凛には、ギルベルトが嘘をついているようには見えなかった。
それに……ギルベルトの話が事実だとしても何もおかしくなかった。この施設が公的に存在しないことは凛も知っていた。どころか凛は、この施設内においてすら、存在しない者のように扱われてきた。宋にとって、自分が特別でないことも、うすうす分かっていた。
「凛。お前に残された選択肢は二つだ。俺と来るか、ここに残って死ぬか」
「……」
「俺の手を取れ、凛。俺は、お前を助けに来たんだ」
「……俺を助けに?」
ギルベルトが真剣な瞳で言う。凛は呆然とそれを見ていた。
「北中華が、”天才”を囲っている事は推測されていたんだ。それがお前だと、俺達は特定した。それを宋達は悟った。あいつらは、お前の存在が明らかになることを恐れている。だから沈める計画だったんだ。だか、そうはさせない。幸い内部に俺達がいることまでは、宋も掴んでいない。沈むのは二時間後だ。今のうちに、俺達は外へと出る。小型の潜水艦を用意してある」
「天才……? 俺は、そんなんじゃないよ……だから、連れて行ってもらえないの?」
凛が不安げにギルベルトを見た。すると微笑したギルベルトが、額を凛の額に当てる。
「安心しろ。お前で間違いないから」
「でも……」
「言い方が悪かったのかもな。別にお前が天才じゃなくても良いんだ。さっきの二つの論文の執筆者ならな。あれを書いたのはお前なんだよな?」
「うん」
「じゃ、何も問題はない。俺と来るんだよな?」
「……この施設の人たちはどうなるの?」
「お前が気にする事じゃない。今は自分のことを考えろ。ま、みんなと一緒に死ぬというのなら止めねぇけどな。いいか、凛。もうお前に出来ることは何もないんだ」
ギルベルトはそう言うと凛の瞳をじっと見据えた。瞬間、凛は目眩を覚えた。思わず目を伏せる。さらに体から力が抜けた。
「ギルベルトさん、急いで!」
そこへ声がかかった。凛が虚ろな視線を向けると、そこには先ほど部屋へとやってきた清掃員の青年が立っていた。
「急ぐのはお前だろ?」
楽しげに笑ったギルベルトに、呆れたような顔で清掃員の青年が歩み寄ってくる。彼は制服の帽子を黒い長椅子に投げ、それから初めて凛に気づいた。
「ああ、やっぱりその子だったの?」
「おぅ。間違いないと思うぞ。よし、行くか」
「そうだね。そろそろ限界距離だろうし。えっと、その子、名前は?」
「凛だ。白野凛」
「そうなんだ。よろしくね、凛くん。俺は、八巻享。享って呼んでね」
享はそう口にし朗らかに笑うと、ギルベルトの腕と凛の腕をそれぞれつかんだ。目を伏せた享をぼんやりと凛は見ていた。
世界がその時歪んだ。思わず目を閉じた凛は、酩酊感を覚えた。倒れる。そう自覚した時、感覚が無くなった足の裏に、不意に新しい感触を覚えた。瞼の向こうの光の加減がかわっていた。おそるおそる目を開く。するとそこは、薄暗い部屋だった。全体的に湿っぽくて、露骨な鉄パイプが壁を走っている。
見知らぬ場所に立っている。それを自覚した時、世界が揺れた。転びそうになった凛を受け止めて、そのままギルベルトが近場のソファに座った。見れば、テーブルを挟んだ向こう側に享が座っている。
「え……?」
「ん、あー、テレポートだよ、テレポート」
「テレポート……」
享の言葉を反芻した凛は、目を見開いた。そんな凛を隣に座らせて、ギルベルトが膝を組む。
「お前がこの理論を整理したんだろ」
それは、その通りだった。だが、経験したことはなかった。凛は思わず両腕で体を抱く。
「もう安全だ」
ギルベルトはそう口にすると、凛の頭をポンポンと叩いた。そんなことをされたのは初めてで、凛は動揺した。二人の正面で、享はお菓子の封を切る。
「だけど大天才がこんなに若いとはねぇ」
棒状のポテトスナックを手に取り、享が笑った。明太バター味と書いてある。
「驚くなよ、享」
「何、ギルベルトさん、もったいぶって」
「本人いわく、ラシード氏の曾孫らしい」
「え」
ギルベルトの声に、享がぎょっとした顔をした。それからまじまじと凛を見る。スナックを噛む音だけが周囲に響いた。事態が飲み込めないままで、凛はギルベルトと享を交互に見る。不安になって、気づけば無意識にギルベルトの腕の袖を握っていた。
「それが事実なら、まぁ天才でも納得できるよね」
「だろ?」
凛の手に気づいたギルベルトが、微苦笑して腕を少年の首に回した。そして抱き寄せる。
その温もりに凛は目を伏せた。すると、睡魔が襲ってきた。無性に眠い。
「おぅ、眠そうだな。少し休め」
