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■<4>深海

 深海――20km。


 辺りの色は青ではない。闇に近かった。漂う深海生物達が円い窓の外に時折姿を現す。そこに、白い”箱”が存在することは、一部の限られた人間しか知らなかった。二十一世紀初頭に分裂した中華人民共和国の一部である北中華教国が誇る研究実験施設、終南山。それがその直方体の通称だ。


 窓にピタリと手を当て、一人の少年が窓硝子を見ていた。そこに映っている彼は、金糸の髪に青い瞳をしている。しかし顔立ち自体は亜細亜人のそれだった。彼は、今日、十三歳になる。しかしその事を、本人ですら知らなかった。誰も彼の誕生日を知らなかったのだ。


 灰色のハイネックの服、黒い細身のボトムス。その上に白衣を纏った少年は、長めの金髪を後ろで一つに縛っている。一見すれば中世的な彼は、少女にも見えた。美しいかんばせとしなやかな体躯は、人目を惹く。


 だが彼に話しかける者はいない。行き交う技術者や研究員達は、彼の存在を視界に捉えると言葉を止め、そそくさと歩き去る。それが常だったから、少年が気に止めることはない。


 振り返った彼は、それから飲料水のディスペンサーの前に立った。

 ココアのHOTに触れると、紙コップが自動販売機の奥に現れる。


 取り出して両手でその温度を確かめながら、彼は目を閉じた。瞼をきつく伏せ、何事か思案するように、歳に似合わぬ小難しい表情をする。


 その時、通路の自動扉が音もなく開いた。黒服の護衛に先導されて、そこへ壮年の男が一人入ってきた。上質なスーツ、Yシャツ、ブランドもののネクタイとピン。目の下には紅いクマがあり、切れ長の目は涼しい。はっきりとした太い眉毛、漆黒の瞳、色黒の肌。


「やぁ、凛」


 男は立ち止まると、自動販売機の前にいる少年に声をかけた。静かに目を開いた少年は、青い瞳を男に向ける。この施設に置いて、彼に声をかけるのは、この男だけだった。


「今回の二つの論文も完璧だった。さすがだ」


 歩み寄った男は、首元からIDカードを下げている。そこには、宋潤苑と記載されていた。この終南山の最高責任者にして、若くして北中華軍の大佐の地位にある。


「これが次の議題だ。期待している」


 宋大佐が茶封筒を、少年に渡した。凛と呼ばれた少年は、紙コップを側に置き、両手でそれを受け取る。辞書ほども厚い封筒だった。これはいつもの事だ。だから今度も与えられた作業を全うしようと少年は考えていた。宋は微笑したまま正面を見る。そのまま歩き去るかに見えた男は、しかし立ち止まったまま、鞄に手を入れた。


「凛、これを」


 その声に少年が顔を上げた。小首を傾げた彼に、宋が包装された小箱を手渡す。ピンク色の包装紙に、赤いリボンがついていた。


「誕生日おめでとう」


 そう言うと、宋は凛の頭に手を置いた。目を見開き息を飲んだ凛は、封筒を側に置き、おずおずと受け取った小箱を両手に乗せる。大切そうに、愛おしそうに、それを見ていた。


「君は俺の誇りだよ」


 腰を折り、凛の耳元に唇を寄せて、宋はそう囁いた。照れくさそうに俯いた凛の白磁の頬が朱に染まる。あるいは父親とは、このような感じなのだろうか、凛はそんなことを考えていた。それから歩き始めた宋は、部下達と言葉を交わしながら奥の区画へと向かっていった。首だけで振り返り、凛はそれを見ていた。


 宋達の姿が見えなくなった後、凛は自動販売機前の黒い長椅子に座った。左右には背の高い緑色の観葉植物がある。ココアを一口飲んでから、紙コップを正面のテーブルに置いた。それから膝を組んで、封筒を見つめる。そして彼は、ゆっくりと中身を取り出した。

