名は知らない。
ただ、そんな王がいたということだけ知っていた。
私は自分を不幸な境遇だ、などとは思わない。きっと自分よりも悲惨な人生を送っている者など星の数ほどいるだろう。
孤児として外相の家に拾われたのは幸運と言える。この身を侵されなかったのも幸運だろう。身体が他の者よりも頑丈で、痛みにも鈍かったのも幸運だ。それにより、暴力にならいくらでも耐えられた。
虐げられながらも、それでもこの国で生きてきたのは、そうするしかなかったからだ。
戦闘以外で仮の話をするのはあまり効率的ではない。期待を持ってしまうためである。
だが、もし。
目の前にいる愚王が、白髪を迫害するなどという命令を出さなければ。私は外相の娘として、暴力も振るわれることなく、それなりの人生を送れたのだろうか。
そう、思ってしまう。
いや、目の前の王がそう思わせたのだ。
私の心内を、荒々しいものが疾風のように満たしていく。目眩がするほど一度に押し寄せて来る、やり場のない苛立ち。
「……つまりあなたが、これまで私が虐げられてきた原因だと?」
魔獣は答えない。
ただ、答えないことが最大の答えである。
私が地を蹴り、魔獣に向かって大きく跳躍するに至った理由は、それで十分だった。
「幾度も暴力を振るわれ見下されてきた。その理不尽の原因があなただと、そう言っているのですか!?」
名状しがたい不快感が、心を押さえつけてくる。私は自分が痛みにも似た、灼熱した金属に似たものと化していくものが分かった。まさか自分の中に、こんなに強い感情が存在しているとは。
二回の跳躍で魔獣の頭部へ飛び乗ると、大剣の柄を握った。
「弁明する気はない。担ぎ出された存在だったとはいえ、命を出したには違いないのでな」
無視する。そんなものは、鳥の囀りほどにしか聞こえなかった。
意味などない。
魔獣の頭部に剣を突き刺したところで、昨夜のように再生されてしまうことは知覚している。だがしかし、脳天に一撃でもくれてやらなければ、この溢れ出る激情は止められないと思った。
一撃する。
感情を爆発させ、しかし泣きたくても泣けないもどかしさがあった。武器を揮うことでしか、自分の意思を叩きつけることが出来ない、そんなつまらない人間なのだ。私は。
憤怒が漏れださないよう、ぐっと柄を握りしめた。
燃焼していく心を落ち着けるように、黙って荒い息を吐き出す。
脳天に大剣を突き立てたが、魔獣はまるで影響なしという風だった。特殊な方法でしか痛手を与えられないのだろうか。なんにせよ、叩き切ることしか出来ない私には相性の悪い相手だ。
つかみどころのない虚しさが胸を燻る。
「どうしたら、死ぬのですか。あなたは」
空っぽな声で切れ切れな言葉を呟く。
「……この身は魔力の宿るものしか滅ぼせぬゆえ」
心はただ白々と空虚だった。
当然、私に魔法の心得はない。
初めから、私にはどうしようもなかったということだ。
私が知る魔法使いは三人。
即刻問題を解決するならば歌うたいだろう。彼女の絶命を与える歌は、この状況をすぐさま打破出来る。だが、連れて来られるわけがない。ロラなど戦地であるこの場には以ての外だ。
風使いは戦地の経験があるが、どこを飛び回っているのやら。
結局のところ、自分で解決するしかない。
一種の絶望に近い、打撃的な痛みに打ちひしがれる。滅ぼしたいほどの相手なのに、痛手すら与えられないこの状況に。
「ゆえに、その鞘を使うがいい」
予想外の一言。
突然に刺されたような衝撃に、私の心の内側に波が打った。
「……鞘?」
騙されているのかと思い、聞き返す。
夢である気がした。
都合よく、打開策を提示されることに。
「ふむ。どういう理屈か分からぬが、見たところ、その鞘には魔力が付与されているのだろう?」
頭が揺れるような感覚。
私は息を呑み、茫然と魔獣のことを見た。しばらく体のどこからも、声が出てこなかった。どこか遠いところへ散り失せてしまいそうな私の魂に、鞘という単語が楔を打って繋ぎとめる。
『その鞘には魔力が付与されているのだろう?』空白があり、脳震盪から目覚めるような感覚で私の中に入力されていく。
たしかにそうだと、思いながら頭に突き立てたままだった剣を引き抜く。
握れば粉雪のように砕けて私の周囲を漂う鞘など、魔的以外の何者でもないではないか。どうやら鞘は鞘だと、それを武器として使うという発想が、今までどこかへ行ってしまっていたみたいだ。
「よほど腕のいい鍛冶師と見える。余の時代には、そこまで魔獣の力を武具として引き出す技術はなかった」
また、鍛冶師に聞くことが増えてしまった。
ただカルムの者が評価されていることに、不思議と悪い気持ちにはならなかった。私も別に、あの鍛冶師と特別親しいというわけではないのに。
「ただ惜しいかな、カタツムリというのは寒さに非常に強い。残念だが、纏う粉雪は余の死因とはならぬ」
そう簡単にはいかないらしい。
私は魔法使いではないため、元よりこの粉雪を操って攻撃することは出来ない。あとはこの鞘で殴る他ないのだが、果たして、魔獣の巨体に対して武具の暴力が通用するのかは怪しいところだ。
魔獣の頭に乗っていても何も解決しないため、魔獣から飛び降りて湿原へ着地する。そしてそのまま跳躍すると、金髪の彼が乗る木道へと舞い戻った。
「戻って来たか、突然突っ込んで行ったからどうしたのかと思ったぜ」
戻るなり、金髪の彼が声をかけてくる。
「申し訳ありません。ですが、致命傷を与える方法は判明致しました」
対して、彼は「本当か」と驚いて大きく目を開いた。
「えぇ、魔力が通ったもので攻撃すれば痛手になると。ただ、私は鞘で攻撃しなくてはならなくなりました。魔力は鞘のほうにしか通っておりませんので」
「なるほどな……、オレの腕も通ってはいるが殴り倒すとなるとなぁ」
二人して困り果てる。
彼は眉間に皺を寄せて、悩むように唸った。考えあぐねるように腕を組み、「どうすればいいんだ」と独り言ちる。
私に案はない。鞘で殴っても、はたまた彼の鉄腕で殴ったとしても、あの巨体が揺らぐとは到底思えない。
せめて刃であれば切り裂けたのだが、と思い頭を振る。こうして可能性があるだけでも、鍛冶師に感謝しなければならないのに。
木道をうろうろしながら、「どうしたもんか」と又云った。意味もなく彼はそんなことを幾度か繰り返す。
そして、やがて彼は閃いたかのように手のひらを叩いた。