目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

episode18 「亡霊が下していい独断なんてねぇ」

 山を下りる頃には、夕闇は完全に夜の暗さに変わっていた。

 冷ややかな宵は山道を厚ぼったい海の底のように感じさせ、闇を閉じ込めていた。

 路がなければ、下山にはもっと時間を使っただろう。往路では獣の形跡も見られたことから、安全に下りることが出来ていたかも怪しい。

湿地帯へ戻ってきたが、魔獣は未だ姿を現していない様子だった。昨夜の地点まで戻るべきなのだろうか。

 水たまりに注意しながら、滴るばかりの濃い緑をかき分ける。密生している葦を進むのは、さながら密林のよう。月夜もないため、遠くに見えるランタンの薄明を目指して進む。木道は魔獣が佇む地点までしか設置されていないため、それまでは野草の中を行かなければならなかった。

 昨夜のように、風が冷たく吹きつける。ただ濡れていないためか、昨日よりは楽に感じた。

 日中歩き回ったときよりも、野草たちが背を伸ばしている。のきなみその背丈は私の胸元ほどになっており、進みづらい。それが魔獣の力によるものなのかは分からないが、ともかく葉の海を泳いでいるみたいだ。水だまりを避けていくうちに、直線で木道へ向かっているのかあやしくなりつつあり、湿原を何かが駆けていく音もする。恐らくはここに生息している動物で、匂いで私の接近を察して避けていく音だろう。もし好戦的な獣にでも遭遇したなら、要らぬ命のやり取りをしなくてはならなくなる。

 魔獣との会合を前に、それは避けたい。

 そうして湿原を進んで行くと、やがてランタンのうつろに輝く光が見えてきた。待っていたものが予定通り来てくれたような、そんな安心感。

 見えた明かり目掛けて歩を進めると、ようやく置きランタンのもとにたどり着いた。

 だが同時に出迎える、二人の兵士。昨夜私に水を浴びせた者、そして、あの金髪の彼だった。

 恐らく獣だと思われたのだろう、二人とも携えた武器を抜いている。


「なんだあんたか、ウサギか何かかと思ったぜ」


 金髪の彼がほっとしたように太い息を漏らす。

 紛らわしいな、舌を打ちながらもう一人が焦立ち熱したように低い早口で呟く。


「お疲れ様です」


 言いながら、木道へ上がる。


「おう。それで、何か成果はあったか」


 鞘に剣を納めながら、金髪の彼が私に問うた。


「はい。山奥に陵墓と、それを護るように鹿の魔獣を発見致しました」

「見つけたのか、やるな。それで?」

「敵意を感じられなかったこと、そして発見した時点で陽が落ち始めていたこと。以上から討伐せずに」


 その場を後にしたこと。

 そう報告する前に、私の首元に剣による一撃が叩き込まれた。幸い剣身は鞘に納められていたが、喉に揮われた体罰だったため、一瞬呼吸が止まる。

 息苦しく、思わず眉を顰めずにはいられなかった。

 ただ、それが気に食わなかったのか、さらに鼻先に蹴りの追撃が加えられる。

 痛みはない。ただ、声を立てまいとしても押さえ切れない声が咽び出てしまう。咳が咽頭を畳み掛ける。


「てめぇの独断で魔獣を見逃したのか、糞め!」


 金属をすり合わせるような声で怒鳴る。

 申し訳ありません、そう言おうとしたが、荒い呼吸が邪魔をして上手く声が出せない。

 たしかにそれは、私の独断である。叱責があって然るべきだろう。


「いいか、亡霊が下していい独断なんてねぇ。魔獣の捜索なんだから見つけたら即刻討伐するべきだろうが」


 言いながら、拳を振り上げる。

 その頃には動悸のような息遣いも落ち着いて、私はその一撃が振り下ろされることに身構えた。

 しかし、そこに割って入ったのは金髪の兵士である。


「まあまあ、落ち着けって」


 振り上げられた拳を掴みながら、猛る馬を宥めるように恐る恐る言う。

 私はというと、巨躯の彼にも同じような対応をしてもらった経験はあったが、今回は兵士ということもあり奇妙な困惑を感じていた。兵士が白髪である私を庇うのか、と。

 たしかに昨夜も他の兵士とは違う対応を感じたが、明らかに彼は白髪に別の感情を抱いている。それが演技なのかは、分からないが。


「止めるなゲット。こいつはオレら民族の問題だ」


 彼に対してはただ興奮したような声色であった。

 ゲット、と兵士は金髪の彼のことを呼んだ。自分たち民族、という言い回しから、やはり金髪の彼は移民であるらしい。そして、その移民に対して彼は寛容の心持ちのようだ。

 ただただ、その攻撃性は白髪に対してだけ向けられる。

 そして、そんなときにそれは当然現れた。


「お二方、お気を付けを!」


 いつから、そこにいたのか。

 初めからそこにいたかのような唐突さ。

 当惑が心の中に湧き上がる。

 兵士よりも少し大きい背丈を誇るフクロウだった。

 灰色の羽毛に、人の頭ほどあろうかという巨大な目玉。血も凍るような気味悪さで、夢にでも出てきそうな姿をしている。

 フクロウは羽音がしない鳥だ。隠密的な現象は、恐らくその特徴が要因の一つだろう。

 ただ理屈では分かっていても、体のほうは反応しないというのが人間だ。

 突然忠告された二人、そして声を掛けた私。どちらとも、即座に行動に起こすことが出来ない。それくらい、そのフクロウの出現は突然だった。

 その間に、フクロウは嘴を大きく開く。丸呑みにする生態を持つ魔獣。開かれた口はひと一人を入れるには十分なサイズで、その様もまた不気味この上ない。

 危機が重苦しい空気のように立ち込める。


「なんだ、こいつは!」


 兵士が事態をようやく飲み込んで、叫ぶ。

 その声を切っ掛けに、足が動いた。強く足を踏み込むと同時、得物の柄を握りしめて揮う。振り下ろすと同時、彼もまた、兵士の声を引き金に攻撃を仕掛けていたのがみて取れた。

 揮われる大剣と鉄腕は、だがしかし。

 フクロウの魔獣が突如、雲散霧消してしまったことで空を切る。まるで、そこには何もいなかったが如く。

 心を掻きむしられるような焦燥感。

 すぐに周囲をぐるりと見渡す。

 これは幻で、本当は別の場所から奇襲を狙っていることを予感させた。そんな不可思議が、魔獣にはまかり通る。

 しかしそんな焦りとは裏腹に、フクロウの魔獣の姿はどこにも見当たらない。まさか完全に姿を消すことが出来るというなら、それはもう対処のしようがない。

 水中で空足を踏むような焦り。

 だがいくら警戒しても、奇襲はやって来ない。

 その中で、その声はあった。


「ふむ」という、あの考えあぐねる声。

 山と形容しても間違えではない、カタツムリの魔獣の出現を知らせる音の礫が、耳に蝟集する。


「其方ら」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?