封筒の中には、三つの論文が入っていた。


『低温核融合についての覚書』『反重力物質についての概略』『露西亜合衆国で発見された未確認生命体の報告書』――タイトルだけを確認してから、凛は同封されている資料とおぼしきメモリスティックを取り出した。それぞれラベルがあり、各研究のデータだと分かる。読むでもなく封筒にそれをしまい、膝の上にのせてから、紙コップへと手を伸ばす。ココアは、とても甘い。この研究施設に置いて、他にこのように甘いものはどこにも無かった。ココアを飲む時、凛は心が穏やかな気持ちになる気がしていた。


 飲み干して一息ついてから、凛は紙コップをダストボックスに入れた。茶封筒を手に、己の研究室へと向かう。凛には、西の一区画が与えられていた。そこには様々な実験機器や医学的な装置がある。研究室の隣は学習室だ。研究や実験をしていない時は、学習室に置いて知識を吸収するために勉強をしたり、楽器を演奏したり、護身術を学ぶことが課せられていた。ここへ来た時からそれは自然なことだったため、凛は従っている。


 ただし、勉強時も研究時も、この区画にいるのは凛一人だ。凛は時折宋大佐と話しをする以外は、いつも一人だった。それも、自然なことだった。


 研究室へと入り、雑務机の上に茶封筒を置く。それから、正面のパネルに光を入れた。


 映し出されたのは、二つの論文だ。先ほど宋に完璧だと褒められた、前回までの研究成果。『遠距離間における瞬間移動術』と『遠距離間における念話術』の二つだ。所謂超能力の研究である。テレポートとテレパシー、そんな風に宋は呼んでいた。


 ひとたび外に出てこの研究を誰かに話したならば、そんなことは常識的にあり得ないと一笑されたのかも知れないが、ここにはそう言って笑う人間は一人もいない。超能力が虚偽であると凛に教える人間も誰もいない。仮に存在したとしても、実験から理論を打ち立て証明している凛に反論できる人間は少ないだろう。紛れもなくこの少年は、超能力研究の最前線に立っていた。本人はそうとは知らなかったし、自覚なく研究させられているに等しかったし、他にも様々な研究をしているのだったが。


 ――研究をすること。


 それは少年にとって唯一の、ここに存在して良い理由だった。


 彼には、他にすべき事は何もなかった。研究が無くなれば、どこに行ったらいいのか、彼には分からなかった。気づいた時にはここにいて、おそらく今後もここにいるのだろう。漠然とそう考えていた。失敗が許されないことも分かっている。何人もの研究者達が、失敗しこの施設から強制的に連れて行かれた。末路は知らなかったが、生きているのかも怪しい。ただ、凛にとって、別に死ぬことは良かった。それよりも余程怖ろしいのは、現在唯一話しをしてくれる宋でさえもが、己に言葉をかけてくれなくなることだった。


 これ以上、孤独を味わいたくはなかった。


 デスクの前に座り、指を組む。肘を突いて、持ち上げた指に額を押しつけた。溜息が自然と漏れる。――扉が開いたのはその時のことだった。驚いて凛は目を開け、顔を向けた。


「お掃除の時間でーす」


 入ってきたのは、清掃員の制服姿の青年だった。初めて見る顔だった。そして、これまでにこのようにして部外者が研究室に入ってきたことはなかった。


「ゴミはありますか?」

「あ……こ、これ……」


 凛は思案した後、おずおずと机の側のゴミ箱を差し出した。いつもは自分でダストボックスまで捨てに行くのだが、わざわざ取りに来てくれたのだからと、渡してみることにした。笑顔で清掃員は、ゴミ箱を受け取った。それを見据え、新人なのだろうと凛は考える。経験が豊富になるに連れ、スタッフ達は、この部屋を避ける。理由は分からないが、それが常だった。何も知らないから、ここへ来たのだろうと判断する。


「有難うございましたー」


 清掃員はゴミ箱を凛に渡すと、笑顔のまま出て行った。受け取ったゴミ箱を一瞥してから、床に置く。緊張していた。宋以外の人間と話すのは、久方ぶりだった。


 それから気分を切り替えて、凛は実験を始めた。





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