一ヶ月の準備期間も怒涛の忙しさで過ぎ去り、いよいよ結婚式当日。
王族の結婚式の作法には様々な決まりごとがあり、それらを順番にこなしていく。
まずは朝日が昇る前に起床し、『三の祈祷』と呼ばれる儀式から。
はじめに王族以外の侵入が禁じられた区域に向かい、鬱蒼とした森に守られるように存在する、清らかな泉に身を浸す。そうして神聖国がある西側を向いて祈りを捧げる。
次に日が昇りきる頃、大聖堂に行って祭壇に祈りを捧げる。
そして最後に、大聖堂の控室で待つ愛する伴侶の両親に、祈りを捧げる。
この時新婦が跪き、新郎の両親は新婦の額に手を添えて祈りを受け入れる。
これでようやく神から、結婚式を挙げる許可を得るのだ。
そこからは身支度の時間だ。
体を隅から隅まで磨き上げ、爪のかたちを整え、ドレスを着付け化粧を施していく。
純白のウェディングドレスは、銀糸の刺繍と共に真珠が縫い付けられ、かなり重厚感のある作りとなっている。
王家に代々受け継がれてきた慶事用のネックレスは、他ではお目にかかれないほど大粒のサファイアが主役となっている。その周囲を飾るのは小粒のダイヤモンドで、銀製の台座が複雑に絡み合って首元を華やかに演出している。
ティアラもネックレスと揃いになったものだし……とにかく全てが重い。
極め付きはロングベールだ。床に広がる様は溜め息が出るほど美しいが、優雅に歩いていられないほど引きずる。
「リティス様、猫背にならないようにお願いいたします」
「そんなことを言われても……」
スズネの指摘に、リティスは苦笑を漏らした。
むしろ踏ん張って前進したいくらいなのだが。
それでも、こうして晴れやかな気持ちでこの日を迎えることができた。
窓の外には晴天が広がり、城中——いいや、王都中が祝福の空気に包まれている。
だが、着付けを手伝ってくれたスズネだけは、いつもの無表情を崩さない。
「いよいよ決戦の舞台ですね」
「結婚式なのにその表現……」
「式の最中も、決して油断はできません。アイザック殿下の働きで表立って結婚に反対する者はおりませんが、未だ水面下ではそういった勢力がうごめいているでしょうから」
「まぁ、そうね……無事に挙式を終わらせないと、その夫婦は不幸になるといわれているらしいし」
エルティアにも、ウェディングアイルを歩く際は気を付けるよう忠告されていた。
リティスと共に歩く役目は、彼女の夫であるディミトリ公爵が引き受けてくれた。戸籍上は父となっているため当然の人選だが、迷惑をかけることにならなければいいが。
昼には慌ただしく水分を補給し、ほんの少しの食事をとる。
体型を維持するために飲食は最低限だ。しかも新婦用の控室から出ることは許されないので、テーブルもない状態でスズネに補助してもらいながら。
何もかもが慌ただしく、目まぐるしい。
その勢いのまま、結婚式がはじまった。
大聖堂は天井が高く、頭上で輝くステンドグラスから極彩色の光が差し込んでいる。
静かな空間に響くパイプオルガンの演奏。
顔を上げてはならないため、参列者を確認することはできない。
クルシュナー男爵家は、全員揃っているだろう。
それに交流会で親しくなったフロイやシマラ、エレーネ。
国王夫妻に王太子夫妻も。
たくさんの人達に見守られながら、リティスはウェディングアイルを歩き出した。
両側の席は人で埋め尽くされている。おそらく高位貴族だろう。
一歩ずつゆっくりと進むリティスの足元に、いかにも高級そうな革靴が差し出された。
転ぶことはなかったけれど、心の準備がなければ危なかっただろう。
挙式中の緊張に、嫌な緊迫感が混ざる。心臓が激しく動きはじめ、冷や汗が背中を伝う。
「——靴底薄め、雄牛のレザーソール」
その時聞こえたのは、ほんの小さな呟き。
パイプオルガンの演奏もあるのに、なぜかやけに響いた。
