目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第二章 赫怒せり、黒狼

 暗い淵に引きずり込まれたような感情が、私を吞み込んだ。

 泥を噛むよりも苦々しい。

 眼前の惨状を受け入れることが出来ず、視界はまるで雨が降ってきたかのように遮られる。否、見ることが出来ないように私が拒否している、といったほうが正しいかもしれない。

 今までに、所属していた部隊が私を除いて全滅してしまったことは何度かあった。一人取り残されたことなど経験したつもりだったが、違う。

 あのときは何も感じなかったが、今は前途が閉ざされている。何も見えない。

 手をラッパのように口に当てて、叫ぶ。

 まずは入口にいるはずの者の名。

 巨躯の彼。

 双剣の彼女。

 二つの肺いっぱいの息を使い切るまで喚いた。

 それでも返ってくる応えはない。

 何もない、夕暮れの虚空にただ私の叫喚だけが木霊する。

 知っている者の名を叫んでいく。

 村長。

 ロラ。

 長鎗の彼女。

 歌うたい。

 誰か。

 誰かいないのか、と。

 腹の底から、どうか、という心持ちで。

 ちょうど、夕方がすんだのちの空を、慌ただしく白い雲が次々と走り過ぎていくよう。胸に苦しい波が押し寄せて、不安が心の平衡をさらに狂わせていく。

 一生の危機に立ったような焦燥が、昏い海に落ちた感覚にさせる。呼び続けていないと、そのまま溺れていってしまいそうだ。

 叫ぶ。

 身体の中にあるものを力の限り嘔吐するように。

 すると答える者があった。


「ん? もしかして、その感じは騎士様かしら」


 彼女の声は穏やかなまま、この惨状に溶けていく。

 かつんという、杖を突く音と共に。


「……あなたは」


 彼女もまた、村人の一人である。

 破壊され尽くした村には不相応な、土汚れひとつない装い。紺色のベルベットのワンピースに、どこか遠い場所からやって来た証である、青い髪。足が悪いらしく、その手にはいつも杖が握られていた。


「ヴィルヘルミナ様」


 呼びかける。

 これはどういうことかと。

 その、蹂躙されたカルムなど気にもしないその態度は何故なのか、と。


「これはどういうことでございましょう。何故、カルムが破壊されているのですか。他の皆は?」


 こころなしか早口になる。

 どうして、そんなにも落ち着いていられるのか。移民だろうが、今までずっと暮らしてきた村だろうに。

 思って、しかして否、と頭の中で言い消す。そもそも、私がそういう人間だったことを思い出したがゆえに。駐屯地とした村がその後、敵兵に焼き払われてしまっても何も思わない、そんな人間だ。なので、彼女に対して何か言う資格はない。

 そこまで至ると、鋭かった感情が少しだけ溶けていく感覚があった。


「まあまあ、少し待って」


 言って、手に持った杖で瓦礫と化した村の一部を突いた。

 途端。

 押しつぶされたかのような家々の塊。その光景が、どういうわけか一瞬にして見慣れたカルムの風景へと成り代わった。まるで絵画をめくったら、もう一枚絵が現れたかのように。

 私はその現象の意味が分からなくて、思わずこれはと呟く。沼にでも踏み入れてしまったと思うくらい、考えてもただ深みに入っていくだけの事象であった。

 理解出来ない現象、つまりは魔法の類。

 村でも頻繁に会う者とそうでない者とがいるが、彼女は後者だ。なので、私は彼女が魔法使いだということを知らなかった。いいや、まだこれが魔法だと決まったわけではないか。


「急務でね、驚かせしまったことには謝るわ」


 身悶えるような溜め息。


「本当に、破壊されてしまったのかと」

「騎士様がいないときに魔獣が接近して来たの。風景を貼り付ける魔法で騙して帰ってもらったけど」


 腑に落ちる。


「なるほどそれは、良き判断でございました」

「いえ、命を感知する魔獣じゃなくて良かったわ。みんな家で身を潜めているだけだからね」


 そういう魔獣もいるのかと、胸に仕舞う。気配に敏感な個とは違うのだろうか。もしそのときが来たとき、すぐに記憶を取り出せるよう、覚えておこう。


「ではみな無事なのですね」

「えぇ、とりあえずは」


 強張っていた四肢が、ふわっと柔らかくなったような気がした。温かい湯を浴びた瞬間のような安堵感すらある。


「騎士様、帰ってくる途中、魔獣には会った?」


 脳を掘り起こす。


「いいえ。少なくとも、帰還の最中に敵対行動をとった記憶はありません。……どのような魔獣ですか」

「狼の魔獣よ。とても巨大な、ね」


 嫌な予感が背筋を冷たく流れた。

 巨大な狼の魔獣。

 その呼称に、自分の心がざわざわと波立つのを感じた。あのときの恐ろしい視線が、瞬時に身体中をかけめぐる。

 覚えているのだ。

 捕食されなかったのは恐らく気まぐれだろう。それくらい、あの魔獣は圧倒的な存在であった。仮に今回の襲撃者があの魔獣だった場合、果たして相手取れるのだろうか。


「ところで騎士様、わたしも気になることがあるの」

「はい、何か」

「その手に持っている物は何?」


 湿原から当然のように運んできたため、失念していた。たしかに、紅い目玉など持って帰って来たら疑問に思うのは当然である。そして、質問されることも至極当然のことだろう。

 ああ本当に、すっかり忘れていた。


「これは討伐した魔獣の眼です。加工できる鍛冶師がいるのなら、持っていけと」


 対し、彼女は無理矢理作ったような微笑を作った。

 それはそうだ。使えるからと言って、いきなり魔獣の目玉を持って帰ってこられても反応に困るだろう。


「えっと、じゃあとりあえずブリジットのところかしら。それを持って村長のところ行くっていうのもね」


 首肯する。

 問題は、鍛冶師が起きて活動しているのかという話だ。

 ロラの話では朝に弱いにも関わらず、寝足りないとまた眠ってしまうこともあるという。

その場合は仕方がない、一端ロラの元へこれを置きに戻る他ない。まあ、ロラの反応は見て取れるが。


「そう。でも、気を付けたほうがいいわそれ。ブリジットだから心配はないと思うけど、はいどうぞと渡すには禍々しいが過ぎる」


 ひどく神妙な顔つきで、彼女は言った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?