――茨木が、ギルベルトの最初の使用人になった時、ギルベルトは言った。
「特別お前は何もしなくて良い。何か質問はあるか?」
その声に、迷わずに、茨木は聞いた。
「嘗て、遺伝子操作技術を有するような、超古代文明は存在しましたか?」
「――その質問は、予想外だったな」
ギルベルトはそう言うと、微笑んだものである。
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――フォンスが発見された頃から、非能力者の武器として、機械知性(人工知能)が、崇拝されるようになっていった。中でも、最高の存在である『マリア』は、長らくの間、科学文明の中では特別視されることとなったのである。
さて、この『マリア』を有しているセグメント――ラシード氏の影響下にあったアラブ諸国において、それは即ち神に成り代わろうとしていた。
なお、前提として、マリアが作り出されたのは、『最高の知性』を生み出すためで、元々は人類の繁栄を加速させることだった。同時に『マリア』に期待されていたのは、未来予知さながらの『将来予測』と、各種情報からの『客観的判断』または『客観的な結論の導出』である。この未来の予測に限っては、フォンス能力でも困難であるから、多くの人々が着目した。
所で――『最高の知性』と記したが、本音を言えば、マリアに『人権』や『思想の変革』、『創造性』を望んでいた層は、それほど多くなかった。
端緒に立ち返った時、まず『いかにしてマリアは最高の頭脳を持ちえたのか』という問いが度々論じられる。古来から、知能指数が高い人間は大勢せいた。しかしそんな『彼ら』を、マリアは越えたのだ。彼らを越えたと断言してしまうのは言い過ぎかも知れないが、少なくとも多くの一般的な人間の知性を越えたというのは、間違いないだろう。
それは取得している情報量やその検索速度、組み合わせて提示する類推の適切さのみが評価されたわけではない。マリアは、人間ではなかった。そのため、人間とは異なり、『心的衝撃制御因子』を最初から持ち合わせていた。
『心的衝撃制御因子』自体が、見つかって新しい因子だった。これは特定の遺伝子が発現させる、人間が多かれ少なかれ『絶対に持っている特定因子』だった。『正情動-沈静指数』と評価されることも多い。
人間は、感情を持つ生き物で、何かあれば悲しんで泣いたり、喜んで笑ったりする。これは、創造性を高めることも多く、柔軟な発想を生み、科学の貢献に無くてはならないものである。それらを『心的衝撃』や『正情動』と言う。
しかし、『何があっても動じない人』の存在を例にすればわかりやすいかも知れないが、物事が発生した時の心的対応として、ずっと感動しっぱなしだったり、泣きっぱなしだったりするというのは、良いことではないらしいのだ。
そのため、『きちんと感情を持っていて、心から感動したり共感することが可能だが、それとは別軸で過度の動揺を維持しない、ストレス対処能力が高い人間のように適切に抱いた感情を処理できる、良くも悪くも様々な衝撃を、制御できる』という点が注目されるようになった。『精神的健康を維持できる点』が、いわゆる『天才的な知性』を得るために必須の事柄だと言うことが発見されたのだ。
機械であるマリアには、最初から心的衝撃制御が可能だった。悲惨な状況に悲しいという感情を抱くプログラムであっても、その際に同情するという事を行えても、もっと根本的な部分で、マリアはすぐに精神的健康を取り戻すことが出来るからである。
この事実が解明され、『心的打撃制御因子』の遺伝子が特定された段階で、俗に言う天才児研究は非常に伸びた。なぜならば、昔は、遺伝子研究は、遺伝により劣った子供が踏まれたという差別を生むとして倫理的に規制されることもあったのだが、この時は、一人でも多くの天才を手にすることが求められたため、天才遺伝子、高知脳を持つ人間の遺伝子研究は積極的に行われた。――無論、フォンス能力者に対抗するためだ。
だがこの時、いくら遺伝的に高知脳であっても結果を残すことが出来ない天才児が多く生み出された。何故知能が高いにもかかわらず、彼らは天才ではないのか。その答えが、今回マリアの存在を理由に、発見されたのである。『高知能水準発現因子』は見つかっていた。それを持つ遺伝子も分かっていた。
結果として、『心的打撃制御因子』と『高知能水準発現因子』を遺伝的に持つ子供が、人為的に生み出されることになった。その結果、非常に重大なことが明らかになった。この二つの遺伝子を持つ子供は、重大な致死性遺伝子を発現するのだ。既に生命を受けていて、あるいは新しく生み出されて生きている天才児で、二つの遺伝子を持ち合わせているのは、その『致死性遺伝子』に『重篤な欠陥』がある場合のみだった。これは、どういう事なのか。人間が本能として、天才の出現を拒んでいる? 勿論そんな馬鹿げた話はないだろう。そこでマリアに対する問いかけが行われた。マリアは答えた。
――最高の知性(頭脳・精神制御の二因子を有する者)が、『自然受精で生まれない』状況下である。これは、『嘗て存在した最高の知性の持ち主』が、『今後、最高の知性の持ち主を生み出さないために遺伝子操作で制限をかけた可能性が高い』と考えられる。
さらにマリアは付け加えた。
――『最初』の時点に置いて、人類は全員が二因子を獲得していた可能性がある。だが、『何らかの理由』により、『優れた知性を持たない人間』が必要であることを考え、『遺伝子操作により現在の水準まで知的水準を引き下げ、それが維持するようにした』と推測することが可能である。
