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episode20 「だから余は愚かだったのだろうな」

 蜜をとかしたような湿原の風が、私の頬を撫でて後方へ流れていく。

 脳内が錯綜する。

 断罪?

 かつて人だった?

 意味が分からない。

 理解出来ない言葉が氾濫して、何一つ把握出来ない状態だった。一瞬だけ、目眩がする。脳に容量があるなら、そろそろ破裂する頃合いではないだろうか。


「どういう、意味ですか」


 少しでも脳の負担を減らそうと、排熱するように何とか口を開く。


「余には人の記憶があるゆえ。名は覚えておらぬが、あまりに愚かな人間であった」


 聞いたことがない。

 人が魔獣になった話など。

 否、私が聞いたことがないだけで、古今東西のどこかではあり得ている事柄なのだろうか。もしそうならば、私はあまりにも魔的な現象について知らないことがありすぎる。


「は? 人が? 魔獣に? おいおい、何の冗談だそりゃ?」


 隣で、金髪の彼が突然迷宮に放り込まれたように混乱していた。

 何だか、申し訳ない気になってくる。兵士である以上は駆けつけなければいけなかっただろうが、これは恐らく私が巻き込んでしまった事象だろうに。

 ただ、だから何だと言うのか。

 もし元が人間だとして、この魔獣は既に兵士を三人も葬っている。危険がないから放置、というわけにはいかないだろう。

 すぐに対処しなければならないわけではないが、国の脅威にはならない、ということではない。

 断罪、とは言うが私に何を魔獣の何を裁けと言うのか。

 人を殺したから、という理由ならばそれは脅威の排除でしかない。完全に無抵抗ならば、そもそも兵士に攻撃などしないだろう。

 難しいことを言う。

 何ゆえかは分からないが、私に斃してほしいということなのだろうか。

 ただ殺せと言われても、殺せるかと言えば別である。

 兵団は既に攻撃を試みたのだろうか、少なくとも私の攻撃はすぐさま再生されてしまった。切り落とす、ということはまだしてないが、これほどの巨体だ。相当な苦労となるだろう。


「何故、私に?」

「白髪の其方にしか赦さぬゆえ」


 この魔獣が、何故ここまで白髪を擁護するのだろう。

 もしかして、人であった頃は白い髪を持っていたのだろうか。だがそれならば、申し訳ないという言葉に理由付けが出来ない。

 仮にフリストレールの民だったと言うならば、罵倒の言葉が普通ではないか。

 それを申し訳なく思うなど、一体何者だろう。もし、哀れに思うだけの者であるならば、見て見ぬふりをしてもらったほうがいい。どうせ、何か解決するわけではないのだから。


「意図が分かりかねます。どうして白髪の者でなければならないのですか。パレス様、あなたは一体何者なのですか」


 喉元をちぎるように、噛み付いて質問した。

 魔獣の語りは断片的で、もういっそ全て単刀直入に聞いてしまったほうが楽だと思ったからだ。

 何者であろうと、魔獣はここで討伐する。

 それは変わらない。

 家族というものを知らない私には、最早やれと言われて躊躇する相手などカルムの村人くらいだろう。

 時間が澱んだ深い川めいて流れていく。

 月明かりのない風景は、夜の湿地帯の静かさを一層引き立てる。ときおり体を撫でるような風が吹くが、それすらこの静寂の瞬間の一部であるかのように通り過ぎていく。

 まるで地面の底に沈んでいくかのような、そんな感覚。

 延々に囚われたままなのかと思えた時の牢獄は、だがしかし。金髪の彼による長いため息によって破壊された。


「しゃらくせぇな、さくっと喋って楽になれって。そもそもが元人とかいうとんでもない話だろ? だったらもうこれ以上突拍子のないこと言ったって変わんねぇって」


 あまりにも、空気感を壊すその発言。

 魔獣は何か後ろめたい事情があって言いあぐねている。

 正直なところ、眼前の魔獣が元は人であったなど、まだ完全には受け入れられない。だが、魔獣にも意思があり、感情がある者もいることは知っている。

 なので、躊躇するその感情。それだけは肯定したいと思う。

 しかし金髪の彼の言い分はもっともだ。

 このまま沈黙していては何も解決しないのも事実である。


「パレス様」


 促すように、言う。


「……決断力のなさとあやつへの信頼。だから余は愚かだったのだろうな」


 ぽつりと魔獣は言った。それは私たちに問いかけたというよりも、思わず浮かんだことを口にした、という様子であった。


「余は、かつて王だった。いや、王というにはあまりに器が足りなすぎた人間であった」


 自嘲するような言の葉。

 その発言に対し、金髪の彼は「王!?」と驚愕する一方で、私は跪くべきなのかどうか疑問を浮かべた。本当にこの国の王であったのならば、臣下である私たちは頭を垂れるのが道理だろう。

 だが、相手は魔獣だ。

 その優位性は、果たして私たちに有効なのだろうか。

 ――否。そんなこと、いまは重要ではない。

 王。

 先刻の光景が思い起こされる。

 王墓と、それを護る二体の魔獣。そして二体はその陵墓に眠る者を「オウサマ」と呼んでいた。


「……まさか、山の中に立っていた陵墓は」


 決して、問おうと思って口外したわけではない。独り言に近いだろう。魔獣の「王」だったという発言を、勝手に連想しただけに過ぎない。

しかしそれは、呟きというには声が大きすぎた。


「既に見ていたか。余の墓と呼ぶには立派すぎる陵墓よ」


 肯定する。

 ならば眷属と名乗ったあの鹿の魔獣は、臣下ということか。

 たしか、名は覚えていないと言っていた。

 それが何故なのかは分からないが、だがここに、その王を特定出来る者はいない。生憎ここにいるのは、移民と学のない騎士だけだ。この国の兵士と騎士であるのにも関わらず、国史の知識がない。

 私が知っている王は二人だけだ。

 現国王、そしてあの王。


「浅はかだった。故に担ぎやすい玉座だったのだろう。余はあやつに言われるがまま戦争の敗北を白髪らに押し付けて、そして迫害を命じた」


 五百年前、突如白髪を迫害するよう命令を下した、あの王のことである。

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