ユレイナに願ったことは、一週間後に実現された。
リティスは、アイザックの離宮にあるゲストルームに来ている。
密かに招いたのは、ユリアとヴォルフ。リティスの異母姉弟だ。
彼らは、レイゼンブルグ侯爵家崩壊の渦中にいた。
そして、レイゼンブルグ家当主であるボルツ・レイゼンブルグを破滅に追い込んだのは——リティスだ。
後妻はともかく、彼らのことはずっと気にかけていた。
苦労はしていないか。周囲からの偏見に泣いていないか。安全な場所で侯爵家崩壊のきっかけを作ったリティスのことを……恨んでいないか。
——いいえ。恨んで当然よね。
それでも、結婚する前にどうしても会っておきたかった。
弟妹達とは、これからもっと立場が変わっていく。彼らがリティスに憎しみをぶつける機会があるとしたら、今しかない。
だから会わなければと思った。
「——お義姉様! お会いしたかったわ!」
扉の前に立ち尽くすリティスの下に駆けてきたユリアは、その勢いのまま胸に飛び込んできた。
金糸のように輝く髪と、柔らかな琥珀色の瞳。細い手足と華奢な肩、レイゼンブルグ侯爵家の妖精とも称えられる麗しいユリアは——驚くほど以前と変わらなかった。色々な意味で。
けれどリティスは少し体を離し、以前と違う点にすぐに気付いた。
ユリアはいつも、彼女のためにあつらえられた特別なドレスをまとっていた。まるで幸せの象徴のような、甘やかなドレス。
だが今の彼女が着ているのは、おそらく既製品だ。
サイズがややゆったりしているし、生地もごわついている。
それでも目映いほど可愛らしいのは、もはやユリアの特性なのだろう。
辛い経験をしただろうに、こうして心から笑える彼女だからこそ、美しいのだ。
ユリアは、曇りない眼差しでリティスを見つめた。
「そうだわ! 結婚されるって聞きました! しかもあのアイザック様と!」
彼女の言葉にどきりとする。
そういえば、以前会った時のユリアは壮大な勘違いをしていた。
アイザックの婚約者になるのは自分だと。二人を結び付けるために、リティスが閨係になったのだと。
これらは全て、ボルツ・レイゼンブルグが吹き込んだものだが——そう信じ切っていた彼女に指摘されるのは気まずい。
ユリアはぷっくりと頬を膨らませた。
「もう、昔からアイザック様と恋仲だったのなら、おっしゃってくださればよかったのに! おめでとうって言いそびれるところでしたわ!」
「……え?」
「お義姉様がアイザック様に見初められたのでしょう!? 物語のようでとっても素敵! お友達とも、最近はお義姉様のお話ばかりです!」
……おそらく、リティスの知らないところで情報操作が行われたのだろうと思われる。
リティスは短い期間とはいえ、閨係を務めていた。その事実を払拭する逸話が必要だったのだ。
——仕掛けたのがアイザック様なのかユレイナ様なのか、その辺りははっきりしないけれど……。
閨係うんぬんのことをユリアが忘れてくれているなら、わざわざ掘り返すこともあるまい。
「あ、ありがとう……あなたにそう言ってもらえると、嬉しいわ……」
「——では、僕からも」
リティスの返答に、幼い少年の声が重なる。
十一歳になったヴォルフは、子どもらしさのない儀礼的な辞儀を披露した。
「レディ・ディミトリ。ご結婚おめでとうございます」
ユリアと同じ蜂蜜のような金髪に、リティスと似た深緑色の瞳。整った顔立ちだが、ひどく冷めた表情をしている。
「あ、ありがとう……ヴォルフ」
「ユリア姉様は純粋な気持ちからでしょうが、もちろん僕は打算ありきです。今後も僕達の苦境は続く。それでも王子妃と懇意にしているという事実があれば、少しは生きやすくなりますから」
あまりに明け透けな言葉に、リティスは頬を引きつらせる。様々な経験をしたせいだろうか、年齢のわりに純粋さが失われているような。
「すっかりすれて……」
「元々です」
あんなに可愛かったヴォルフが。
これも成長というのだろうか。
「……あなた達には憎まれても仕方がないと思っていたから、ヴォルフの割り切った考え方には戸惑うわ」
罵られる覚悟で会うことを決めたのだ。
その上で、リティスの力だけで何とかなる願いがあれば、叶えるつもりだった。それで少しは贖罪になればいいと。
「本当に、ごめんなさい……」
リティスのか細い声に、弟妹達は答えない。
