結婚式を終え、披露宴を乗り切り。
そうして、夜がやって来た。
いよいよだ。
ついにこの時がやって来た。
リティスにとって、一世一代の夜。
心臓は、先ほどから飛び出しそうな勢いで鳴っている。
——まずは、閨係だった時の失敗を謝罪して、それから……。
頭の中で今後の展開を思い描いて冷静になろうと思ったが、無理だった。
どのようなことが起こるのか知ってしまったから、想像するだけでベッドを転げ回りたくなる。
やがて、月が中天に差し掛かった頃。
リティスの居室の扉が叩かれた。
「ひょっ……」
思わず、裏返った声が押し出される。
扉がゆっくりと開いていく。
リティスは、全身で呼吸をしながらその人を迎え入れた。
青い月明かりがやけに眩しい。薄い明かりだけでも、相手の顔が浮かび上がって見える。
触れたら切れそうな輝きを帯びる銀髪と、澄んだ青色の瞳。
整った顔立ち、綺麗な姿勢。どこにも瑕疵が見当たらない凛然とした容貌。
晴れて伴侶となったアイザックが、そこにいる。
「——リティス」
名前を呼ばれて肩が跳ねる。
今夜、彼と……夫婦の契りを交わすのだ。
「……アイザック様」
鼓動が鎮まらない。
まるで、この先に起こることを期待しているかのよう。
——まずは、謝罪を……何を謝るんだったかしら?
アイザックを見ただけで、それまでの思考が吹き飛んでしまった。
そわそわ落ち着かなくて、不安で、けれど少なからず期待も混ざっていて。
どうすればいいのだろう。作法も何もかも真っ白だ。
次の言葉に迷っていると、アイザックの方から口を開いた。
「大切な話があるんだ」
……話。
その話とやらは、いよいよと緊張が高まっている、今この瞬間じゃないと駄目なのだろうか。
リティスはてっきり、すぐに事に及ぶと思っていた。
若干、肩透かしを食らったような気分は否めない。
——いやいや。それじゃあ私が、すごく積極的みたいじゃない……。
恥じらいはどこへ置いてきたのか。
リティスは赤くなった頬を誤魔化すように、続きを促した。
「お、お話とは何でしょうか?」
「まずは、これを」
アイザックがそう言って差し出したのは、一通の手紙だった。差出人は書かれていない、薄青色の封筒だ。
「リティスの現在の立場上、披露宴に呼ぶわけにはいかない。だが……それでは互いに悔いが残ると思った。今日のリティスには、誰からだろうと祝福される権利がある」
「え……」
じわじわと、予感が胸に湧いてくる。
リティスが披露宴に招待できず気にしていた相手なんて、彼らしかいない。
だがそんなはずはないと、すぐに期待を打ち消した。
もうきっと、姉弟として会うことはできないと思っていた。
没落した犯罪者の身内など、結婚式にも披露宴にも招けるはずがない。
リティスだって同じ非難を浴びるべきなのに、一人だけ安全なところに逃げ、恥ずかしげもなく家族と呼べるはずも。
「以前、何をするにもリティスに確認をすると約束したばかりなのに、本当にすまない。だがこうでもしなければ、リティスは自身の願いを口にしないだろうと思った。だから結果的に、事後承諾になってしまったが……披露宴会場を眺められる場所に、お前の弟妹を招待させてもらった」
やはり、そうなのか。
「では、これは……」
「あぁ。それはユリアとヴォルフからの手紙だ」
リティスは驚きで声が出なかった。手紙を持った手が震える。
アイザックが裏でそんなことをしていたなんて、全然気付かなかった。
こういうところが彼はずるいのだ。
普段は暴走気味で、リティスを困惑させることの方が多いのに、本当に大事なところは絶対に外さない。
いつだって、リティスの隠した願いを見つけてしまうのだから。
「リ、リティス? どうした?」
アイザックが、リティスを見て狼狽えだす。
リティスはいつの間にか泣いていた。
あとからあとから、涙が溢れて止まらない。
けれど、これは温かな涙だ。
アイザックを選んでよかった。
アイザックと結婚できてよかった。
そんな思いで胸がいっぱいで、苦しい。
