近い声を上げた。
いわくつきとは失礼な。
いつ家を追い出されてもおかしくなかったため、レイゼンブルグ侯爵家にいた当時は、レース編みを売ることでこっそり貯金をしていた。
だが、老男爵との結婚を命じられたことで、その努力の一切が無駄になった。
それでも、会ったこともない男爵と、せめていい関係を築けたらと考え、結構前向きな気持ちでベールの製作をはじめたのだ。
「結婚式自体を挙げなかったので、結局使っていません。だからいわくつきというのは、語弊があるかと」
「より辛いんだけど……本当に、あなたって子は……」
目頭を押さえるエマには悪いが、リティスにとってはそんなに悪い思い出ばかりではない。
手に取ると、さらりとした滑らかな生地。
溜めていたお金を全て注ぎ込んだから、上質な糸を使っている。
「とっておいても仕方がないし、救貧院に寄付しようと思ったこともあるんです。でも、このアザミの葉を見た時……鳥の羽みたいだなと、ふと思って」
王家の印章は、大鷲と太陽。
リティスには、アザミの棘々とした葉が、広げた翼にも見えたのだ。
「無意識に、アイザック様への思いを込めていたのかもしれません。そうすると、どんどん手放せなくなってしまって……どんどん長さばかり伸びていって……」
「よりいわくつきを強調するための逸話にしか思えなかったけど、なるほどね……この場合、アイザック殿下と晴れて結ばれるわけだから、逆にありなのかも……」
エマの決断は早かった。
リティスが作ったレース生地は使用する。だが、ロングベールのかたちに裁断するのは職人に任せるということで話は落ち着いた。
宝飾品の多くは王家伝統のものを使用するので、打ち合わせは大体終わった。
その頃には日が傾き、空は暗くなりはじめていた。
そろそろ子ども達を呼び戻して、クルシュナー家のみんなは帰る時間。
リティスは暮れゆく外を眺めながら、小さく笑った。
「ディミトリ公爵家と養子縁組をした時もそうでしたが……やっぱり、少し寂しいですね」
あと一ヶ月。
クルシュナーの姓からディミトリ姓に、そして今度はルードベルクを名乗るようになるのだ。
クルシュナー姓を手放した時から、こうなることは分かっていたのに。
「エマさんやトマスさん、みんなと……クルシュナー家と離れてしまうようで、寂しい」
室内にぽつりと、こぼれ落ちる声。
弱々しい本音は震えていた。
アイザックと結婚して幸せになるのに、こんなのは矛盾している。リティスだって心から望んでいるはずなのに。
寂しい。
大切な家族と離れるのは寂しい。
悲しいほど綺麗な夕映えの景色がそうさせるのか、視界が潤んでいく。
リティスの瞳から、涙がぽつりとこぼれ落ちそうになったところで——エマは鼻で笑った。
「何を言っているのよ、リティス」
普段通りの快活な笑みで、彼女はリティスの憂いを一笑に付した。
リティスは呆然とするしかない。
「結婚って、家族と離れて別の家族を作ることじゃないのよ。相手の親族まで呑み込んで、家族を増やすところに利点があるの」
呑み込んでって、侵略じゃあるまいし。しかも利点って。
「そ、そうなんですか……?」
「あったり前じゃない! 実家の家族だって家族のままよ! これはこの世の大半の人が知っている真理!」
エマのきっぱりとした物言いに、リティスは思わず笑ってしまった。
共和国とはいえ、一国の主の娘なのに。
結婚したら、リティスはアイザックと夫婦になる。アイザックの家族が、リティスの家族にもなる。
つまり、クルシュナー男爵家の一員でなくなってしまうのだと——リティスはそう思っていた。
エマの手が、リティスの頬を撫でる。
「だから、私達もずっと家族。それは一生変わることがないの」
穏やかなエマの笑みに、今度こそ涙腺が決壊した。
「エマさんっ……」
リティスが抱き着くことなんて予想済みだったのか、彼女は危なげなく受け止めてくれた。
そうして優しく背中を撫でるから、ますます涙を止められなくなってしまう。
「困った子ね、何回言い聞かせたって不安になるんだから。一人で悩まないで、何でも話してくれていいの。私達は家族なのよ」
「はい……はいっ……!」
優しく宥める声に甘えて、さらに強くすがり付く。
家族の繋がり。
目に見えないそれは曖昧なはずなのに、とても強固なものだったらしい。
リティスは安心して心を預けていいのだ。
……今は、まだ。
庭で遊ぶ子ども達を呼び戻すのは、もう少し時間が経ってから。