気づいたギルベルトの言葉に頷き、凛はそのまま微睡んだのだった。
――そして、凛は悪夢を見た。何度も何度も苛まれてきた悪夢を。
それは、四歳だった時の夢だ。
凛立ちは誘拐された。
暗い地下室、赤い照明、黒がこびりついたバスタブ。
双子の兄弟ばかりを狙っていたシリアル・キラーは、その地下室にそれまでの被害者を乱雑に陳列していた。前回の兄弟を殺した時に使ったナイフを、彼は無造作に床へと置いていた。正確には、それは凛のすぐ側に落ちていた。幼い凛達は拘束されて座らせられていたけれど、僅かに足を開くくらいは可能だった。要するに、凛はそのナイフに触れることが出来たのだ。
「殺してやる……!」
梓が叫んだ。
「やれる物なら、やってみることだね」
馬鹿にするように笑った犯罪者を、梓がにらみつけた。
凛は最初から最後まで、その隣で黙っていた。ただ、一度だけじっと彼を見た。
彼は凛と目が合うと、一瞬だけ訝しがるような顔をした。
しかし凛が見続けると、すぐに恍惚とした表情へと変わり、歩み寄ってきた。
「止めろ、凛に触るな!」
梓の叫び声を彼が気に留めた様子はなかった。凛は、左足に触れているナイフの感触を意識しながら、左手を緩く握った。手首は拘束されていたが、掌は自由に動いた。
彼がナイフを振り上げる。
「止めろ――!!」
梓が叫んだ。凛は左手を握りしめた。
犯罪者は硬直し、吐血した。凛の顔に、ビチャビチャと血がかかった。そのまま犯罪者は崩れ落ちた。
「え?」
状況が飲み込めない様子で、梓が狼狽えたような声を上げた。凛はきつく目を閉じた。それから意識して、ナイフを蹴り飛ばした。もう凛に触れる物は、何もない。
「俺、俺、殺し……?」
「梓は悪くないよ」
凛は嘘はついていない。
誰もが、梓が超能力で男の心臓を破壊したと考えた。けれど。
握りつぶしたのは、凛だ。
凛は、物体をじっと視ると、可能であれば触れられればほぼ確実に、そこに宿る記憶を映像として読み取ることが出来る。感情すらも流れ込んでくる。そして、もしそこに技術や知識があれば、凛はそれを再現することが出来る。一度覚えたことを凛は忘れない。そう言う能力も、凛は『取得』したからだ。
この日、凛は、殺人を犯す冷徹さを、ナイフから学んだ。凛には、その時から、人を殺めることに対する恐怖はなくなり、逆に喜ぶ側の人間の気持ちを少しだけ知った。理解したわけではないし共感もしなかったが。そして凛は、以前から梓に触れて、梓の能力は『模倣所持』していた。だが、凛は別の能力で犯人を葬った。凛は掌に、犯人の心臓をイメージした。それを握りつぶすことで、破裂させた。専門の取調官が視れば、すぐに梓の犯行でないことが分かる。実際梓の容疑はすぐに晴れた。だが周囲にそれは十分には広まらなかった。梓がやったのだと、皆は信じ続けた。
目が覚め――凛が、小さな呻き声を出した。
「……う……ッ……」
室内の一同の視線が集まる。その視線の先で、黒いソファの上に横にさせられていた少年が動いた。かけられていたシーツを握りしめている。それから彼は、生理的な涙をこぼしながら、目を開けた。潤んだ青い瞳に誰とも泣く吸い寄せられる。
「……あ……」
目を覚ました凛は、緩慢に二度瞬きをした後、周囲を見渡した。
ここは、どこだろう。咄嗟にそれが分からなくて、首を傾げる。
「気分はどうだ?」
正面にある窓際の執務机に座っていたギルベルトが、声をかけた。その声を聞きながら、上半身を起こした凛は、テーブルを挟んで向かいの席に享とギルベルトの姿があるのを見て取った。
「……いつも通り……」
小さな声でそう答える。するとギルベルトが片手で頬杖を着いた。享が手近のポットから、冷えたお茶を注いで凛に渡す。受け取った凛は、静かに口を付けた。美味しかった。
「凛だったな?」
ギルベルトが尋ねると、凛は視線を向けて小さく頷いた。
「もう何も心配はいらない。今日からは、お前のことは俺達が守る」
その声を聞いた時、頭の中で、『悪魔』の声がした。
――昔から聞こえる、悪夢の中の登場人物である『弟』の声を、凛は『悪魔』だと考えていた。今、悪魔は、結城梓という名前をしているらしい。
『――こんな所に行ってみたいなんて、凛はどうかしてるよな』
ひと呼吸おき、凛は、頭の中で『悪魔』に、返事をした。
『梓は悪くないよ』
『有難う、凛』
そんな凛の様子を、まじまじとギルベルトは見ていた。
***
――これは、ギルベルトが世界貴族に認定される二ヶ月ほど前の事だった。