目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

■<5>ココア


 研究に打ち込み、気がつけば午前0時45分になっていた。お腹がすいたなと思い、凛は立ち上がった。ココアが飲みたい。固形物を本日は食べていないが、ココアで十分だと少年は思っていた。


 先ほど宋と会った自動販売機前、共通エリアの端まで行く。大抵この時間は、人気がない。


 それを知っていた凛は、ぼんやりと進み、そして立ち止まった。

 黒い長椅子に座る白衣の青年が見えたからだ。驚いて視線を向けると目が合い、ニヤリと笑われた。


「夜更かしは体に悪いぞ」


 青年はそんなことを言った。今日はよく話しかけられる。そんな風に思ったが、それ以上に緊張して、凛は汗が浮かんできた気がした。小銭を握る手を握りしめながら、それでも前へと進む。


「お前、名前は?」


 自動販売機に小銭を入れようとすると、何気なくそう聞かれた。慌てて視線を向け、指ではココアを押しながら、凛は答えた。


「俺は、その……」

「白衣って事は、被験者じゃなくて研究者なんだろ?」

「……うん。俺は、科学者だよ。白野凛って言うんだ」

「へぇ。俺はギルベルト。日付がかわる前、まぁようするに昨日付で配属された研究者だ。お前の同僚って事だな。よろしく、先輩」

「よ、よろしく」

「声が小さい。もっとはっきり喋れ。それともお前、言葉が分からないのか? 北中華語は分かるか? まぁ見た目からして、北中華人じゃねぇな」

「わ、分かるよ……俺は日本人だけど」

「日本人? そちらにも見えないな。両親も研究者か?」

「うん。ここにはいないけど」

「どこにいるんだ?」

「……母さんは死んじゃった」

「父親は?」

「……俺と母さんを捨てたんだって」


 呟くように答えた凛は、それからカップを握りしめた。不思議だった。初対面の相手が自分に話しかけてくることがまず不思議だったのだが、それ以上に不意にそんな言葉が口をついて出てきたことが不可解だった。白衣の青年は黒い髪に、緑がかった瞳をしている。その瞳に見据えられると、何故なのか”想い”が溢れかえってくる。勝手に口が動くのだ。


「『だって』? 要するにそれは、誰かに聞いたのか?」

「母さんがそう言ってたから」

「母親の名前は?」

「アンナ=ラシード」

「へぇ。父親の名前は?」

「白野拓人」

「いつからここにいるんだ?」

「わからない」

「宋潤苑とはどういう関係だ?」

「わからない」


 そう答えた凛は、それから目を細めた。相手をじっと見る。これは、おかしい。少年の脳裏で、警告音が響き渡った。こんな風に無意識に言葉が出てくることなどこれまでにはなかった。気づけば、一歩二歩と後退っていた。壁に背がぶつかる。ココアを取り落としそうになった。


「精神感応者……」


 凛が呟くと、青年が驚いたように目を見開いた。それから凛をまじまじと見た後、彼は楽しそうに笑った。


「ふぅん。よく分かったな」


 否定しなかった青年は、立ち上がると凛に歩み寄った。嫌な汗が浮かんでくるのを少年は実感した。綺麗な金髪がこめかみに張り付く。超能力者は、実験対象だ。凛はそう聞かされていた。硝子の向こうの実験室に招聘された能力者は、何人も見てきたし、実験だって行ったことがある。凛は左右に視線を走らせた。なぜならば、超能力者は、白衣を着てこのような場所にいるべき存在ではないと知っていたからだ。逃げなければならないと本能的に思った。しかし走り出そうとした直前に、青年が凛の顔の左右に腕をついた。挟まれる形となり、恐怖も手伝い身動きが取れなくなる。


「こっち、見ろよ」


 視線を合わせては行けないと思った。恐らくは、視線の動きで、こちらの思考や動作を催眠暗示をかけるように操るのだろうと推測したからだ。しかし腰を折り覗き込んできた青年は、片手を持ち上げると、凛の顎に触れた。そして強制的に、凛に正面を向かせた。戦慄しながらも、凛は青年の瞳を正面から見ることになる。


「安心しろ。お前に危害を加えるつもりはない、白野博士」


 ギルベルトの強い眼光を受け止めていると、頭痛がしてきた。困惑して凛は、瞳を潤ませる。


「単刀直入に聞く。『遠距離間における瞬間移動術』と『遠距離間における念話術』は、お前の研究か?」


 こくこくと凛は頷いた。体が震えそうになった時、ギルベルトが不意に微笑んだ。それを見たら、全身から力が抜けた。倒れ込みそうになると、凛の腰に腕を回し、ギルベルトが受け止めた。


「凛と言ったな」

「……」


 凛は、ぼんやりとギルベルトを見上げた。相変わらず頭痛がした。それでも必死で頷いた。


「もうすぐ、この終南山は沈む。沈没するんだ」


 曖昧模糊としていた思考が、一気に晴れた。息を飲み、凛は思わずギルベルトの胸元の服を掴んだ。ここの外の記憶など凛は持ち合わせていなかったが、この施設が深海にあることは知っていた。沈没すれば、助からないことは分かっていた。


「生きたいか?」

「うん。死にたくない」

「だったら、俺と来い」

「宋さんに聞いてみないと……宋さんにも、沈没するって早く話さないと……」

「お前にとっては残酷な真実かも知れないけどな、凛。聞け。この終南山を沈没させる指示を出したのは宋大佐だ。お前を含めた研究員ごと、海に沈める計画なんだ。宋はもうここにはいない」

「え……?」

「公的にはこの施設は存在しない。そして、そのまま――このまま消される」


 目を見開いた凛を、ギルベルトが覗き込んだ。愕然としている凛は、真剣な表情のギルベルトをじっと見る。






この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?