おろおろとこちらを覗き込む彼の胸に、リティスは飛び込んでいた。
この人が本当に好きだ。
この人がいるから自分になれた。
弱音も泣き言も、恥ずかしいような失敗も、丸ごと受け止めてくれるから。
この先の人生、迷ったり苦しんだりすることがあっても、アイザックがいてくれるから大丈夫だと思える。
自分も彼にとってそういう存在でありたい。
「ごめんなさい。私……本当は閨係の時、何も知らなかったんです……」
受け止めてくれた彼の腕の中、ベッドの揺れが伝わってくる。
背中に回されたアイザックの手の温かさに、体の強ばりがほどけていく。
彼の体温と安心する匂いに包まれ、溶けていくようだった。
「アイザック様が気を遣ってくださったから、閨係を辞退することもなかったし、こうしてずっと一緒にいられるようにもなって……でも、私はアイザック様に、迷惑をかけてばかりいます……」
本当は、至らないリティスは、彼に相応しくないのかもしれない。
それでも、もう離れたくなかった。
離さないと、ぎゅうっとしがみつく。
「けれど、アイザック様を好きな気持ちは、誰にも負けません。だから……ずっと側にいさせて……」
渾身の願い。
だからこそ、反応を確かめるのが怖い。
リティスの頰にアイザックの手が触れ、顔を上向けられる。
彼は優しく微笑むと、触れるだけの口付けを落とした。
「俺の方こそ、リティスに迷惑をかけてばかりだ。そもそもお前を閨係に選んだのも俺だしな」
体重をかけられ、今度はアイザックがリティスに覆いかぶさっていた。
背中にシーツのひんやりとした温度を感じる。
「お前が閨係として頑張ってくれたから、今の俺達がある。俺はそう思っている」
彼の指が、ゆるゆると頬をなぞる。
そのもどかしい触れ方も、青い瞳を細める蠱惑的な表情も——まるで。
リティスは瞬時に赤くなった。
——え。え、え? 今?
突然の展開に頭が追い付かない。
一体何がアイザックをその気にさせたのか。
「——どんなふうにしてほしい?」
「……え? ど、どんなとは……」
「優しく? それとも、激しく? 思いきりゆっくりすることも、丁寧にすることもできる。リティスが望むやり方に合わせよう」
「の、望むやり方……?」
閨房術の授業では、手順は一つだけだった。何通りもあって選ぶことができるなんて聞いていない。
全く分からないけれど、ひたすら恥ずかしい。おそらくこれは、ものすごく卑猥な会話だ。
リティスは対処しきれず口をぱくぱくとさせた。
「リティスに負担はかけないつもりだが、正直俺も初めてのことだからどうなるか分からない。抑えも利かないかもしれない」
抑えとは。
閨ごとは、一度で済むものだと聞いているのだが。
駄目だ。授業が全く役に立っていない。
リティスが動揺している間も、アイザックの手はいたずらに動いている。
首筋を撫でられ、肩、鎖骨と滑るように降りていき……夜着の胸元を乱す。
そんなことをされては何も考えられないから、少し待ってほしい。
リティスは冷静さを総動員して、彼の問いの意味を考える。
何も分からないけれど、自分がアイザックにどうしてほしいのか。
「わた、私は……」
割り入ってくる彼の脚を、反射的に挟み込んだ。
「——アイザック様がしてくれることなら、どんなことでも、嬉しい、です……」
途端、アイザックの手が止まった。
そのままゆっくりと顔を上げ、視線が合わさる。
彼は笑顔だった。
なぜかとても凄みのある、獰猛な笑み。
冴え冴えとした瞳の色が濃くなっており、リティスは僅かにたじろいだ。
もしかしたら、選択を誤ったのかもしれない。不意に危機感を抱く。
「……そんなふうに煽って、後悔するぞ」
脅すようなことを言うのなら、答えを変更させてくれてもいいのに。
そう声を上げる前に、あっという間に口を塞がれてしまった。
……嘘からはじまったリティスとアイザックの恋は、こうして本物になった。
本物の夫婦となり、これからは二人で幸せに見つけていく。
二人だけの物語を紡ぎながら。