重苦しい沈黙。自然と俯き、体が強ばっていく。
やがて静かに返したのは、ヴォルフだった。
「……なぜ、あなたが謝るのですか?」
顔を上げた先、彼は淡々と続ける。
「僕達に起こった全ては、父の所業が跳ね返ってきただけのこと。あなたは何一つ悪くない」
「ヴォルフ……」
義弟の真意が分からない。
これもまた、彼のいう打算だろうか。
だがヴォルフの深緑色の瞳は、とても誠実な光を宿していた。
「むしろ悪いというなら、僕達の方です。あなたが苦しんでいる時、僕達は何もしなかった。分かっていながら、ただ傍観していただけだった。謝って許されることではないです」
「? ねぇヴォルフ、私達って何を傍観していたの?」
「姉様はちょっと黙っていてください」
ユリアが能天気に首を傾げるのを、ヴォルフは慣れた様子でいなして続けた。
「確証はなくても、察することはできました。レディ・ディミトリは、家族の食卓に現れなかった。母のあの性格上、相手が子どもであろうと情けをかけることはなかったでしょう」
リティスは、義弟の言葉に打たれたように立ち尽くしていた。
彼は、知っていたのか。
リティスが虐待を受けていたことは、気付かれていないと思っていた。ヴォルフはまだ幼かったし、隔離されていたから元々会う機会も少なかった。
だが彼は、知った上で見ないふりをしていたのだと告げた。
——つまり最初から……私達は、姉弟ですらなかったのね……。
リティスの不幸を無視したヴォルフ。
ユリアやヴォルフを見捨てたリティス。
元々、絆などありはしなかった。
分かっているつもりだったのに。
胸がじくじくと痛む。鼻の奥がツンとしたけれど、リティスに泣く資格はない。傷付く権利も。
だってリティス達の間には、そこまでの繋がりすらない。
「レディ・ディミトリ。あなたは償おうとしなくて結構です。アイザック殿下のご慈悲で邸宅は取り上げられませんでしたし、一応父と母も健在です」
「一応って。まぁ確かに、ほとんど部屋に引き籠もりきりで力仕事は手伝ってくれないけれど」
「姉様、もう面会は終わりです。レディ・ディミトリにお伝えしたいことがあれば、今の内にどうぞ」
再びさらっといなされたユリアだが、慣れているのかすぐに切り替えた。
彼女は微笑み、リティスの手をぎゅうっと握った。
「お義姉様、どうかお幸せに。私達も自給自足をはじめたり、何だかんだ頑張ってますので、心配しないでくださいね!」
「……えぇ。ありがとう。ユリア達も元気で」
これで、お別れだ。
公の場で会う場面はあるかもしれない。
けれどこうして、義姉弟として接することができるのは、きっとこれが最後。
リティスは自分がうまく笑えているか、分からなかった。
使用人に従い、ユリアとヴォルフが退室していく。引き留めることはできない。
ユリアの姿が見えなくなり、続いて出ていこうとしたヴォルフは……躊躇うように足を止めた。
「……『野ネズミのけっこんしき』」
彼の呟きに、リティスは肩を揺らした。
義弟は今、何と言った?
「うっすらとしか記憶に残っていませんが……たまに、本の読み聞かせをしてくれる人がいて。僕はその時間が、とても楽しみでした」
頭の中に様々な情景がよぎっていく。
『野ネズミのけっこんしき』。こっそり訪ねたヴォルフの寝室。絵本を読み聞かせると、二歳の彼は嬉しそうに目を輝かせた。やがて、あどけない表情で眠りにつくのだ。
リティスにとっては、数少ない家族の思い出だった。
「あ、あれは……」
「絵本を読んでくれたのが誰なのか、覚えてもいませんでした。でも、成長する内に分かってきました。うちの母親は子どもに読み聞かせをするような人間じゃないですし、姉様はあんなですし」
ヴォルフは、返答を求めているわけではないようだった。
ただ独白をする義弟に、リティスは口元を押さえて立ち尽くす。
ヴォルフがこちらを振り向いた。
たった一人の小さな義弟。
彼はいつの間に、こんなに成長していたのだろう。
「——リティス姉様。改めてご結婚、おめでとうございます」
「ありがとう……ありがとう、ヴォルフ……」
リティスは震える声で応えた。
胸に手を当て辞儀をするヴォルフは、それまでよりずっと大きく見えた。
……義弟妹達が去ったあと。
リティスはただ、歯を食い縛って涙をこらえ続けた。