――率直に言うなれば、『一定の知能しか持たない労働力』を確保したのではないか。
マリアの見解は、少なくともこのようなものだった。
それを信じて整理するとすれば、こうなる。
つまり私達現世人類は、単純に労働力を期待された知能ある奴隷だったと言うことである。奴隷として私達を管理していたのが、二因子を持つ、『天才』だった。そういう事だ。生まれながらにして私達は、遺伝子操作をされて生み出され、代々その遺伝子を継承して、個々まで生活を築いてきたと言うことである。
勿論私達を奴隷(労働力/その他、保護していたでもなんでも良いが今の人間)になるように、遺伝子操作を加えた存在が何であるのかは、分からない。便宜的に『天才』としたが、それが『神』であろうが、『宇宙人』だろうが『機械』であろうが『超能力者』であろうが、問題はない。それが何者なのかを知る術はないからだ。しかし遺伝学的に、ここでみつかった致死遺伝子が自然発生的なものである確率はほぼ0%なのだという。
この結果から、導出されたことをまとめる。
二因子の内の一方の遺伝子を継承している人間は、全世界の存在している。そしてこれまでの世界で、天才的な知能を期待されていた人間は『高知能水準発現因子』を有する『知能指数が高い人間』だった。その数も決して多いとは言えないが、幸いなことに、もう一方の因子の持ち主も相応数存在していた。致死性遺伝子の排除が可能になれば、俗に言う天才を人為的に生み出すことは可能になる。
さて、人間に遺伝子操作を行ったとされる存在は、明らかになってはいない。しかし現存する最古のDNAをはじめ、かなり古い時代にさかのぼって鑑定を行った結果、既にこの三つの遺伝子の存在は確認された。勿論、遺伝子操作技術がなかったとされる時代の人々の遺伝子が、研究対象になった。生得的に持ち合わせていた可能性も0ではないが、少なくとも操作した『存在』がいたとしても、既に現代には存在していない。
同時に個々で、『寿命』についての疑問もあがった。仮に知能指数などを操作された過去があるとするならば、『老化』と『寿命』に関して操作された可能性はないのか。マリアは当然、その可能性もあると断言した。だとすれば人間は、遺伝子操作で、老いる速度や身体的寿命を規定されている可能性があるのだ。ならばそちらも、特定の遺伝子を見つければ、止めることが可能になる。
理想を描くのであれば、最高の知性を持った不老不死の人間を生み出すことが可能になる。F型表現者のS群でなくとも、『全ての人間』において、可能となるのだ。そこで一つの疑問が生まれた。
何故遺伝子操作が行われたのか。これは再度の問いでもあるが、最初の問いで得られた『一定の知能水準を誇る労働力を欲した』という回答を求めてのものではなかった。『遺伝子操作技術がある以上、機械などの代替労働力の製造も容易であると考えられるのに、何故大多数の人間の能力を奪う必要があったのか。仮に天才が当時より少数だったとしても、多くの人間の能力を底上げし、最高の知性を持つ不老不死の人間で世界を平等に満たす事がなかったのは何故なのか』という問いが生まれたのだ。
不老不死に関しては、自然の摂理、様々な動物がいる以上、一定の寿命があることは間違いない。だが、ここで言いたいのは、『意図的に寿命が縮められている可能性』だ。マリアは答えた。
――その時代の価値観による。まず現在と同等の人権や平等に対する価値観があったかが分からない。あえて、全く違っていたと仮定し、その上で、データベース上に残る人間の傾向のいくつかから抽出して推論を述べる。
――ごく一部の限られた者のみが、天才であることが推奨された世界。あるいは刑罰などとして、天才である権利を剥奪された場合。天才であることを認められない相手集団への操作。そういった例の場合、特権階級や勝利者集団以外の、被差別集団の知性水準を上げる必要はなかった。同時に、『何の疑問も持たずに与えられた事柄を受け入れて扱う』事を求められた場合、最高の知性は弊害となる。
――人間は現在、機械を労働力だという。だが、遺伝子操作を行った存在が、人間に対する機械のように、『その存在』から見た『労働力』と考えていた場合もある。人間が不必要に機械に人工知能を搭載しないように、多くの労働者である人間には、最高水準の知性を搭載することを必要としなかった。
――仮に被差別集団の例を挙げるならば、寿命を保証する価値を認めなかったかもしれない。特権階級以外の長命を認めなかった可能性もある。労働量という観点でも、新規のものを投入することのメリットに着眼した可能性がある。
と、まぁこのような談話がなされたようだ。
マリアの言葉が正しければ、人間は労働力として知性と寿命を制限され、作り出された存在だと言うことになる。あるいは一つの仮説として、と、マリアはもう一つの見解を述べた。『天才のみの社会は、果たして人類文明を維持できたのだろうか』と。例えば敵対陣営に一人ずつ天才がいたとして、そのどちらもが確実に相手陣営を抹殺する手段を手に入れて、仮に使ったらどうなるか。きっと滅亡は免れない。これは勿論天才同士の戦いでなくとも言えることではあるが。
これらは、天才児とフォンスの研究の加速を生む。
もしも――天才概念もひとつのフォンスの側面であったならば――それは即ち、非能力者は能力者の奴隷として生み出されたという可能性すら孕んでいた。卵が先か鶏が先か……どちらが先に大地を踏んだのかも論じられる事になる。