それが、アイザックの声だからだろうか。
再び、進行を邪魔する革靴が現れる。
「——チャンキーヒールがある、カモシカのレザーソール」
また革靴が。
「馬だ。馬の革が使用されている。靴底はやや厚く、前の二つに比べて足も大きい」
……そろそろ誰もが気付きはじめていた。
アイザックは、リティスの進行を遮ろうとした者が履いている、靴の種類を言い当てているのだ。
革靴の底には、主に山羊や雄牛、雄の羊、馬、カモシカなどの皮が使用されている。
アイザックは振り返りもせず、僅かな足音だけでそれを判断している。ただ、犯人を特定する手がかりとするために。
それに気付いた者から、足を引っ込めていく。
素敵な結婚式の最中のはずなのに、リティスも冷や汗が止まらない。
今や、尋常ではない緊張感が大聖堂中に満ちていた。
新郎は、司教がいる祭壇の方を向いていなければならない。これも王族の結婚式のしきたりだ。
だから花嫁に何をしてもばれるはずがない——そう思っていた者達の恐ろしさは、筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。助けてもらったはずのリティスだってちょっと怖い。
アイザックは祭壇の方を向いたまま、ひっそりと笑った。
「挙式中に口を開くな、という決まりはなかったはずだからな」
確かになかったけれど、リティスは頭を抱えたくなった。
——こんなところで、その有能さを発揮しないで……!
素敵な思い出になるはずが、このままでは誰の心にも恐怖だけが刻み込まれる結婚式となってしまう。
どうしよう。
長いウェディングアイルをゆっくりと歩きながら、リティスの頭の中は混乱の渦に包まれていた。
その時、エルティアの助言が思い浮かぶ。
ただ楽しめばいい。
彼女はそう言ってくれた。
——そうよ。他の人のことなんて気にせず、今だけは楽しんでいいはずだわ。だってこれは、私の結婚式だもの。
リティスはもう迷わなかった。
祭壇が近付く。
ディミトリ公爵はエスコートの役割を終え、リティスをアイザックに預ける。この流れにも、この先は新郎と共に歩いていく、という意味が込められている。
リティスは、アイザックを見上げて心からの笑みを浮かべた。
「これは私達の結婚式なんですから……アイザック様は、私にだけ集中してください」
結婚式の邪魔をしようとした者達への報復を考えていたのだろう、彼は悪巧みの顔をしていた。
けれど、リティスのたった一言で、雰囲気ががらりと変わる。
「——あぁ。喜んで」
とろけるような笑顔と、甘い声。
澄んだ青色の瞳にはリティスしか映らないとばかりに、情熱的な眼差し。
先ほどまでの冷酷な様子とは、大違いだった。
これにざわついたのは参列席だ。
全員、アイザックご乱心事件については把握していた。
だが、噂で知っているだけだった。
だからリティスの願いにあっさり従うアイザックを目の当たりにし、驚愕した。
かたちばかりの笑みを浮かべる無慈悲な辣腕第二王子しか知らない者達にとって、リティスにだけ見せる甘い様子など恐怖でしかなった。
「そのウェディングドレス、とてもよく似合っている。リティスの愛らしさを最大限に引き立てる、最高のものに仕上げることができた」
「え? このドレス、もしかしてアイザック様がデザインされたのですか? 私、てっきりエマさんかと……」
「リティスに関わることを、俺が人任せにするはずないだろう? 本当は宝飾品類もデザインしたかったのだが、これもしきたりの一環でな」
「アイザック様は、本当に多才でいらっしゃいますね」
怖い。和気あいあいとした新郎新婦のやり取りすら、彼らにとっては恐怖の一幕だった。
リティスとアイザックが、神の前で夫婦となる誓いを交わす。
大聖堂内に荘厳な鐘の音が鳴り響く。
結婚式の邪魔をする者は、もはや誰一人としていなかった。